ACPについて思うこと~困ったら声に出そう

今朝、SNSで以下の記事を読みました。

『もしも一年後、この世にいないとしたら』という著書がある

国立がん研究センター精神腫瘍科の清水研先生のコラムです。


『もしも一年後…』がもしもじゃなくなった日。

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夫ががんを告知されたのは、2014年12月4日。

忘れもしない、長男の誕生日の日でした。

主治医は告知の時に、余命を告げはしなかったのですが

「治療の意味は延命」という言葉に衝撃をうけ

主治医に食らいついて、どれくらいの見通しかを聴いた時に言われたのが

『桜は見られないかもしれません』という言葉でした。

ドラマみたいだ…と、まるで天井から自分を見つめているような気持ちになりました。

これからも続くと思っていた日々が、一瞬にして

数か月と言われてしまった時、

受け入れるも何も、自分の周りのものの色が全てなくなり

音は遠くで聴こえる耳鳴りのようになりました。

もしも一年後ではなく、

いなくなることが確かなこととして目の前に現れた瞬間でした。


人間はこんなにも泣けるのだと思うくらい

歩いていても、寝ていても涙が流れ続けました。

嗚咽してなくという感じではなく

無表情で、とめどなく涙が流れ続けるという状況でした。



クリスマスが近く、さらに年末年始という家族を強く感じる時期に

突然伝えられた宣告。

街ゆく人を呆然と見ながら『あの人たちとは違うんだ』という

孤独が全身を包んでしまいました。


コラムの中で、清水先生が、この厳しい状況の中で

「その人の精神が崩壊した」と私が思ったことはありません

と書いていらっしゃいますが、崩壊するも何も、何が起こっているのかがわからず、頭は呆然としていて、生きるために涙が流れるのかなと思うような

静かで、とらえどころのない暗闇でした。

どうして取り乱さなかったんだろう

と以前のnoteにも書きましたが、取り乱すエネルギーも無かったのかもしれません。


とにかく何かしなくちゃと思ったのか、夫は、自分の周りの整理に

一日のほとんどを使っていましたし、私は命に繋がる情報を求め続けました。立ち止まることはなく、動き続けていました。

そうするしかない毎日だったと思います。

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)

厚生労働省のHPを見ると

自らが望む人生の最終段階における医療・ケアについて、前もって考え、
医療・ケアチーム等と繰り返し話し合い共有する取組を「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」と呼ぶと書いてあります。

11月30日を『いい看取りの日』とし

ACPには、意味が明確な単語の組み合わせにより、日常会話に浸透していくことが期待できる。家族等、信頼できる人たちと輪を囲んで話し合う、というイメージが湧くという理由から

『人生会議』

という愛称が会議で決められていきました。

愛称…どうしても、私には馴染むことができない感覚です。


「確実にいなくなる」という状況を目の前にして

私たち家族は、本当に真剣に最期について話し合いました。

最期は自宅で

このことは、家族で一致して出した結果です。

でも、以前に書いたように、夫は自宅にいることができませんでした。

それは、想像を絶する呼吸苦と痛みが彼を襲ってしまったからです。

この時、家族で話し合っていた〈最期は自宅で〉が私たちに

重くのしかかりました。

決めたことを叶えてあげられない罪悪感。

苦しむ夫も、話し合った方向を変えてはいけないのだと思っていました。

夫は、生きている日々が家族への負担になると思っていきました。

家族は呼吸苦に対して何もできないことに無力だけを重ねてしまいました。


その経験から私が思うことは

その時の最善を常に、一緒に考えられる医療者の必要です。

決めたことを変える方がいい結果になることもある。

それも知ってほしいです。

一緒に考えていける医療者がいれば、不安が減り選択肢は広がります。

これは、最期の時だけではなく、告知の瞬間から必要なのだとも思います。

その全てを治療に携わる主治医が抱えるのは無理だとも思います。

だからこそ、告知以後の早期から、主治医以外の医療者も共に支えていけるように

つなぐシステムが必要なのだと思っています。


ACPの観点でいえば、話しておくことは、大切だと思いますが、

両親を突然死で亡くした経験からすると、最期のことを具体的に話していなくても、その人を想えば、必ず見えてくる方向があるとも思っています。

一人で抱え込むのは、不安であり、孤独です。

孤独にしない

そのことが、何よりも大切なんじゃないかなと思います。

レジリエンス

清水先生のコラムの中に、

さまざまな喪失を認め、新たな現実と向き合う力

とありました。

私の感覚では、それでも朝が来るので、生きていくために何らかの折り合いをつけていると感じていて、

新たな力という感覚はわからないでいます。

乗り越えてもいないし、立ち向かおうとも思っていないし

時折、ポコッと暗闇に堕ちそうな感覚を今でも感じています。

新たな世界観を見つけていくとして

心的外傷後成長(Posttraumatic Growth : PTG)

とも言われているそうですが、今の私は

まだ、これもピンとはきていません。

コラムで清水先生が触れられているように

どんな状況でも成長しなくては、前向きにならなくてはと思ってしまうことは、とても危険だと思います。

神様は超えられる人にしか試練は与えないと言われたりして

「超えられない人でいいから試練はいらない」と思ったりしましたし、

超えられないことがあるからこそ、「神様」って祈っているような気もします。


明日、何が起こるかわからない。

だから、後回しにしないで

伝えたいことは今、言った方がいいよ。

行きたいところに行こう。

こうなったらいいなという計画は必要。

夢は人生に彩を与えてくれる。

ただ、思い通りにいかないことは努力が足りないわけじゃない。

困ったら声に出そう。

ACPはどう最期をむかえるかを話し合うというより

どう生きていくかと言う話し合いかなとも思っています。

また、年末が近づいてきました。

あの時の私のように、絶望と喪失感を抱くからこそ

世間の賑わいが、自分とはまったく違う世界に思えて

辛い時を過ごしている人がきっといると思います。

泣いていいんだよ

思い通りにばかりはいかない。

今、孤独を感じている人に

『声に出せば、きっと誰かに届く』と伝えられたらいいなと思っています。






全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。