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暑かった日の紅茶

小さな頃から私は茶の類が大好きだった。ばあちゃんの家に行くと急須で玄米茶を入れてくれて、その行為がいいなと思った。玄米茶の葉っぱは円柱の筒みたいな入れ物に入っており、中に小さなポップコーンみたいな白いのと茶色い米粒みたいなのが入っているのもなんだかいいな、と思った。

実家の裏庭にはどくだみが生い茂り、母はそれを乾燥させて煮出してどくだみ茶にしてくれた。麦茶よりも冷えたこれを飲むのが大好きだった。

紅茶に興味を持ったのは魔女の宅急便をみたとき。キキが魔女のひとり立ちに出かける前、準備をしているシーンで紅茶の缶らしき入れ物からお金を取り出すシーンがあって、それがとても素敵だったのを今でも覚えている。私も紅茶の缶を貯金箱にしたいな、と思った。家には食器棚が二つあってひとつは普段使いの台所にある棚、そしてもう一つは応接間にあるちょっと品のよい食器が並ぶ棚だ。応接間の棚には普段使わない色々な物が並んでおり、その中に幾つか紅茶の缶があったのを思い出した。
いたずらをするような感じで少しドキドキしながら棚の中を物色した。母はすぐ怒る人だったけれど、私と妹が普段使わない高そうな食器で奥様ごっこをしても叱らなかったので、何となく大丈夫な気がした。コーヒーサイフォンのすぐ下にオレンジ色と紺色の紅茶の缶を見つけた。手に取るとカサッと音がして、まだ中身が入っているのがわかったので少しがっかりした。すぐにその缶を貯金箱として使いたかったのだ。
私は母に言ってその紅茶の中身を早急に消費させるべく、紅茶を淹れてもらった。やかんでお湯を沸かし、母が親友から結婚祝いで貰ったという白地に藍色の花が散りばめられた素敵なティーポットに、茶葉を三匙入れる。そして沸騰したお湯を勢いよく注いで少し待つ。ひらひらしたティーカップとお揃いのソーサーを並べて褐色の液体が注ぎ込まれる。それはひとときの魔法であって夢のようだった。その時当然のように家では砂糖もミルクもいれなかったので、私は緑茶と同じようにストレートで紅茶を飲んだ。その液体は緑茶よりも香りが良くて、少し渋みが強くなんだか少しだけ大人になった気がする飲み物だった。

その日から私は中身を消費させるべくせっせと紅茶を飲んだ。ついに空っぽになった缶にお金を入れた時、蓋を閉めて振ったらかんかんかん、っと音がする。それが誇らしくて、今でも缶にお金を溜め込む癖が抜けないのだ。
紅茶の熱はそれからも冷めず、いくつか新しい缶入りの紅茶を買ってもらった。

そんなある日の事だった。その日、何故だかすごく暑く空気は乾燥し、そんな最悪な天候の中運動会の練習をしておった。持ってきた水筒の中身はとうの昔にからっぽで、私は水道の蛇口の事しか頭になかった。隣にいた子が大きな水筒からまだたっぷりあるであろう中身を注ぎ、ぐぐっと飲むのを私はきっと物欲しそうに眺めていたのであろうか?その子がちょっといたずらそうに「飲む?」と聞いてきた。私はちょっと恥ずかしかったけど思い切って「うん」と言ってみた。
渡されたカップに注がれたそれは少し甘く紅茶のような香りがした。私はのどがカラカラだったので一気にぐぐっと口の中に注いだ。キーンとのどを潤すその液体は爽やかな飴玉のような、魔法のポーションのような驚きの味だった。私の知っている紅茶の何千倍もおいしいと感じた。もしかしてこれは紅茶ではないのかもしれない、そう思って恐る恐る聞いてみた。しかしそれは紅茶だった。強いて言えば、砂糖と氷たっぷりの甘い甘い紅茶だった。

彼女のお母さんは小さな頃アメリカから来たらしく、彼女にもアメリカ人の血が少し入っており、透き通るような白い肌がちょっとうらやましかった。しかしお母さんは小さい頃随分と苦労されたようだ。お母さんはアメリカのアイスティーの味をずっと覚えていたんじゃないのかな、って思う。おばあちゃんか誰かが作ってくれた甘くてキーンと冷えた南部のアイスティー。ずっと頭の中をめぐりめぐって、どうしても再現したくてずっとずっと思いを馳せていたそんな懐かしい味。もう会えないかもしれない味、忘れたくない味。そんな魂のこもった味だった。
私にはどうあがいても再現できない味。
だから私は未だに紅茶はストレートで飲む。
子供達もストレートでぐびぐび飲む。
これが我が家の味だから。

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