なんで私は取り乱さなかったんだろう

朝、目に飛び込んできたのは首里城が燃えている光景でした。

夫を亡くした年の暮れ、私は娘と沖縄を訪れました。

夫はとうとう沖縄に行くことができなかったのですが

「首里城を見たい」とよく言っていたのです。

夫を連れていくような気持ちで

私は娘と首里城を訪れました。

壮大な空気と、鮮やかな赤に圧倒されました。

その首里城が炎に包まれていました。

画像1


私は2014年の1月に、実家の火事で母を亡くしています。

火事の原因は、電化製品からの出火でした。


母の死因は、一酸化炭素中毒です。

出火に気づき、消火器で火を消そうとし、煙に包まれて亡くなってしまいました。

火事で亡くなったというと、必ず聞かれるのが、火事の原因であり

その後、なんとなく躊躇いがちに聞かれるのが、母の状態です。

「生命維持装置をつけるかどうか、10分以内に決めてください」と

駆け付けた病院で医師から言われたとき、

私は、まだ母に会っていませんでした。

私は、母を見て、どうなっちゃうんだろう…と震えました。

怖かったです。


「最期まで耳は聴こえますから、語りかけてください」と言いながら

看護師さんが、母を私の待つ処置室(病室ではなく、多分、手術室の隣の部屋)に運んでくるまで、どれだけの時が経ったのかもわかりません。

「毛布は取らないでくださいね。この線がフラットになったら教えてください」

そう言い残して、誰もいなくなりました。

私と母だけになりました。

誰も側にいなかったのは、私への気遣いだったのでしょうか。

怖かった。叫びたかった。

でも、私は「はい」と言い、ずっと母に語り続けました。

言われたとおりに。


母の顔は奇麗でした。

「毛布を取らないで」という言葉で、私は母の状態を察しました。

それから、言われたとおりに、機械のラインがフラットになるのを確かめ

看護師さんに声をかけました。


その後のことは、よく覚えていません。

「ご愁傷さまでした」と頭を下げる方々が、医師なのか、看護師さんなのかもわからず、

うながされるままに移動し、そこには警察が待っていました。


私は、実家が火に包まれるのを見たわけではありませんが

それから、消防車のサイレン、火事のニュースが怖くなりました。

火、そのものが怖いとも言えます。

蝋燭もお線香も怖い。

花火も見れなくなりました。

今朝、なぜだか炎に包まれる首里城の映像から、私は目が離せなくなりました。

そして、思いました。

なんで、あの時、私は取り乱さなかったんだろう…

ひたすら、そう思いながら、ニュースを伝える画面をみつめていました。



そんな午後、注文していた『急に具合が悪くなる』が自宅に届きました。

この本は、もともと読もうと思っていたのですが

私が信頼している医療者からも勧められ、注文していました。

読み進めていくうちに、朝、感じた

「なんで取り乱さなっかったんだろう」が大きく膨らんでいきました。


「急に具合が悪くなる」は、がんを告げられ

医師から「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われた哲学者である

宮野真生子さんと、人類学をご専門とする磯野真穂さんとの往復書簡です。


「急に具合が悪くなるかもしれない」ということは

死は誰にも等しくやってくる。でも、今ではない

という状況から

続くと思っていた人生に

現実味をもって、死が生活の中に入ってきた

という状況です


夫が余命と共にがんを告知された瞬間から

死は、概念ではなく、目の前に現れたものでした。

その時、夫も、私も、まずは、自分の状況が

誰かの迷惑にならないように、つまり責任あることを

終うことに取り組んでいったのです


クライアントを持つフリーの立場にいた夫は、

抱えている仕事をやり遂げることと

自分がいなくなった時に、家族が困らないように

メモを書き残すことに没頭していきました。

がんを告げられた時、ステージに関わらず

誰もが自分の死を『いつかくるんだろう』から

『いつかはわからないけれど、くる』に変わるのだと思います。

そして、死に向かい、何が出来るのかを考え始めます。

夫のように整理を始めたり

やりたかったことを、出来るうちにやろうとか。

家族も、思い残すことがないようにしてあげたいと思います。

ただ、私は、夫の告知の数週間後に、火事で母を失ったことで

誰もが等しく、明日が必ず来るとは限らないということをも

体験しました。

がんと告げられたから、死をみつめて、今を生きていくのは

どうなんだろうという思いと

一瞬にして消えてしまうのではないのだから

まだ、やれることはある

と考えが同時に浮かびました。

それが、この人のために出来ることはなにかに繋がり

私が情報に溺れて行ってしまったことにも繋がっていたのかもしれません。


母の時にも、夫の時にも共通していたのは

ひたすら取り乱すということをしなかったこと

母の時も、夫の時も、私は理不尽を感じていたのに

私は、その気持ちを声に出さず、ひたすら出来ることを探していったのです。


あの時、夫も私も

取り乱してよかったんだと思います

頑張らずに

あの時に、ふたりで泣いてもよかったんだと思います。


思えば、治療の日々は選択と努力の連続でした。

医師の言葉を必死に理解しようと思いました。

なにか出来ることはないかと探しました。

善意から寄せられる本、サプリメント、お守り

がん封じのお寺の情報…

どれに対しても、真面目に向かっていきました。


本当は、疲れていました。

目の前に現れることを、必死で考え、選択をしていくことに

疲れていました。

でも、

そこで気を抜いたら、真っ逆さまに落ちて行ってしまうのだとも思いました。


「ラインがフラットになったら教えてください」

と言い残され、母とふたりにされた時、

医療は側にいてくれないのだと諦めてしまいました。

なんで、あの時に、

「一緒にいてください」と言わなかったんだろう

『口に出したら、落ちてしまう』

治療の日々で、夫も、そんなことを言ったことがあります。

受け入れないで、泣きわめいたらどうなっていたんだろう。

むしろ、その方が、正直な姿だったのだと思います。

本当は、一緒に考える人がいてほしかった。

なんでもかんでも、受け入れなくてよかったんじゃないかという想いが

今、私を包んでいます。









全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。