「最期は…」は、毎回叶わなかったけれど~後悔のない最期ってなんだろう

前回のnoteを多くの方に読んでいただき、本当にびっくりしました。励ましの声もいただき、感謝しています。ありがとうございます。

こんなに読んでいただき、どうしようと思ったのですが

SNSで『臨終』『医師との対話』が話題なのを読み、これにも

伝えたい想いがあるので書いてみようと思いました。

【義父の呼吸が止まるのは、家族で確認した】

2011年5月、義父を自宅で看取りました。肝細胞がんでした。

3月に「これ以上、治療はできない」

と言われました。

義父は抗がん剤ではなく、塞栓術という外科的治療を何回も受けていましたが、それに限界がきたことを伝えられたのです。

緩和ケアの話もなく、私たちも理解していませんでした。

当時、私は仕事を持っていて、自宅介護の負担は義母にいくと考え

義父も家族も、病院で過ごすことを願いました。

しかし、病院からは「2週間で出て行ってもらいます」と言われました。

どういう意味かと尋ねると、「2週間で旅立たれるということです」という返事が返ってきました。

耳を疑いました。

積極的治療(私はこの言葉に違和感を感じていますが)ができないと

病院にいることすらできないという事実が私たちに突き付けられました。

私たちは自宅に義父を連れ帰りました。

4月の初めから、自宅での看護が始まりました。

義父の主な症状は、せん妄と、かゆみでした。

目を覚ますと、実際には無いものが見えて怯えました。

かゆい、かゆいと叫び続けるのを、家族で交代で摩りました。

3週間経った時、訪問医に『終末期鎮静(セデーション)』

切り出されました。

当時、まったく、そんなことがあることも知らなかった私たち家族は

呆然とし、特に孫である私の息子は、医師に「殺すというのか」と食って掛かりました。

鎮静はしない。それが家族で出した結論でした。

しかし、義父のかゆみとせん妄は、日に日に強くなっていきました。

ある時、床にしゃがみこみ、義母が叫びました

「もうやめて。これ以上、お父さんを苦しめたくない。」

重い言葉でした。

その一言で、

私たちは終末期鎮静を申し出ました。

鎮静をかけたら、すぐに別れがくるのだと思っていましたが

義父はそこから2週間生きました。

眠る時間が増え、起きて苦しむと、また眠らせるということが続きましたが

その間、意識はあり、会話ができることもありました。

いよいよ別れが近いと感じたある日、私たちは医師に

下顎呼吸という話をされました。

この状態になったら、別れは間もなくやってくると。

義父が旅立つ日、苦しそうになった義父を見て、訪問医に電話をしました。

「下顎呼吸、わかりますよね?そうなったら目を離さないでください。

そして、呼吸がとまったら、時間を確認し、もう一度、電話をください」

医師は側にいないのか…。

そこから、家族全員で、父の周りで声をかけ続け、いよいよ

下顎呼吸なのだとわかってからは、泣きながら父の呼吸をみつめていました。

日付が変わってから、義父は旅立ちました。

医師は死亡確認に来ました。

【最期は自宅でが叶わなかった夫】

義父の経験があったので、私は夫は自宅で看取れる自信がありました。

夫とも、何回も話し、夫も自宅を希望していました。

患者会を立ち上げ、少しは知識が増えた私たちは

早くから緩和ケア外来に通い、もしもの時のために緩和病棟の希望も出し

終末期になるまえから、訪問医、訪問看護をお願いしました。

主治医、緩和医、訪問医

3人の医師がついている。大丈夫だと思っていました。連携もお願いしていました。

自宅に看護用ベットを置くために、私はピアノを手放しました。

当時、私は火事で実家を失い、両親もいなくなっていました。

ピアノは、決して裕福ではなかった両親が、私のために、精一杯の想いで

買ってくれたものでした。

ピアノが家から出ていくのを見て泣いたのは夫でした。

「僕のせいで…、ごめんね」

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夫は、がん性リンパ管症というものになり、ひどい呼吸苦になりました。

骨転移もしており、絶え間ない痛み、身の置き所のないだるさに

苦しむ日々になりました。

食事ができないので、高カロリー輸液を自宅でできるよう

病院で私も習い、針の差し替えは訪問看護の方に助けていただきました。


それでも、自宅に訪問していただけるのは24時間のうち、長くても1時間。

ほとんどの時間は、私に託されています。

絶え間ない呼吸苦が一番つらいものでした。

どんなに酸素を調整しても、苦しさはとれません。

夫は、自分が生きれば生きるほど、私を疲弊させると思い始めました。

私は、時折「これがいつまで…」と頭をよぎってしまう自分が情けなく

自分はなんて冷たい人間なんだと思いました。

そんな様子を見ていた訪問看護の看護師さんが、帰りに、私だけを

自宅の外に呼びました。

「このままでは、ふたりとも壊れてしまう。大切な時間が、辛い思い出だけになってしまう。

レスパイトということを知っていますか?

ふたりのために、休憩が必要です。

でも、一度、病院に行って、再び帰れるかはわかりません。

それはふたりで相談して決めてください」


夫と相談し、緩和病棟への入院を希望しました。

しかし満床でした。

そこで、治験をうけるために通っていた、自宅から2時間かかる病院にいる

主治医に連絡し、一般病棟で受け入れてもらうことになりました。

病院では、痛みや呼吸のコントロールが自宅よりうまくいきます。

夫に笑顔が戻りました。

入院したのは一般病棟。

その病院も緩和病棟は満床でした。

先にお願いしたあった都内の緩和病棟は、ベットが空いたら連絡してくれることになっていました。

そこで、夫は個室に移してもらい、連絡がくるのを待ちました。

そこに家族が訪れたくさん話す時間を持つことができました。

夫はいつしか、自宅に帰らなくていいと言い始めました。

家族とゆっくり過ごしたい。それが一番の願いだからと。

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なかなか緩和病棟は空かず、ベットが空いたと連絡を受けたのは

夫が旅立った後でした。

でも、いい最期だったと思っています。

最期まで、主治医が側にいてくれました。

家族全員が、旅立ちの時にいることができました。

看取りも、看護師さんが側にいてくれました。

そして、何より、夫と家族は、とても濃い時間を過ごし

話したいことは全部話すことができたからです。


夫は最後に、自分で終末期鎮静を申し出ました。

その時、家族全員がその時だとわかりました。

「これから眠るね」とみんなに声をかけ

私には「あなたと共に歩めてよかった。ありがとう」と。

子どもたちには

「心配しなくても、お母さんには助けてくれる友達がきっといる。

だから、自分の人生を、思い切り生きなさい」と。

そして、逆縁になる義母には、手を取って

「先に死んでしまってごめんなさい。

僕はあなたの子供で幸せでした」と言いました。

それが、彼の最後の言葉でした。

『最期は自宅で』の想いは叶いませんでした。

自宅にいたいということはなんなのだろうと思っています。

それは、家族と一緒にいたいということなのではないか。

だとしたら、夫は願いを叶えました。


【ACPに思うこと】

以前、書きましたが、私は母を火事で亡くし、10分以内に生命維持装置をつけるかどうかを決めてくれと言われた経験があります。

一緒に過ごしてきた日々を想い、そこから至る決断をしました。


義父の時も、夫の時も、本人と家族は話し合っていました。

でも、状況が違っていたのです。

世間的には、自宅で看取ったほうが愛があるようなイメージができているように感じることもあります。

それは、義父を自宅で看取ったというと、ねぎらわれ

夫は病院で亡くなったというと、「どうして?運び込まれたの?」と

必ず聞かれるから感じるのかもしれません。


希望の会の会員の中には、急に病院から出されたと思う離れ方をし

うまく在宅につながらず、または、在宅医とのコミュニケーションがうまく取れず、

子育て世代では、生活のために仕事を休むことが難しく

結局、自宅で患者さんが一人で、ほとんどの時間を過ごしているという事例がいくつもあります。


人生の最期を考えるのではなく、

どう生きていくかを考えるのが、後悔のない最期につながるのだと思います。

がんである夫に「代わってあげたい」と言った母が

先に火事で死にました。

明日、何が起こるかわからないし

人は、誰でも、いつかは旅立ちます。

だったら、どう生きていくのかを、なにかのきっかけで

考え、親しい人と話すことが

後悔のない最期につながるのではないでしょうか。

そして、もうひとつ。

私たちが、方向変換を決断できたのは

医療者の意見を聴けたからです。

あの時、【レスパイト】を教えてくれたから。

家族ですごせるように個室へ移してくれたから。

別れの時が近いことを感じている私に

「大丈夫。必ず一緒にいるから」と看護師さんが肩を抱いてくれたから。

医療者が、そこにいたから、最善の方法に切り替えていけたのだと思っています。

医療者の伴走は、何よりも大切なことだと思うのです。

それは、一朝一夕ではできないことだとも思うので

早くから、複数の医療者、支援者と繋がる道を確立してほしいと思っています。








全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。