空が青くて君がすきで 2064.1

舞台は2064年。社会人みどたてが未来北海道に引っ越してから、さらに月へ移住するまでの日々。その一日を一話ずつ、日記のように描いていく試みです。

いきなり楯くんが謎の全身超むくみ症状を呈しており、緑がその看護・介護をしているという特殊な状況から始まりますが、さきに『幸せになりやがれ』を読んでおくと、そのあたりの事情がわかりスムーズに読み始められますのでぜひおすすめしたいです。

*この作品は投げ銭制で公開していますが、全文無料でもお楽しみいただけます。気に入ったら記事下部よりサポートお願いします~🍑


1月1日 元日に願うこと

 このごろ、自分が子どもになっている夢をよく見る。
 たとえば、体が小さくて非力なおれが、巨人だらけの街に迷いこんで踏みつぶされそうになりながら必死で親を探している夢。登っても登ってももくずれてしまう白い砂の山に手をつっこみ、息をきらせてなんとか登りつづけている夢。
 緊張感の強いハードな夢ばかりだ。走ったり砂をつかんだり登ったりという感覚は体に重くのこっていて、目がさめるなり疲労している。しかしそういう夢のなかでは、なにかを解決したり発見したり、やりとげたりしているようで、心は達成感や爽快感に満ちているのだった。
 寝ているあいだにひと仕事終えているかのような、なかなか興味深い現象なのだが、ゆうちょうに夢日記をつけるといったひまはなく、起きたらまずは荻原楯のバイタルをチェックするという日課が、おれ――兼古緑には待っている。
 その朝はアラームよりもはやく鳥の鳴き声に起こされて、空の明けきらないうちにふとんを出た。カレンダーは2064年1月1日。
「あけたぜ、おめでとう」
 居間のまんなかでクッションに座る荻原の検温をし、さらに胸や胴や手首足首など身体各部の計測をする。体温は変わらず三十四度台で冬眠状態だ。そのほかの数値は右肩さがり。いまの彼は全身にまだむくみがあり、まぶたも腫れて遮光器土偶っぽい人相になっているものの、秋にここで初めてそのすがたを発見したときよりは異様な感じがうすれ、もとの体形に近づいてきている。さらに下着のなかの吸水シートの重さをはかって排泄量もチェックし、「よしよし」と思わず声が出る。体にたまっていた水がいい感じに出ていっている。
 それからおれは歯をみがき、顔を洗ってひげをそり、身じたくを整えた。
 元日か。
 この地、未来北海道は十勝北部の未来鹿嘗町字鶴寝(みらいしかなめちょうあざつるね)の一軒家にたどりついた日から三か月ほどが経とうとしている。
 あの夜、ここで再会した荻原はひどいむくみではちきれそうにふくれあがっており、もとの彼の容貌をすこしもとどめない怪物めいた外見になっていた。なのに、おれにはこのものいわぬ巨大水風船のような存在が、未来東京でともに暮らしていたパートナーの変わり果てたすがただとすぐに理解できたのである。新人弁護士だったおれは仕事の重圧に耐えられず、ストレスのはけ口を、あろうことか彼に求めてしまった。いつも精神的に余裕のない自分にくらべ、楽らくと生きているように見える彼にやつあたりし、日々の会話といえば愚痴ばかり。家のなかの空気はいつも重苦しかった。
 そんな秋のある日に彼はすがたを消した。おれは彼ののこしたものから情報をえて、あとは運命に導かれるままにこの家を見つけたのだった。
 おれという人間のいたらなさが美しい彼をモンスターにしてしまった――この異常事態をひきおこした原因はそれしか考えられなかった。しかし時たま、彼の大きな体を熱いタオルでいっしんに拭いたあとなどに、ふっと、どんなかたちでもいいから彼を独占しつづけたいというおれのゆがんだ望みを叶えてくれるために、彼がこんな変身をしてくれたのだという考えが降りてくることもあった。真実はわからない。ふたたび出会ってからの荻原は、腫れあがった顔の、触れれば破けてしまいそうな唇を一文字に結んだままひとことも発さないのだから。
 未来東京で勤務していた事務所を辞め、おれはこの3か月、雪深いいなか町の片すみの家で、彼の世話を焼くことに専心している。これまでの26年と数か月の人生でもっとも奇妙で、かつもっともおだやかな時間だ。いまの荻原は目もひらかず、なにを話しかけてもひとこともかえしてはくれないが、おれが語りかける言葉はみな彼のなかにしみこみ、受け入れられている気がする。以前は聞くにたえない愚痴をたれ流して、彼がそれに返事をしなかったりうわのそらのような反応をすると、おれは怒りだけでなく彼に理解されないさびしさに、いっそう声を荒げて「聞けよ」としつこく食いさがってしまった。そして、むりやり話につきあわせたあと、いまの自分は幸福そうな彼とつりあっていないように思え、このままではおれは彼においていかれてしまうのではないかという焦りと恐怖でいっそう苦しくなっていた。
 ほんのひとつまえの季節までそんな日々を送っていたなんて。
 毎日エンドレスの鎮魂曲のように降る雪を窓から眺めて、ストーブで暖めた室内に彼とふたり、ほかになにもいらないという気持ちが深まっていく。いつかは彼が回復して、おれも弁護士業に復帰するんだろうと漠然と思ってはいるが――いまの自分があの現実にまたもどれるものなのかしらと、他人ごとのようにふわっとしか考えられない。
「ここで新年を迎えることになろうとはねえ」
 おれは横たわっていた荻原の上体を起こして、大きなクッションに座らせる。彼の口もとにタオルをそえながら、唇のすきまにスプーンでスープをすこしずつ流しこむ。そののどがごくんと動くのを確認してから、つぎのひとさじを唇へもっていく。十五分かけてカップ一杯を飲ませ終え、おれは彼のぶよぶよとして丸い肩を抱きしめた。
 ここで新年を迎えることになろうとは、などととぼけたことをいっているが、ちゃんと正月の準備はしているのだった。もちろん餅はぬかりなく用意。おせちの全品とはとてもいかないものの、煮豆やきんとん、伊達巻や筑前煮、茶わん蒸しなんかを作ったし、未来北海道では正月に食すという「口取り」と呼ばれるねりきり菓子も買ってみた。口取りは日本古来の縁起物をかたどってあり、おれは鯛と海老、鶴と梅と栗とはまぐりを模したものを買った。年末から一日ひとつずつ、荻原と半分に分けあって食べていてのこりふたつだ。
「はい、けさは煮豆と茶わん蒸し。――見た? じゃあ待ってて」
 おれは料理をまずはそのまま荻原に見せ、それから煮豆はつぶし、茶わん蒸しはミキサーにかけてどろどろの流動食にした。いまの彼は固形物を噛んで食べられないのだ。料理を見せるといっても、瞑目している彼の顔の前にもってゆくだけで、その目に見えているのかはわからない。初めは、心眼というやつで見てくれているはずだと期待する気持ちもあったが、そのうち、きれいに盛った料理を彼に見てほしいと思っているのはおれで、人間らしい反応のなくなった彼の尊厳を守りたいのはおれで――ようするにこれはおれ自身が納得したくてやっている儀式なんだと気がついた。先祖供養なんかも、死者のためとはいいつつ、じつはそれをしている生者自身のためのものだとはよくいうが、看病とか介護とか、人の世話を焼くことなんかはそういうところがあるのかもしれない。
 荻原に食べさせたあと自分も重箱からちょいちょいつまんで食事をし、ジープで町の神社まで初詣にいった。小さな町だが元日の午前にはお社の前に数分ならぶくらいの参拝客が集まっていた。
 行列の最後尾につき、神さまになにをお願いしようかとぼんやり考えた。やっぱり「荻原がはやくよくなりますように」かなとか、「彼のためならなんでもします」みたいな請願を立てる感じかなとか、あれこれ思う。しかし、賽銭箱にいたる階段をのぼり、目の前の家族づれがお祈りを終えてわきへよけて去り、神さまとおれのあいだにだれもいなくなったとき、「このまま」という声が頭のなかに聞こえた。
 このまま――。
おれは賽銭箱のパネルに手を触れてあらかじめ決めていた金額を奉納した。
「このまま彼との幸せな日々がつづきますように」
 手をあわせて口のなかでそうつぶやき、一礼してそこを離れた。
 階段を降りながら、そうか、おれ、いまのままでいいと感じてるんだ、と、神さまの前で思いがけず気づいた自分の本心にしびれ、いつのまにか手ぶくろの両手で胸を押さえて歩いていた。
 荻原の介護はもちろんつづけるし、ふたりの暮らしを快適にするためにおれはあれこれと行動するだろう。でも彼がこれからどうなっていくのかは神のみぞ知るで、おれが彼を変えられると思うのはおこがましいんじゃないか。荻原はどんなおれでも変わらず受け入れてくれていた。おれも彼がどんなすがた、どんな容体であろうともありのままを愛しつづけよう。
 ――でもまあ、もうひとつお願いしていいなら、荻原が治りますようにっていいたいけどな――いやいや、そんなのいわなくたって神さまはとっくにお見通しだろ、と、脳内で会話しながら車に戻った。
 町内に元日から営業しているカフェやレストランはなさそうで、コンビニエンスストア「プリティーマート」でコーヒーを買って店舗前にとめた車中で飲みながら、年賀メッセージを読んだり返信したりした。もと職場の人々や友人知人にたいしては、パートナーの療養のために未来北海道に移住したという説明をしているので、そのことを気づかった内容がおおい。おかげさまで快方に向かっていますとほぼ一律の返事をする。
 うちの両親は8年ほどまえ――おれが高校3年のときに離婚していて、いまはそれぞれ再婚して未来東京都内に住んでいる。父とは年にいちどくらい食事をするが母とは何年も会っていない。文面を書いては消し書いては消ししているまに、両脇にとまる車がどんどん入れ替わる。悩んだあげく、さっき初詣をした雪のなかに建つ神社の写真に「いま住んでいるあたりはこんな感じです」というひとことをつけた、内容の同じ年賀メッセージを父と母に送信した。


1月2日 おれも可愛いんじゃないか

 どんなにうまいとわかっていても、餅はまずいよな、餅は。
 朱塗りの椀のなかに、荻原に見せる用の雑煮を盛りつけながらぶつぶついうおれ。荻原になんとかして好物の餅を食べさせてやれないかと――ものすごく細かいさいの目に切ったらどうかとか、粥くらいに柔らかく煮溶かしたらどうかとか、おれが噛み砕いて口移したらどうかとか、夢のなかでまでもんもんとその方法を考えていたが、いい案は浮かばなかった。
 焼いた角餅をひときれ沈めた淡いしょうゆ色のつゆに、小松菜としいたけとゆず、そしてはりきってねじり梅のかたちに飾り切りしたにんじんをのせる。鍋には鶏肉も入っているのだが、ベジタリアンな彼の椀には入れない。そのぶんおれのに入れる。
「はーい楯ちん、お雑煮ですよ。この可愛いにんじん見える? お花さんだよ」
 なんていいながら、完全におれの自己満足だなと思う。いいんだ。わかりきってることだ。荻原のお世話はおれがやりたくてやらせてもらっている。
「ひとりで食べられるようになるまで、これはおあずけ」
 荻原に見せたあとの椀から餅をぬき、そのほかをミキサーにかける。腹に入りゃあなんだって同じだとわかっちゃいるが、ミキサーをオンにするときはいまもちょっとどきどきする。
 流動食になった雑煮(餅ぬき)を荻原に食べさせたあと、窓からの景色を眺めつつ自分の食事をした。この冬、大量の雪がめずらしく思えてテンションが高かったとき、いきおいで庭に作った雪だるま……だったものが見える。雪だるまはそのあともえんえんと降りつづける雪におおわれ、埋もれてしまって、いまは小山のような痕跡をとどめるのみ。
 食べながら、昨日の初詣のことを思い出していた。参拝客の列にならんでいたら聞きおぼえのある声がはしゃいでいて、ふりむきかけてちらっと見えた顔は、たびたび行く郵便局の窓口のスタッフだった。すこし会話をしただけでも頭の回転のはやいのが伝わってくる、おれよりもおそらく年上と思われる女性なのだが、その彼女が、恋人と思われる男の腕に腕をからめてぴったりとくっつき、謎言語を発していたのだ。
「ねーりょんりょぴみゅーやっぱりさ~ジョイチッチりたーい。ふくぶくろ~」
 聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、おれはふりむきかけた顔をさっと前に戻した。
 男のほうは意味のわかる言葉をいう。「じゃあ初売りいってみようか」
「にゃーん」
 彼女はうれしそうにそう発声した。
 その後の彼らの会話を聞いて、というか聞こえて、「りょんりょぴ」は男の名前、「みゅー」は自分の名前、「ジョイチッチ」は未来帯広の雑貨店の名前だと推察できた。
 にゃーん……。
 おれは頭のなかでつぶやく。
 聞きおぼえのある声とはいいつつ、彼女の職場での話しかたは落ちついていて、声も奥ゆきのある低めのものだ。いまはテンションに応じてやや高めでのどにすこし圧がかかっているような響きがある。別人というほどじゃないにせよ無自覚に作っている声というのか。
 彼女はいま、彼のとなりにいることがとても特別で幸せで、楽しいのだ。
 もちろんおれはそこで振り向いてあいさつなどはしなかった。してはいけなかった。
 遠いむかし、荻原とつきあうまえの中高時代のおれならば、他人のそういうふるまいを目撃すると「媚びている」とか「演技している」といった受けとめかたをしていた。自分は運命の相手をぎらぎらと求めているくせに、相手に好意を知られることは弱みを握られることだと警戒しており、素直に愛情表現しあっているカップルを見ると悔しくてたまらない。ひじょうにややこしい青春時代だった。
 しかしいまはもうよくわかっている。人間って、すきな人の前では可愛いもんなのだ。自分でも知らなかった自分が引きずり出され、意地も体面もくずれ去り、家族や友人の前でもしたことのない恥ずかしい顔をいっぱい見せて、それがよろこびだと知っている。
 と、おれは、重箱の煮豆をひとつぶつつつまみながら、少年時代からの夢だった「警戒せずに生きたい」が荻原との暮らしのなかで叶っているありがたさが、しみじみと全身にひろがるのを感じていた。
 あ、でも彼は。職場でも友人や家族の前でもおれの前でも、態度にあまり差がないな。だれにでも親切でスイートで、存在するだけであだに色香をふりまきまくって……そしておれにも優しくてスイートで、やはり湯水のように色香をふりまきまくって。どうなんだろう? 彼自身はほかの人の前とおれの前とでは自身の変化を感じているんだろうか? 彼が話せるようになったら聞いてみたい。
 雑煮の汁を飲み終えて器を重ね、荻原のわきを通りすぎキッチンへと運ぶ。そこでふと「おれは?」と思う。
 もしかして、おれも荻原とふたりのときには可愛いの?
 ほかの人の前と彼の前とではかなり態度のちがう自覚はある。しかしどのくらいギャップがあるもんなのか。
 食器洗いをすませ、おれはクッションに座っている荻原の前に立ち、聞いてみる。
「……ってわけなんだけど。おれってじつは可愛いんじゃねえ?」
 おれは無言で思考していたことなんかもみんな荻原に以心伝心で通じているということにして、「そうだよね?」とだけ声に出してたずねたりする。ペットとのコミュニケーションってのもこんな感じじゃなかろうか。
 まあ、テレパシーでも、じっさいに声に出して話しかけても。荻原水風船は無言で今日も通常営業だ。
 彼の歯みがきをしてやり、おれも歯みがきをする。自分の唇にイルヘルムのリップバームをおおめにつけて彼に口づけし、その唇に塗った。
 乾燥がきびしいのである。


1月3日 咳と恋

 食材や食品の買い出しといえば、鹿嘗町市街地にある農協スーパーへ行く。
 正月料理がつづいてそろそろカレーやラーメン、パン、ケーキなんかが食べたい。練り切りの口取りは昨日食べおわって、感想としては……しばらくあんこはノーサンキュー……。
 香辛料の棚の前でガラムマサラのびんを見ていたら、いくつか棚をへだてた向こうから大きな咳がゴッフ! ゴッフ! と聞こえてきた。
 もっかい来るぞ楯、と、反射のように脳内で彼にいう。そして2秒後にもういちど、こんどはいくらか周囲に気づかった感のあるおさえぎみの咳が聞こえた。
 ほんとだ、来たね。という荻原の笑顔。
 なんで咳って一回で終わんねえんだろうな、と、ちょっと得意なおれ。
「…………」
 そこまでイメージしてきゅうに暗い穴に落ちこむような感覚に襲われ、おれはスパイスの小びんをにぎったまま1、2秒ぼうぜんとした。
 いますぐ荻原に会いたい、もとの彼に会って会話がしたい。聞こえてるかわからないけど伝わってると信じてるとかそんなんじゃなくて、彼のあの特徴ある唯一無二のエレエレした声でおれの言葉にこたえてほしい。無反応な体をおれが抱きしめるだけじゃなくて、抱きしめかえしてほしい。
 ほかにもいろいろ買いたかった気がするが、おれはガラムマサラひとつを買って店を出た。車に乗ってまっすぐに家に向かった。
 家の門には「荻原・兼古」とふたつの姓がならぶ表札がついている。玄関前には未来北海道では「玄関フード」と称されるガラス張りの風除室が作りつけてあって、そのなかに除雪用のシャベルや、「ママさんダンプ」と呼ばれる大型シャベルにコの字型パイプの持ち手がついた大きな除雪用具をおいている。しめ飾りのついたドアをあけておれはふわふわした気持ちのまま部屋にあがり、居間に座っている荻原を抱きしめた。その皮膚はぶよぶよとたよりなく温もりはほのかなものだった。
「やばかった、農協で」
 おれは荻原のひたいにひたいを重ねてささやいた。
「古い感覚がぶりかえした。自分にできることをやるだけだって覚悟してると思ってたのに」
 おれはため息をつく。
「いますぐもとのおまえの反応がほしいって、たまらん感じになってしまった」
 薄暗い部屋のなかで荻原を抱きしめて――といっても、厚くなっているその体にはやっと腕がまわせるくらいなのだが――彼のいまの体温や感触をひとしきり味わうと、おれは体を離して照明をつけた。
 キッチンに立ち、ズボンのポケットに小びんが入っているのに気づいて食卓にのせてみる。ガラムマサラ。どうしてこれだけ買ったんだっけと数秒記憶をめぐらせ、そうだそうだそれで農協スーパーに行ったんだよと思い出す。カレーやラーメン、パン、ケーキ……。
 しかしもういちど外出する気にはなれなくて、パントリーをあさって見つけたチョコレートとナッツのヌガー・バーをかじった。


1月4日 いちご指

 朝から雪。
 しばらく立ち入っていなかった、なんとなくほこりっぽい二階の部屋たちの掃除をした。手を動かしているあいだ、実家や学生時代、仕事中のさまざまな場面がたえまなく頭のなかを流れていた。思い通りにいかなかったことや他人にいわれた承服しかねる言葉なんかがつぎつぎ浮かんで、自分の正しさを証明するために謎の熱心さで脳内反論しつづけてしまうのを止められなかった。
 掃除じたいはたいした作業量じゃないのに、えらく疲労した。というか、滅入った。掃除とは自分のなかのごちゃごちゃと向きあうことなんだろうか。だとしたら、おれはそうとうためこんでいるな。
 マスクはしていたものの、髪や顔にまとわりついたほこりを洗い流したくてシャワーを浴びた。窓からそそぐ柔らかな午後の光と湯気のなかで体を洗いながら、いつしか、ちょっとそとに出ようかなという気分に変わっていた。
 未来浅草で暮らしていたとき、荻原が「風呂に入ればすべて解決する」といっていたのを思い出す。湯につかる時間がなければシャワーでも。そうすればたいていの物憂さは晴れてしまうものだと。それならおれだって「歯をみがく」というのがある。歯をみがけばすべて解決する――学生時代まではたしかにそれは、気分転換スイッチとしてなかなか有効だった。でも社会人になってからは、歯みがきていどじゃ脱せないストレスが増え……。
「どこに行こうとしてるかわかる?」
 おれは髪を乾かして洗面所を出て、居間でテディベアのように足を投げ出して座る荻原の前を通りすぎ、そう声をかけた。寝室のクローゼットから服を選んで居間に戻り、彼の正面に立って着る。彼の柔らかな髪を撫でていう。
「今日はちゃんと買いものしてくるよ」
昨日は思いがけず店内で動揺して予定のものを買いそこねてしまった。ジャンパーを着て、端末と買い出し用の帆布バッグをつかむと家を出た。
「馬」
 玄関フードを出でぎわ、薄く雪をまとわらせている草色のジープに声をかける。馬とは車の人工知能につけた名前だ。馬はライトを点滅させて応えた。
 ドアがひらき、乗りこむと馬のなかはすでに暖かで、「緑さん、お待ちしていました」といって迎えてくれた。
「ありがとう。農協スーパーまで」
「農協スーパーですね。了解しました」
 ジープは秋にここにきてすぐに買った中古。このあたりは車がなければ信じられないほど不便で、荻原の介護をしつつ、家のなかを住める状態に整え、冬への備えもしなければ――という状況では優雅に車選びをしていられず、とにかく雪道でも山道でもまちがいなく走ってくれそうなやつにしたのだった。結果、正解だったらしく、グッドコンディションで頼もしく快適な車が「あたった」。
 「あたる」というのは未来北海道の人が使う表現で、「まずいみかんがあたった」なんていいかたをしているときがあるから、かならずしも当選したとかラッキーな意味ではなく、「自分のところに来た」くらいのことらしい。でもこの言葉を日常で使える素地として、よいこともわるいことも授かりものだという、人知を超えたものの介入を深く了解している受け身の感覚がある気がする。
 農協スーパーの入口に一歩入ると、真っ赤な輝きがバーンと目に飛びこんできた。入ってすぐのいちばん目立つゾーンに旬のいちごが展開されていたのだった。なんだか、いちごに「いらっしゃ~い」と歓迎されたみたいだ。
 ならんでいるなかでもっとも甘い糖度15%というのをかごに入れた。みかんもネット入りのをひとつ。そのほか、メモのものすべて買い終えた。
 車に戻ると、「おかえりなさい」と馬がいった。
「ミッションコンプリート」
「おつかれさまです」
 物資の詰まった帆布バッグを助手席に乗せ、倒れぬようシートにもたせかける。
「どこへ行きましょうか」
「帰る」
「了解しました」
 すっかり家族のような馬だが、彼女(声がアルトに設定してある)は荻原のことを知らないのだよな。
 運転しながら馬と話して、おれには荻原楯というパートナーがいて家で療養中ということは教えてあるが、まだ彼がじっさいに車に乗ったことはない。
 家に着いた。
 みかんをかごにあけて居間のテーブルにのせると、きゅうにそこにぼんぼりでも灯ったように明るんで感じられた。オレンジ色ってすごいものだ。
 いちごにコンデンスミルクをかけてガラスの器に盛った。それを荻原に見せ、鼻に近づけてやってから、いちごをつぶして食べさせる。なんとなく香りは重要で、食べもの――とくにくだものを近づけると彼の鼻がひくひくと反応するので、よくかがせるようにしている。
「さて」
 彼の前でテーブルに座り、端末を起こして弁護士会からの通知を読みながらいちごをつまむ。
 仕事をせず、モンスターめいた容貌となり医者にも見せていない彼とふたりきり、だれも訪れることのない一軒家にこもっていると、おれもまだ人間のかたちを保っているのかしらと、だんだん浮世ばなれした感覚になってくる。町で買いものや手続きなんかをするときや、こうした弁護士会からの連絡や業界紙をチェックするときにだけ社会とのつながりを感じる。つながりというか、遠いところ――人々がいて、問題があり、努力して、解決をしていく世界へと体がぎゅーっと引っ張られるような気がする。
 おれはそこへ戻りたいのか? 戻らなきゃとは思う、生活のためには。いや、そうじゃなく、戻りたいのか?
 このことを考えだすときまって思考停止する。それ以上考えることを脳が拒否しているみたいだ。
 明日はひさびさに無料法律相談に出ることになっている。秋のさなかに実務を離れて二か月あまり。降りこめる雪の檻に彼ととじこめられる日々をすごしているが、おれは、すこしは変わったのだろうか。
 なにげなくつまんだいちごにふと目を落とすと、このかたち、なにかだ、とひらめく。
「…………」
 思いいたると、あ、と声が出た。そのいちごは彼の指に似ていたのだった。側面から見たときの手の親指の第一関節に。
「…………」
 彼の手にまつわるさまざまな記憶が降りてきて、どのくらいの時間か、おれはその場でいちごを見つめたまま固まっていた。
 未来東京に住んでいたころ――おれがさきに目覚めた休日の朝なんかに、となりで眠る荻原を見るのがすきだった。顔や髪はもちろん、手にもよく見とれた。手首のくるぶしや関節のりりしさ、甲のなめらかさと青い血管、指の一本ずつの筋肉や脂肪のふくらみ、深い浅いしわを眺めていたらあっというまに時間はすぎた。凝視しつづけていると肌のうえの微細な網目がぐんぐんクローズアップして見えてくるようで、皮膚はまるで白っぽい土のなだらかな地表で、そこを蟻のように小さな自分がひとりさまよい歩いている空想にふけった。
 荻原のしぐさは静かで優しい。彼は頼まれ仕事をてきぱきと片づけることもできるが、自分のためにすること――身じたくをしたり食べたり飲んだりという動きはゆっくりめだ。毎日じゃないけど、かんたんな料理をしてくれたりもして、包丁をあつかったり調味料を振ったりするその手も美しかった。でもいちばんおれにとって切実な彼の手の記憶といえば、おれに触れるときのにきまっている。
「どうすれば緑はよろこぶの?」
 同居したてのころに彼はベッドでたびたびそうたずねた。
 荻原って、つくづくおれのような煩悩まみれの人間は理解がおよばないのだけど、生まれてこのかた性欲も恋愛感情もないという人間なのだ。おれにたいする感情は愛であって恋ではないと何度かはっきりいわれてしまっている。つきあいたてのころはそれがひじょうにショックだった。
 おれのこの、自分自身が彼のかたちに欠けていて彼にしかそれを埋めあわせられないというどうしようもなさの、数分の一でもおれに感じてほしいのに――彼に求められているという実感がほしいのに。荻原という奴にはいつも、たとえおれが明日消えてもなにごともないように暮らしていくだろうという雰囲気があった。じっさい、大学からの五年間、おれは彼恋しさに針の山を転げまわるような日々をすごしたというのに、彼はのほほんと学生生活とそれにつづく新社会人生活をエンジョイしていたらしいのだこんちくしょう。
 とまあ、話がそれたが、そういう彼であるので、たとえば自慰はあくまでもしかたなくこなす排泄のわざでしかなく、それ以上自分の体で快楽を追及するということがなかったらしい。なので愛しあうときには男とはどうしたらもっと気持ちがよくなるものなのかを聞かれた。いやおれはもう、おまえがなにかしてくれるってだけで……とかなんとかごにょごにょいうおれに、彼はしっとりというのだ。
「なんで遠慮する? 教えてほしい」
 これがほんとに生まれてこのかた恋やら性欲やらがないとかいう奴なのかよ、涼しい顔をして、荻原の旺盛な色香のベッドでの制圧力といったら地上の生物でいえば象、もはや象クラスだ(?)。
「緑いつもいうじゃないか。おたがいの体のことをもっと知ろうって」
 じゃあ、といって、彼の手をとって自分の下腹部につれてゆくおれなのだった。
「…………」
 気がつくと息が乱れていた。さっきより日かげの面積が増えたテーブルのうえで表面の乾いたいちごが器にころがっている。
 ひさしぶりにセクシャルなイメージに浸った。
 ため息をつき、かたえの荻原を見やる。いまのおれは粘度MAXな目つきをしていることだろう。
 おれは座ったままずりずりと彼に近づいてその手をとった。親指をつかんでみる。いちごのようにキリッとしたおもかげはなく、いまはゆですぎたソーセージのような指である。
「もう戻らねえの? ほんとに?」
 おれは自分の口からそんな言葉がもれるのを聞いた。
「戻ってくれよ」
 彼のむくんだ青白い指をおれの手に乗せてしげしげながめていて、気づく。
「爪のびてんな。切ろう」
 いまはすっかり薄くなり、魚のうろこのようになった彼の爪を、おれは切った。


1月5日 初仕事

 荻原の前に立ち、二本のネクタイを交互にのどもとにあてて見せていた。
「どっちだと思う?」
 紺地に細い金のななめストライプが入ったものと、深い緑色のワッフルニットのスクエアネクタイ。
「冬だし、こっち?」
 ニットのほうに荻原が反応した――気がしたので、そっちを採用した。シャツの襟を立てて首に巻く。
 今日は2064年の初仕事、未来帯広プラザでの無料法律相談会だ。これは所属する弁護士会から回ってくる仕事で、「できそうか?」という打診があり、迷ったが引き受けた。休職届を出しているおれのところにこの話がきたということは、同職の人らは正月休みで人手不足なのかもしれん。こっちはずっと冬休みのような日々で年末年始も関係ないし、こういうときは助けあいの精神で出てもいいかなと。それに、いずれ本格的に復職するのならここらで肩ならしというか、現場の感覚に触れておくのもいいだろう。
 家から未来帯広までは車で一時間ほどでつく。はらはらと小花のような雪が降るなかを馬と話しながらすすんだ。未来帯広プラザは未来帯広駅を出てすぐのところにあり、おれが到着したときには、アトリウムの片すみに施設スタッフたちがパーテーションを運んでブースを設営するところだった。たぶんあれが今日のおれの仕事場だろう。
 パイプいすを両わきに歩いている男性スタッフに声をかけた。
「おはようございます。法律相談はこちらですか」
「ハイ」
「未来釧路弁護士会からきました兼古です」
「あ、今日の先生ですね。よろしくお願いします。すみませんまだ準備が……」
「手伝います」
「ヤ、そんな。えーっと、向こうのソファーでちょっとお待ちいただければ」
 とかなんとかいうのをさえぎっておれはいう。
「あすこにあるのを持ってくればいいんですね?」
 ホールの壁ぎわに、パーテーションやテーブルなどが集めて立ててある。おれもそこへいって「無料法律相談」ののぼりと金属のポールスタンド、テーブルなんかを運んだ。こういう状況では下っ端精神が発動してしぜんに体が動いてしまう。
 ブース内には面談セットが相談者どうし背を向けあうようにふた組配置された。今日は二名の弁護士で対応することになっていて、相談会が始まるすこしまえに本日の相棒があらわれた。南先生という初対面の人だった。
「初めまして。兼古です」
「南です」
 といって、先生はスーツのポケットから端末を出し名刺交換モードになる。おれは「いま休業中で名刺はないんです」といい、先方の名刺を端末にもらう。
「え、休業中?」
 年のころはおれよりもひと回り――まではいかないけど、そのくらい年上かと見えた。相談ブース入口から向かって右のテーブルにおれ、左のテーブルに南先生が着席し、10時から休憩をはさんで15時まで人々の相談にのることになる。
 南先生はおれが何者なのか興味がわいたようで、さいしょの相談者があらわれるまでの時間にいろいろと聞かれた。おれの未来東京でのボス、燃野鹿彦弁護士がラジオ人生相談のレギュラー回答者だったりして「あの人のところで働いてたの?」と話が盛りあがったところで、ブースのなかをうかがうような人影が見えてきた。仕事開始だ。
 相談者の困りごとは借金や隣人トラブル、夫婦やパートナー間の悩みなど。相談時間はひとり30分までと決まっていていちおうタイマーで計ってはいるけど、相談者の話が熱を帯びて止まらなくなり、そっとタイマーを止めて話を聞きつづけた件もあったりした。
 午前の部さいごの相談者が去ると、南先生が待っていたように話しかけてきた。
「お昼どうします?」
「そとでと思いますけど……おすすめありますか? まだこのあたりはよくわからなくて」
 待ってましたというように南先生はうなずいて、駅のなかのかきあげ丼の店へ誘ってくれた。「豚丼&かきあげダーリン」という店で、土曜の昼間、かなり繁盛していた。
「病気っていうのは? さしつかえないなら」
 おれがパートナーの療養のために未来北海道に来たというと、好奇心で目をきらきらさせて聞いてくる。
「確たる病名はわからないんですが、おもな症状は低体温と全身の重度のむくみです。原因はまあ、心あたりがあるし、自分で調べた範囲で看病していて快方に向かっているので」
「心あたりって?」かきあげ丼をもりもりかきこみながら南さんはいう。
「私のストレスですかね」
「ん? 兼古さんのストレスで、パートナーのかたが病気になる?」
「いろいろあったんです」
「いろいろあった」
「はい」おれはひらたけのかきあげを噛んで飲みこむ。「彼も変わった人だし」
 症状でいえば低体温よりもむくみよりも、ずっと失神しているようで意識がなさそうに見えることが最大の異常なのかもしれないが、だまっておいた。
 それをいうと常識的な人ならなぜ入院させないのかと責めてきそうだし、おれは荻原と接していて彼に意識がないとは感じておらず、ただコミュニケーションのしかたが決定的に変わったのだととらえている。いままでのように言葉やしぐさで相手の考えを知ることはできないが、彼が快や不快を伝えてきていると確信できる瞬間、いま彼もおなじ部屋でくつろいでいることが伝わってくる瞬間というのは何度となくある。
 南先生は小皿の高菜漬けを噛み、番茶をすすっていう。
「ぼくの友だちの医者がいってたけど、原因不明の病気って増えてるらしい。たとえば大きな問題を抱えている家庭があると、その家でいちばん弱い立場の人――だいたいが子どもとかペットとかだけど、その子の病気として問題が表面化することがあるって」
 そこまでいって、彼はコホンと咳ばらいをした。
「いや、そんな問題や関係の不均衡が兼古さんたちのあいだにあったっていうわけじゃないけど。失礼」
「…………」
 気にしてません、とおれは首をふり、かきあげ丼を食べるペースをはやめて番茶を飲んだ。
「ええと――内科医だけど紹介しようか? 免疫疾患が専門の。ぼくの友だち」
「大丈夫です。もうすこしふたりでやってみます」
「手ごたえがあるんなら、それもいいね」
 それから南先生は、おれのことばかり聞きすぎたと思ったのか自分の話をし始めた。まずは家族の話。友人と共同事務所をひらくときに気に入ったバーの二階だからという理由で場所を決めた話。そして去年の冬、ひと晩でドアが半分埋まるほどドカ雪が降った朝、雪かきに追われ、車が動かず、タクシーもつかまらなくて裁判所に遅れたという雪国ありがちエピソードなど。
「兼古さんも気をつけてね。週あけに寒波がくるっていってたから」
「こわいですね」
 食べおわったあとも話しこんでしまったが、店の前に人がならび始めていることに気づいて、南先生とおれはそそくさと退出した。

 午後も時間いっぱいまで相談をこなし、復帰に向けてのウォーミングアップとしてはかなりハードな一日だった。
 数か月ぶりに人々と長くこみいった話をしたわけだが、初めはスムーズに言葉が出ずにあせった。しゃべりながら生まれたんじゃないかと荻原にからかわれるような、口げんかが天職みたいなおれが、相談者への返事に詰まるなんて。それは、いまの自分が会話のほとんどない暮らしをしているから――というだけじゃあるまい。なんというか、ひさびさに、「世間」という感覚に衝撃をおぼえたというか。
 この世はこうした悩みに満ちあふれていて、人の数だけ立場と言いぶんがあるということに打ちのめされるような、法道修習から実務に入ったころ毎日のように味わっていた絶望感がよみがえってきたのだった。あのころのおれは利害の対立している人々に「なんで愛しあえないんだ?」といってしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。そんなことをいってしまえばこの仕事は終わりである。
 子どものころからあこがれて目指してきた職業に就いたのに、じつは致命的に向いてないのかもしれないと思いながら通勤していた日々。そのときの気持ちがさっきの業務中に久しぶりによみがえってきたのだった。
 しかし相談者とのやりとりが深まるにつれてそんな感覚も遠のいてゆき、ふたりめの相談者が――これがなかなかいいキャラをしたおじさんで、「これほんとに無料かい? 座ったら席料かかるんじゃないの」なんていって笑わせて――きてからは、気持ちに余裕をとり戻した。その人は小さな建設会社の社長さんで、さいきん取引先から契約を一方的に取り消されてしまったことに憤慨していた。
「一方的にとおっしゃいますが、理由に心あたりは?」
「聞いたけど白紙にしたいの一点ばりでどもならん。古い友だちの紹介だから請け負ってやったのにとんでもない貧乏くじ引いた。あいつ口だけは景気いいことペラッペラ、ペラッペラ」
「そうですか」
「そのわりにゃーこの業界のことなあんも知らんみたいだったし……オレの友だちもだまされてっかもしんねえな。あんなビッグマウス野郎と縁切れっていわないと」
 けさは剃っていないっぽい頬ひげのあたりをぽりぽりかきつつ、連想モードに突入しそうな彼をおれはさえぎる。
「先方とのやりとりの記録も残っているようですし、正式に依頼しますか? 私からほかの弁護士を紹介するかたちになりますが。ご予算は――」
「ないよ!」社長氏は噛みつくような勢いでそういい、ばつがわるそうにいい直した。「あんまりないよ」
「では仲裁制度というものがありますので、利用されてはどうでしょう」
 と、この件は弁護士会につないで相談を終えた。
 ばくぜんとした悩みを話すうちに問題点が明確になって、弁護士に依頼したいと心が決まった人や、悩みを話すだけですっきりしたというもいた。相談時間が終わるとみんな感謝の言葉をのべていった。ブランクのあった自分だが、すこしは役に立てたのならよかった。


1月6日 おまえは変わるよ

 午前中は昨日の相談会のメモを整理していた。相談者のだいたいの年齢と性別、相談内容と結果、かかった時間など。
 相談会の終了後、南先生と駅前のホテルのラウンジでお茶をした。彼は夕方からそのホテルのバンケットルームでおこなわれる、顧問を務めるグループ企業の新年会に出るという。地元の有力者に紹介するよとおれを誘ってくれたけど、これ以上荻原を家にひとりにしたくなくて断った。
「だいじな仕事とはわかってるんだけどねえ」
 と、ラウンジでソファーに腰をうずめるなり南先生はいった。こういう市民相手の無料相談会のことだ。彼は今日の相談のうち二件を正式に引き受けることになったらしい。
「個人の小さい案件だからって手を抜けるわけじゃないからね、労多くしてなんとやら……」
「わかります」
 おれはダージリンオータムナルをオーダーし、小さなピッチャーのミルクをそそいで飲んだ。
「それにねえ……なんというか、まあしょうがないんだけど、うーん、いろんな人生があるっていうのはわかるんだけど」
 と、南先生は飲みものに手もつけず、歯切れのわるい感じでこう前振りして、いった。
「いろんな悩み聞いてるとさ……なんでそんなことしちゃうんだろ、ぼくはそうならないように気をつけようって、思うよね」
 今日の南先生は、話が聞こえてきたかぎりだと、愛人に大金をだまし取られた会社経営者や、ブランドものを買いすぎて家族に内緒で借金している主婦、飲み屋でぼったくられた気がするというサラリーマンの相談を受けていた。
「私若いころ、相談者を尊敬できないと思ってしまうと叱りつけたり冷たい対応してしまいがちでした。そのあときまって自己嫌悪におちいって反省するんですけど」
「若いころって、君まだすごく若いじゃないか」南先生は笑う。
「人間としてこうあるべきっていう理想が先行していて、理想が強いほど苦しいということがわかりました。自分にも人にも厳しくしかできなくて」
 南先生はうなずいてコーヒーをひとくち飲む。
「まあ新人にはおおいよ。相手方になると和解しづらくってしょうがない」
「私もむだにつっぱって、さぞかしやりづらい若造だと思われていたと思います」
「いまは丸くなったということだね」
 そんな話をして、南先生は新年会の始まる時間になって別れた。
 どのくらい丸くなれたのだか自分ではよくわからないが。社会人になってからの一年でいっぺんに年をとった感じはした。あこがれの職業に就いたものの、自分の仕事が他人の運命を左右してしまう重圧から夜眠るあいだも自由になれなかった。進行中のすべての案件のゆくえが気がかりでつねに仕事関係者のことが頭を離れない――最愛の人とともに暮らせば最愛の人のことばかりを考えて生きられると思っていたのに。荻原とすれちがってゆく日々に、こんなはずじゃないと焦っていた。生活ってこれのことなのか? 「大人」ってこんなにままならないものなのか? 努力をつづければいつか楽になれる日はくるのか……。
 たった一年で脱毛症と勃起不全を併発するほど消耗していたおれを救ったのは、怪物のような容貌になった荻原ともういちど生き直したいという願いだった。
 そうか。彼がおれを再生させてくれたんだ。
 おれは相談会のメモの整理をしていた手をとめ、かたわらの荻原を見た。
「…………」
 彼にはずっとわかっていたのかもしれない。子どものころから夢みてきたパートナーとの愛し愛される暮らしに、ほかならぬおれ自身が背いてしまっていると。でも荻原という人は、相手に問題点を指摘して改善のアドバイスをするということはしないのだ、その悩みが相手にとって本質的なものであればあるほど。彼はいつだって「緑はそのままでいい」という。苦しんでいるからといってその人を変えてしまおうとはしない――たったいちどの例外をのぞいては。
 かつて荻原が、行きづまっていたおれを見かねて「変えて」くれたことがある。高校生のとき、まだおれが彼に片想いをしていたとき。あまりにも彼がおれのなかで特別で重要な存在になりすぎて、「彼のしたの名前が呼べない」という不自然な状況におちいった。彼はいった。
「兼古、楯っていってごらん。――いえたらおまえは変わるよ」
 動揺するおれを問答無用で特訓に引きずりこみ、彼はおれがしぜんに「楯」と呼べるまで名前を叫ばせた。
 あれからいろいろ……ほんとうにいろんなことがあって……いまにいたるのか?
 おれは高校時代から流れた時間の長さに、一瞬ふらっとめまいがした。
「おまえはすごいな」
 荻原がおれにはっきり、こうすれば変わるよといってくれたのはあのときかぎり。いまはものいわぬすがたとなっておれを導いてくれているのか。
「すごい奴だよ」

 その夜は、荻原の食事をすませてからきかとら温泉へ行った。
 失踪した彼を追って初めてこの地を訪れたときから何度となく行っている。九種類の湯がわき「きかとらで治らぬ病なし」と評判の名湯で、都会で医者に見放されたという湯治客が回復して帰っていくのも見かけた。荻原も通えるようになればさらに快方にすすむのではないかと思っている。というか、おれが、はやく彼と温泉にゆっくりつかりたい。


1月7日 そいつぁーラブだね

 温泉につかった翌朝は、体が深部までほどかれてしまったようでなかなか起きられない。
 家の風呂でもそれなりにリラックスするのだが、温泉とは、やはりなにかちがうものなのか。きかとら温泉は九種類の湯いずれも加水や加温をしていない本気(まじ)ものの源泉かけ流しだという。
 いまの境遇はありがたいことに、何時に起きてどこへ行かねばならないというものでもない。荻原もきっと「寝たいだけ寝な」といってくれていると思うことにし、いつもより一時間ほど寝坊した。
「体がバラバラに解体されて、起きようと思ってもなかなか組みあがらん感じ」
 おれは荻原のバイタルチェックをしつつ、思いつくままにいう。
「……寝るってのはいちどバラバラになるってことなんかね。毎朝、今日も起きなきゃって、のほほんとばらけてゆるんでるものをまた組みあげて、ギュッと締めあげて立ちあがる」
 彼の顔をふくタオルを取りに行こうとして、ふと思う。
「楯、今日はどう? おまえも温泉いってみねえ?」
 荻原の手首をつかむも、シーンとしている。
 これまでも何度となく誘ってみているが、まだ「行く」という感じではない気がする。
「もうちょっと体軽くならねえとなー。車に乗せたり降ろしたりおれひとりでできるくらい」
 と、彼の体に腕をまわしてちょっと持ちあげてみようとする。
 世話のために寝かせたり起こしたりはできるようになった。立たせて運ぶのはまだちょっと不安がある。
「おれも筋トレすりゃいいのかね。姫抱っこできるくらいに」
 元気なころの荻原は見た目の印象とうらはらに筋力があって、彼はおれを余裕で抱きあげられた。彼の場合はとくにトレーニングをしていたわけじゃなく、葬儀社で働いていたとき、「おとむらい」という葬儀のクライマックスに棺桶を二、三人のスタッフで持ちあげて飛行船へ運ぶという演出があり、そのために力がついたといっていた。よほどのビッグサイズな死者じゃないかぎりはパワー補助スーツは使わなかったらしい。
 しぼったタオルをキッチンの電子調理器で蒸しつつ、窓のそとを見ると、うちの前の白樺の枝に大きなからすがサッと飛んで来て止まった。黒光りするくちばしになにか――クルミくらいのものを大切そうにくわえている。こんな雪のなかでなにを見つけるのやら、ごちそうか、お宝かと思って眺めていると、そいつはちらっと一瞬おれのほうを見て、また飛び去っていった。
 そのとき、ひとつのアイデアがひらめいた。
「! そうだよ」
 荻原を温泉につれて行けないんなら、温泉をここに持って来りゃいいじゃないか?
 そうイメージしただけで体がわくわくと震えだす。そうしたい、はやくそうしたい、今日このあと彼のシャンプーと清拭をする予定だったが、それを温泉水でしてやりたい。
 とりあえず蒸し終わったタオルを持って荻原の前に戻る。むくんで遮光器土偶めいた彼の顔をふき、煮ものとおひたしをそれぞれミキサーしたものと梅がゆを食べさせ、おれも食べた。
 彼に歯みがきをしてやりながらいう。
「いいもんもって帰っから。パートナー想いのからすのように」
 馬に車内を暖めておいてと頼む。出かける準備をして乗りこむ。
「おはようございます。寒いですね。今日はどちらへ」
「まず市街のホームエース、そのあときかとら温泉!」
「はりきってますね」
「人呼んで、ヤ、だれも呼んでねえや。名づけてからす活動」
「カラスカツドウ?」初めての単語をおうむ返しする馬。
「話すと長え。とりあえず左いって」
 家の正面の道を右へ行くと温泉のある鶴寝狭、左へ行くと鹿嘗町市街だ。まずは左へと車を走らせ、町のホームセンターでお湯を入れて運ぶタンクを手に入れたい。
 道中、馬にこんなことを話した――からすという鳥はつがいの仲がよくて一生おなじパートナーといっしょにいるという。おれも荻原のために今世できるだけのことをしたいと思っており、からすの行動にヒントを得た「温泉水を家まで持ち運ぶ」というミッションをいまから実行するわけだが、こうしたパートナーをよろこばせるための活動を、その夫婦仲のよい鳥に敬意を表して「からす活動」と呼びたい。
「…………」
 馬は数秒、高速でなにごとか思案しているようだったが、「からす活動のお手伝いができて、光栄です」といった。
 人工知能とはどのくらいわかっているのだろうか。
 事件処理の高速化のために導入されたAI裁判官も、登場したてのころよりは人間の非合理的な思考回路や論理の飛躍にも対応できるようになってきたといわれているが、「からす活動」のネーミングセンスは理解できるだろうか。
 ホームセンター「ホームエース」で10リットル容量のウォータータンクをふたつ購入すると、来た道を取って返して家の前を通りすぎ、こんどは鶴寝狭へむかう。「鹿に注意」の看板もいつのまにか見なれたものだ。車二台がぎりぎりすれちがえるくらいの隘路を抜け、青空を背に輝く山をめざしてすすむ。
 きかとら温泉の駐車場についた。雪におおわれた山の斜面にそっていくつかの施設が建っているのが見える。どれもきかとら温泉のものだ。渡り廊下でつながる新旧の宿泊棟や、貸し切り用の温泉小屋。おれは自分の入浴セットとタンクを持って受付のある建物へ行く。お湯だけくんで帰ってもいいが、せっかくだから軽く朝湯をしていこう。
 内湯で髪と体を洗ったあと、空のタンクを抱えて露天風呂のひとつに入った。冬休みなのもあって、父親につれられた幼児や小学生、あとは運動部なのか全員体格のがっちりした学生ふうの集団がいた。
「今日はにぎやかだな」
 湯気の切れまからひとりの老人がこっちを向いて笑った。きかとら常連のショッさだった。彼がいるということは近くにエンドさのいる確率が――ほらいた。ショッさとエンドさはともに八十代の温泉友だちで、鹿嘗町市街からほぼ毎日ここに通ってきているみたいだ。ちなみにショッさはショウジさん、エンドさはエンドウさんで、おたがいに短縮形(?)で呼びあっているのでおれもそう呼ばせてもらっている。
「走ったらあぶないぞ」
 岩風呂のまわりをちょろちょろ追いかけっこする小学男子たちに向かって、ショッさが声を張った。男子のひとりはそのまま逃げたが、もうひとりは叱られて恥ずかしそうに手近な岩にピコンと腰かけ、片ほうの足をのばしてつま先でお湯にちょんちょんと触れた。
 子どものちんちんとはヤングコーンみたいなものだなと思いながら眺めていると、エンドさが甘納豆のようなしみのたくさん浮かんだ人なつっこい笑顔で、聞いてきた。
「それなに? お湯持ってくの?」
 ふたりの視線の先には岩のわきにおいてあるふたつのウォータータンクがある。
「そうなんです」と、おれ。
 ショッさは汗をかいたつるつるの頭から顔、あごまでひとつづきに撫でていう。
「持ってってなにすんの? 飲むの?」
「えっ、ここの飲めんのかい?」エンドさは相棒の言葉に目をぱちぱちする。
「いや飲めねえはずだよなと思って」
「パートナーを連れて来たくてもまだむりみたいなんで、お湯を持ち帰って洗ってやろうかと」
 おれがそういうと、ふたりはしみじみとうなずいた。
「そいつぁーラブだね」と、エンドさ。
「ラブだな」と、ショッさ。
 きかとら温泉で何度も会ううちに、彼らとは世間話や家のことなどをすこし話す仲になっていた。おれはここでもやっぱり未来東京からパートナーの療養のために移住した人ということになっている。
「しかしほんとよく世話するよあんた、若いのに」感心したようにショッさがいう。
「若いからさ」エンドさは笑った。
「いや、長年連れ添った仲っていうんなら、わかるなって……」
「こったら何十キロのお湯持ってくなんて考えるの、体力あるからだべ」
「こんなことしても相手は温泉のお湯だなんてわからないかもしれないし、私の自己満足なんですが」
「いいんだよ」「いいんだって」
 ふたりは口をそろえていった。
「こういうのは世話する側が、思いのこしのないようにやるもんなんだ」
 というショッさに、「そーそ、そーそ」とエンドさが合いの手を入れる。
「そういいますよね。だから、そうするしかないって決めました」
「なにくんのためならえんやこーら?」ショッさがエンドさを見て歌う。
「タテくんだとさ」と、エンドさ。
「タテくんのためならえんやこーらだ」
 ふたりが語らう(歌う?)のを聞くともなく聞き、ぼうっと青空を見あげるおれ。
 じいさんたちにいわれるまでもなく、自分でも謎だと思っているさ。荻原のためだというと、いったいどうしてどこからこんな力が出てくるのか。
 もともと行動力はあるほうだと自覚しているが、彼をよろこばせたいという動機から動くときにこの資質は最大に生かされる気がする。彼と自分の暮らしをよりよくするためならばいくらでもなんでもやりたい。彼のためにできることを思いつくとよろこびで体の芯に精妙な震えが起こり、じっさいにそれをしているあいだは温かなものが胸の内側からこんこんと湧きだしつづけている。おれはこれがすきだ、おれのすべきことはこれだ、と心の底から信じられて迷いがない。
 そうだ。このお湯ではやくあいつを洗ってやらにゃ。
 立ちあがってタンクをつかむと、「はやく来られるようになるといいな」と、ショッさがおれを見あげた。
「タテくん来たら紹介してね」と、エンドさ。
 おれは胸がじわっとするのを感じながらいった。「ありがとうございます」
 源泉吹き出し口は温泉成分の析出物が何層にも付着していて、黄土色の石筍か蟻塚のような形状をしている。そこにタンクの口をあてて湯をため、それぞれ満タンにしたのを両手にひとつずつさげ、濡れた地面や内湯の床のうえをそうっとそうっと歩いた。タンクは毛布に包んで助手席にのせ、家まで飛ぶように(からす活動だけに)帰る。

 荻原が湯冷めをしないよう、室温をすこしあげた。
 洗面器に湯をあけてタオルをしぼっては彼の体をぽんぽんとたたくように洗う。ごしごしこするということはできないのである。
「効能に利尿作用と収れん作用って書いてあったから、いまの症状にはいいかもと思って……」
 彼の胸に、お湯を手ですくってかけてみる。
「灌仏会かよ」
 思わずそんな感想が口からこぼれ、自分で笑ってしまった。お釈迦さまの銅像に甘茶をかけているイメージが浮かんだのだった。
 すると、彼の胸がかすかに振動している――笑っているのか?
「あ、おまえ、いまのうけた?」
 彼の大きなおおきな体を洗い終えた。すぐにバスタオルで拭いて服を着せる。この服も、こうなってしまってからの彼の体形にあう既製品は売っていなくて、おれが計測して型紙から作っているのだった。近ごろは水分の排出がすすみ、さいしょに作った服はゆるくなってきたので小さく作り直している。
 荻原のほおにほのかに赤みがさしたのを確認する。
「温まったけど、すこし疲れたか。お昼寝する?」
 彼の体をゆっくりと倒して、ふとんを三枚重ねたうえに横向きに寝かせる。彼はふだん足を投げ出して座っていてひざが伸びたまま硬直しがちなので、寝かせるときには軽くマッサージしながら曲げてやる。
 もうすこし体が小さくなったら、彼のお気に入りのシンシンピコリ・ワークスのチェアーに寝かせてやれるんだけどな。
 やや過活動ぎみだった今朝からのおれも、やりたいことができてほっとしたせいか急激に動きがスローになってきた。「疲れたか」と口から出たのは、彼に向っていったつもりで、自分が疲れていたのかもしれない。
 彼のとなりでクッションを枕にして毛布にくるまったら、気持ちが満たされてどうしようもなく、気を失うように眠ってしまった。


1月8日 すきま風警察

 午前中、いつもの「楯お世話ルーチン」とあわせて試験紙を使っての尿検査もした。結果は糖・たんぱく・潜血いずれも陰性。十二月に入ってから薄墨のような色の尿が大量に出たことがあって尿検査を始めた。見るからに異常とわかるようなのはそれっきりだし、成分的にも問題なさそうなのでこのごろは数日に一回だ。
 それから彼をワルクマンヒューマンで撮影した。「楯のお世話日誌」の記録のためでもあり、新しい服を作るためでもある。彼の写真からサイズが計測されてプリンターから新しいパジャマと羽織りものの型紙が出てくる。それを買いおきしてあるネル生地とキルト生地にそれぞれあててカットし、あとはミシンでひたすら縫う。
「おーれのすてきな怪物くんー」
 プリンターが型紙を生成しているあいだに、おれは歌いながら二階へあがり、部屋の押し入れからミシンと布地を抱えて居間に戻った。今日は晴れているが軽そうな雪が舞っており、強風に乗って真横に飛んでいる。
 昼が近づいている。おれはテーブルを窓の近くへ運んで作業を始めた。広げた淡いブルーの布のうえには雪の灰色の影が小魚の群れのように流れる。
 荻原の服を作るときは母親のことを思い出す。かならず思い出す。彼女は若いころ服を作る趣味があった。店をめぐっても着たいと思える服がなかったときに自分で作っていたようだ。おれも小学校低学年くらいまでは気まぐれに服を作ってもらえることがあって――なぜか胸ポケットにサボテンの刺繍のあるシャツを作ってくれたりした。
「なんでサボテンだよ」
 フットペダルをコントロールしながら、口をついて出る。そして笑う。
 うちの両親はそろいもそろってセンスが変わってたよな。母は父ほど勝手な思いこみや趣味を押しつけてくることはなかったが、あくまで父とくらべればすこしはましというだけ。おれがほしがるキャラクターものや動物の絵がついたものなんかをなにもいわずに買ってくれる日もあれば、パジャマを買いに行ってとつぜん「お母さん子どもっぽいのすきじゃないの」といって、ワインレッドのシルクの奴にさせられたことがあった。当時のおれにワインレッドのよさなんかわからねえよ。あとは、やたらと凝った生地でシャツやサスペンダーつきズボンを作って小紳士めいたかっこうをさせたがることもあった。
 ほんとによく振り回してくれたぜ。
 おれはため息をつき、走るミシンに布を押しやる手を止めて茶をいれるために立ちあがる。紅茶を蒸らすあいだ流し台に腰でもたれて腕組みをして待っていると、親たちとの思い出がつぎつぎと浮かんでくる。
「…………」
 彼らはそれぞれ再婚していて、父には去年の春に子どもが生まれている。半分はおれと血のつながりがある子がいるということがうまく想像できず、そこをよく考えようとすると苦しくなって思考停止する。
 彼らが別れたとき、おれは兼古姓を名乗って父ともとの家に住みつづけることになったわけだが、ほどなく未来京都に進学してひとり暮らしを始めて、父との時間はほとんどなかった。実感としては自分は両親のどちらにも選ばれなかった子であり、家族と呼べるものはなくなったと思って生きてきた。なのに親たちの時間はそれぞれすすんで、おれ抜きで新メンバーと平和に順調にやっているということが受け入れられない。
 三人で暮らしていけるようにあんなに努力したのに? おれがいないほうがよかったの? ――決まってそんなふうに、幼少からのおれの無念さが成仏しきれずに湧きあがってくる。それはとても理屈で説き伏せられてくれるような感情ではない。
 この年になってまだこんなことで泣きそうになるのは未熟だから?
 気づくとティーポットのわきにおいていた砂時計の砂が落ちきっていた。小学一年の夏休みの自由研究で作ったもので、ガラス管には青い砂、白い木枠にはへたくそなイルカの絵が描いてある。枠がはずれては修理しながら使ってきた。
 紅茶は濃すぎて渋かった。牛乳をすこし温めて足し急きょミルクティーにした。
 日なたのテーブルにもどり、襟や袖のパーツを身ごろと縫いあわせる。着脱しやすいように服の前はボタンではなく面ファスナーである。
 それから何時間たったか。ネルパジャマの仕上げ段階で指先の動きがすこし鈍っていることに気づいた。寒くなっている。
 作業に集中していてわからなかったが、いつからか雪が本降りになっていたようで空は曇り、玄関前のジープにも数センチ積もっているのが見てとれた。この家は古くて、窓という窓は住み始めてすぐに目張りしまくったし、その後もすきま風に気づくたびにあちこちふさいでいるのに、まだどこからともなく冷たい空気が入ってくる。おれは息をころして周囲の風の流れを感じ――はさみだの爪切りだのを入れてある卓上小物入れに手を伸ばして目張りテープをつかみ、忍者のようにそっと動いて風上をたどる。
「ここだっ!」
 おれは風もれ個所をつきとめて壁の小さなひびにテープを貼った。そこで足のつま先にもひやっとする空気が触れるのを感じ、しゃがみこみ、床を這い、床と壁の境目をさがす。はたしてまたもすきまを見つけ、テープを貼る。
 そこからはねずみを追いかける猫のように(って、そんな場面見たことないんだが)すきま風の出どころを見つけてふさぐことに夢中になってしまった。
 キルトのカーディガンは次回。


1月9日 雪かきと旧世界

 けっきょくひと晩じゅう降った雪だった。
「よく降ったのう」
 朝の楯お世話ルーチンをすませると、おもてに出て雪かきをする。雪はまだ間遠にチラ、チラ、と、これは降っているとするか降っていないとするか判定が微妙なていどに降っている。
 やはりラッコウェザーが当たるな。中央天気や虹通信なんかはきょうも雪だといっていた。
 ラッコウェザーというのはおれの中ではいちばんよく当たる、あまたいる気象予報士のうちでも信頼している予報士である。ラッコは雪国の予報に強い。季節によって得意不得意がある予報士、天気図の解釈はおもしろいが精度はいまいちな予報士など個性がある。
 まずはママさんダンプで、玄関前や車の周囲の雪をがんがん盛っては道路をはさんで向かいの森に運ぶ。広いところの雪をあらかたなくしてしまったら、あとはショベルに持ち替えて車や塀にそって細かいところをていねいに処理していく。
 いまでこそ慣れて手ぎわもよくなってきたが、初めのうちはどう体を使ったらいいかわからず、経験したことのない感じで背中がバキバキの筋肉痛になって弱った。ママさんダンプに山盛りに雪をのせて押して歩いたはいいが、それをどうやってダンプから降ろすのか、シャベルを振って飛ばしたい方向へ雪を飛ばすにはどうしたらよいか、試行錯誤を重ね、町の人を観察し見よう見まねで覚えていった。
 しかしまあこのくらいの積雪なら雪かきも運動不足解消にちょうどよく、むしろ歓迎すべきだろう。また筋肉痛になるかもしれないがいまのおれにはきかとら温泉という心強い味方がいる。
 家に戻ると端末にメッセージが届いていた。未来東京で勤めていた燃野法律事務所の燃野いく氏から。いく氏はボスの奥さんで弁護士であり、夫の鹿彦氏とともに事務所を経営している。
 内容は、おれの昨年ぶんの報酬の支払調書についてと、おれが関わっていた案件のいくつかについての進捗や結果の知らせだった。
 ストーブの前に座って背中をあぶりながら読む。
 ある件は和解、ある件は勝訴、ある件は継続中……メッセージのさいごには、「新しい仲間も迎えあいかわらずわいわいとやっております。風邪などひかずにお元気で」とあった。
 ああ。ありありとまぶたに浮かぶ――未来東京ヒイヅルツリーのふもとにある、ビルのワンフロアのあのオフィス、おれのデスクから見えていた光景が。おれが水をやっていた観葉植物とか、事務所で使っていたマグカップとか、壁にかかっていた絵とか。
 自分が手がけた案件はどれも結果が気になるといえばなるのだが、あえて思い出さないようにしていた。おれは仕事と生活の切り替えがへたなようで、仕事で関わった人たちのことがプライベートでも頭を離れなくなってしまう。相手の表情とか声の感じとか。依頼人にとって望ましくない事実を伝えたときなどに、ざんねんそうな顔をされたりすると何度も脳内で再現してしまう。
 きっとおれは対人関係のバランスがわるいのだろう。他人の言葉や行動を重要視しすぎてしまうんだと思う。
 燃野いく氏のメッセージを読みかえしつつ、あの事件はどうなったんだろう、と思う。おれはとある性的煩わせ訴訟で被告側代理人だったのだが、第一回口頭弁論のあとはいく氏に引き継いでいた。原告はとてもしっかりした印象の女性で元上司を訴えるものだった。おれにとっては初めての本人訴訟だったのもあり印象にのこっている。しかし、メッセージではこの件について触れられていなかった。
 背中が熱くなってきて、じりじりとストーブから離れる。
 顔をあげたら窓のそとは雪景色。ずいぶん遠くへきてしまった。


1月10日 おばけ屋敷じゃないよ

 朝からちらほらと雪。
 午前中は楯ルーチンのあと町へ買いものへ行った。やれ米だしょうゆだ、やれ楯用のシャンプーだ、と必需品を買うことに追われている気もするが、じつは自分がそれを楽しんでいることに気づいた。スーパーやドラッグストアの頭のうえまである棚にぎっしりと商品がひしめいている売り場に立つと軽くうっとりする。
 買いものがすきだと認めると父親のDNAの影響を感じてうすら寒くなるが、おれは父とはちがうぞといいたい。おれはある日いきなり家族のためといって、家庭の会話に出たこともないピアノやバイクを買ってきたりしないし、素敵なミドルライフを提案する雑誌に載っていたからって、ガレージに置くビリヤード台がほしいなどといいだして夫婦げんかになったりしない――。
 きょうの収穫物を車から運び出し、食品のストックをパントリーに収めていると思わず実家の記憶がフラッシュバックしてめまいがした。ビリヤード台の購入を阻止できてほんとによかった、と当時の安堵感までリアルによみがえった。
 おれの消費行動っていうのは、荻原と同居してからは――彼と楽しみたい食事やレジャー、記念日のプレゼント、彼との暮らしのためのこまごまとした日用品を買うなど、気づけばそんなことばかりだが満足しているのでけっきょくそれがすきなんだろう。自分のためには仕事用のスーツを仕立てたり仕事上の交際(たまにつきあわされるゴルフ……)など実用的なことだ。
 おれってつくづくハウスキーピングが向いてんな。
 と、昼食のスパゲティをゆでながら思う。キッチンにトマトをたくさんならべて、半量はにんにくやベーコンと炒めてトマトソースを作った。これはスパゲティだけじゃなくパンやピザに塗ったりいろいろできる。のこり半量はセロリやにんじんと植物素材だけのスープにした。こっちは荻原用だ。
 そのとき玄関のベルが鳴って、反射で「え、なんか頼んでた?」と声が出た。おしっこ吸水シートなら今月はまだだぞ。だれだ? 消耗品の定期購入をし始めたものがあるが、それ以外はうちには来客はおろか郵便配達なんてものもめったに来ない。
 玄関に出ると宅配業者で、縦長の箱を受け取った。一升びんだとすぐに察しはつくが――はて? と送り主の名前を確認していると、宅配の青年がふしぎなものをまのあたりにしたようにいう。
「ここって……人住んでるんですね……」
 初めてここに来る人はかならずいうことだ。
「はい、去年の秋から」
 ここはおれたちが住むまで長年空き家で、町の人らにおばけ屋敷といわれていたことは知っている。
「へーっ、ほんとなんだあ……住所見たときビックリしちゃって。ハハ」
「よくいわれます」
「あ、すいません。ここにサインを」
「はい」
 送り主は帯広プラザだった。先日無料法律相談をした施設だ。
 業者の端末にサインすると同時に、おれの端末にメッセージが届いたのを感じた。
「送り主さんからメッセージのほうありますんで。じゃあ、ありがとうございました」
「ごくろうさまです」
 おれは高校のころから耳のうしろにチップを入れていて、端末になんかしらのアラートがあったときなどは体感としてわかる。箱を抱えて居間に戻ると、テーブルにおいてある端末に着信があった。
 メッセージは帯広プラザで、法律相談のブースをセッティングしていたスタッフからだった。
≪先日はありがとうございました。その後、法律相談をされた市民のかたが当館に来られて、兼古先生への謝礼ということでこのお品を預かりました。時間延長して話を聞いてくれたのでお礼がしたいそうです≫
 そういえば、相談中に話が白熱して制限時間を超えた人がいたな、と思い出す。購入した土地つき中古物件に私道があって、売り主からはその私道は使えるといわれていたのに、購入後に私道の所有者から通行を禁止されてしまったという話だった。夢を持ってこの町に引っ越してきたのにと熱弁していたあの人か。
 包みをひらくと地元銘酒「十勝天晴」だった。
「楯、酒だよ」といって、彼に一升びんを見せる。
 燃野事務所にもお中元お歳暮が山ほど届いていたっけ。酒や食品などは全員でわけて、おれも日本酒やらワインやらブランデーやらたくさんもらっていた。酒がそんなに強くなくて、宴席でも乾杯のさいしょの一杯くらいでやめておくのだが、うちにはほとんどザルといえる酒豪が――荻原がいるので、彼のためにと思ってもらっていた。
 いま、この状態の彼でも酒って楽しめるのだろうか。すきな酒の香りや味が意識の回復にすこしでも役立つならと思わなくもないが……むりだろうな……。
 ま、とりあえず、十勝天晴はパントリーに直行。荻原がいつか目を覚ましたときにこれがあったらうれしいだろう、といいつつ、引っ越しのとき持ってきた酒もけっこうのこっているんだが。
 午後はこのあいだのキルト布でカーディガンを縫う。ミシンの振動が集中を誘い、気がつくと部屋が暗くなるまで作業していた。


1月11日 夜のつっかかり

 うつ伏せになろうとして、つっかかりを感じて目が覚めた。
 あたりは暗く、枕のうえのほうに常夜灯としておいている照明ボールのひかえめな光が、視野をほのかに明るませている。「何時だろう」と思うと同時に「1:11」だと了解した。体に埋めたチップの機能で時刻を知りたいと思うと内的にわかる。
 1月11日1時11分、おれは勃起していて、寝がえりを打ったときにちんちんが敷きぶとんにつっかえて目を覚ましたのだった。もともとは人なみにパジャマを着て就寝していたが、未来東京で荻原と同居を始めるさい、すきな人と同衾するのになにかを身にまとうことに意義が見いだせず、裸で眠るようになった(彼にも何度となく裸眠を勧めるものの断られつづけている)。
 素っ裸で寝ているので、勃起するとそれが寝具にひっかかって目が覚める。それじたいはよくあることだ。しかしよりによってこんなゾロ目のタイミングなのがおかしい。ずらっとならんだ1が勃起したちんちんのパレードみたいだ――荻原がそばにいたら、このくだらない思いつきをシェアして笑いあうのに。
 いや、そばにいることにはいる。となりに横たわってはいるものの、いまの彼はものいわず動かぬ水風船的存在なのである。あおむけに寝たまま微動だにしない。
「…………」
 おれはちんちんを握って天井をあおぐ。出したいと思う。
 雪が降っているのか、あたりは無音といっていいしずけさ。照明ボールのウィスキー色の明かりの中で自分の脈動をじっと感じていたが、ふとおれはふとんをめくって、かたくなに反って下腹に張りつくちんちんを露呈した。
「おい楯、これが見える? ――たぶんおまえの夢を見てた」
 どんな内容だったのかは起きたときの1ならびインパクトで消え飛んでしまった。もったいない。
 EDが治ったと思いきやこんどは荻原がこんな状態なんだもんな。どうなってんだこの人生? 照明ボールの横のティッシュボックスに手を伸ばして数枚引き抜くと、こちらに照り焼き色の横顔を見せるばかりの彼におれはいう。
「いいか、おまえを想ってするからな。心の目で見ろ」
 さすがに自分でもちょっと笑えたが、おかしいのと同じくらい切ない。
 目をとじて、おれのとなりには以前のすがたの荻原がいると想像する。また彼の体を愛せる日がきたらどんなふうにしたいか――それを想うとあまりの愛しさに全身がふるえ、見えない指に圧迫されているかのように眉間がぎゅっと痛んだ。
 ちんちんをこすりたて、強まってくる快感の中でいつかの彼のささやきが耳もとによみがえる。耳の奥を子猫の爪が甘くひっかくようなあの声で、彼ときたらこんなことをいうのだ――、
「コンドームをつけるときの音がすき」
 おれはゴムをつけようとする手をとめて彼の顔を見た。「音なんかする?」
 彼は微笑してうなずいた。
「するよ」
「どんな」
「先っぽにかぶせておろすときの」
 それからふたりは黙って耳を澄ませて、おれは根元までゴムをおろし終えた。たしかに、巻かれた薄い膜が皮膚に沿ってほどかれていくみりみりという小さな音がした。
「ね、するでしょう」荻原は笑った。「泡とか塗る奴よりも、この世ならではって感じ」
「楯の口からそんな言葉が聞ける日がくるとは」
 それからおれは感動して荻原に飛びつくように抱きしめ、いっそうはげしい気持ちで愛を表現したのである。
 重量感のある射精のあと、おれは乱れた息を整えながらかたわらの荻原を見た。
 伝わった? おれがどんなにおまえをすきか。
 彼の意識が戻ったら聞いてみたいことが増えていく。


1月12日 たったが立った

 夕方、座りつづけていた荻原の姿勢を変えるべく、すこし寝せようかとその肩に手をかけたとき、ハッとする感覚があった。
 あれっ、軽い?
 軽いというのはもちろん従来比の話。
 一日に何度となく寝かせたり起こしたり、床ずれしないように姿勢を変えさせてきて、そのたびに「まだかな」と心待ちにしていた、ある地点をいま越えた気がした。そう、自分の力で彼を運べるかもしれない、と可能性を感じるポイントを。
 端末を起こし、意識のない人を運ぶ方法を確認する。彼を担いで長距離を歩くというのじゃなし、寝ている状態から立たせるところまでわかればいい。床に寝るか座るかしかない彼をずっと見てきて、お気に入りの椅子ですごさせてやりたいと思っていた。
 おれは彼が未来東京の家具屋で見て購入を即決したという、「シンシンピコリ・ワークス」というメーカーのリラックスチェアーを居間に持ってきて、部屋の中心にすえた。この椅子、しっとりとした金属の網でできており舟形をしているのだが、座るとあまりにも気持ちよすぎてたちまち眠ってしまうので、読書やなにかを鑑賞しようというのには向かない。おれがこれに座るのは不眠で悩んでいるときくらいだろう。
「さあ楯、初めて立つよ。シンシンピコリに座れるぞ」
 おれは寝ている荻原をうつぶせにして彼の背後にまわり、その両わきの下から腕を通して、彼が膝立ちになるまで持ちあげる。つづいて、彼の前にまわってパジャマズボンを持ちあげて立たせる――ズボンの生地がちょっと伸びる素材だったため、力がよけいに必要だったが――なんとか、彼の足のうらが着地した感触があった。
 立った! たった(荻原のあだ名)が立った!!
 ゆっくりした動作だが、ここまでですでにはあはあと荒い息になっているおれ。くそ、雪かきじゃあ運動してるうちに入らねえか。もたれかかってくる荻原を抱きしめたまま深呼吸して息を整える。それから首をそらして、彼の両足がぐらぐらしながらもじゅうたんの上に立っているのを見た。
「たったちゃん、おまえ立ってるよ。立てたよ。やっとここまで来た……」
 この手を離せば彼の体はぐにゃりと倒れてしまうわけで、立っているとはいえないのかもしれないが、おれは、荻原の体を直立させられたのだ。あの秋の終わりの夜、初めて見たときにはあまりの変貌ぶりに圧倒されて天井にも届くほどと感じられた奇怪なほどのむくみは、人間らしいところまで癒えてきたのである。
 こちらに全身の体重をあずけて立つ荻原のほおにおれはキスをした。目頭がじわっと熱くなったが、気がゆるむと彼もろとも倒れてしまいかねない。気を引き締めて、彼を抱きしめたままそうっとそうっと――かたわらのシンシンピコリ・チェアーに向かってふたりの体をかたむけていく。荻原の上半身を小舟のような椅子の中にすべりこませ、足をもちあげてのせた。細い金属の網が柔らかくたわんで彼の体に沿って広がる。
 見おろすと、そこには、久しぶりにお気に入りの椅子に身を横たえている荻原がいた。
「やった……」
 ほよほよした髪の毛を撫でてやりつついう。
「これ大好きな椅子だよな、よかったな。気持ちいいだろう」
 枕を彼の頭の下にあてがい、毛布を体のうえに広げる。
「おれの自己満足? それでもいいよ」
 室内には西日が差していて、部屋じゅうが夕焼けの色に染まっていた。
「とことんやるぜ」
 と、だれに向かってでもない言葉がこぼれる。
 彼はなにもいわないけど笑ってくれている気がした。


1月13日 ペーパーフィルター

 昼食後、コーヒーを入れようとキッチンに立った。
 サーバーにドリッパーをのせ、ケースからペーパーフィルターを一枚取り出す。ざらざらした質感の白いペーパーフィルターのふちをきっちりと折るとき、いつも決まってシャツの襟を――ワイシャツを着た荻原を連想する。
 ペーパーフィルターをひらいてドリッパーにはめこみ、コーヒーの粉を入れる。熱湯を注ぐと、白い紙は身をよじるようにたわんでドリッパーのふちから浮きあがろうとする。彼のシャツのボタンとボタンのあいだにすきまができるようで、誘われているようでたまらない。
 この妄想が始まったのは大学時代で、当時はもう一日24時間×365日×4年間、頭の中はつねに荻原のこと。一日も彼を想わぬ日はなく――いや、一日のうち一時間、どころか10分だって完全に彼のことを忘れていられたことはなかった。
 ある朝コーヒーをいれていて、ペーパーフィルターのありさまのいやらしさに動悸がした。とにかくなにを見てもなにを聞いても荻原を思い浮かべるおれだった。「いま目の前にあいつが現れて、こんなふうに誘惑してくれたら――」と、コーヒーを吸って茶色がにじんだペーパーフィルターのたわみに、ポットのハンドルを握りしめたままつぎの湯を注ぐのを忘れて見とれたものだった。
 荻原と同居してからは当時のような激しい妄想はしなくなったと思っていたが、久々に来た。
「片想いみたいなもんだからな、いまも」
 できあがったコーヒーを飲みながら業界紙を読む。かたわらのシンシンピコリのチェアーに横たわる荻原をふと見やったとき、きょうは彼にもコーヒーを飲ませてやったらどうだろうとひらめいた。
「楯ちん、コーヒー飲んでみる?」
 最近の彼を見ていると、といっても、そうであってほしいというバイアスのかかった印象なのかもしれないが、あとちょっと、もうひと押し、なにかのきっかけで目をひらいてくれそうな気配があるのだ。
 病人にカフェインはまずい? しかしコーヒー二、三口ほどの微量ならば意識の回復のためにはむしろいい刺激になるんじゃないか。
 マグのコーヒーをさじですくってぬるくしたあと、荻原の口へと運んでみる。
「はい。おれブレンドですよ」
 カラメル色の液体は唇のすきまにすうっと吸いこまれていった。のどが上下する。ようすを見ながらゆっくりと、それを三度くりかえした。その後もとくにバイタルに異常なし。
 「楯のお世話日誌」に、「コーヒーが飲めた」と記す。


1月14日 愛だけがのこる

 所属する未来釧路弁護士会でセミナーがあり、ドリームドクター法パッチについての話を聞きに行った。家で荻原のお世話をしながらバーチャル聴講してもよかったんだが、今後、執務に復帰するなら知りあいを作っておくのが心強かろうと思い、車で赴いた。
 ドリームドクターという存在は、法道修習時代に住んでいた寮の医者から聞いて知った。当時資格が認可されて間もなかった「夢の中での治療」専門医師のことである。メンタルの病気にたいして、積極的に就寝時の「夢」を利用する点が、従来の精神科や心療内科からのアプローチとは異なる――なんといっても患者と医者が出会う治療室が、患者の夢の中に設定した「ドリームサークル」なる場所なのだから。
 患者と医者はそこで対話をし、肉体の制限を超えた意識だけの存在となってさまざまなレッスンをし、エネルギー補給がおこなわれる。この治療をくり返すことで、個人差はあるが心身の状態が改善されてゆき、中には生きかたそのものが変わってしまう人もいるということだ。
 こんな話もむかしのおれならばトンデモだインチキだとしか思わなかっただろうが、荻原の影響で瞑想をして、「ステーション」なる異次元空間で待ちあわせしてデートするなんて経験を何度もしているので、理解することができた。
 まあしかし、患者の側の性質がおおいに左右する治療法(やはりうたぐり深かったり緊張しやすかったりしてなかなか夢見の状態に入れない人は、むずかしいらしい)なだけあって、効果がなければ患者のせいという立場をとる、技量のあやしいドクターもすくなからず存在する。現行の法律ではドリームドクター免許制度がゆるくて、受験資格に必要な診療実績を水増しできるなどの抜け穴が存在するため、そこにパッチとなる法律があてがわれた。
 そんな話を二時間ほど聞いたあと、近くの席に以前あいさつをしたことのある同業者がいて話しかけたら、連れだという精神科医を紹介された。話していると、そばで興味深そうに聞いているジャージの中年男性がいて、ジュニアスポーツクラブの指導者だと名乗ってきた。ドリームトレーナーという民間資格を持っていて、夢の中で選手たちのメンタル面を指導するんだそうな。彼らの名刺をもらって軽く自己紹介をし、別れた。
 雪がちらつく宵の未来釧路駅前で、車に乗るまえにカフェイン補給でもとカフェに入った。カプチーノを注文する。大ぶりの真っ赤なボウルに表面張力でやっととどまっている泡の表面には、年輪のような細かなレイヤーがたくさん入った大きなハートが描かれていた。
 はあ、ラテアートね。期待していなかった演出にちょっとおどろく。
 両手でそっともちあげてひと口飲む。唇にこってりした泡がまとわりつく感触。なんだか楽しい。
 端末でセミナー資料を読みながら飲んでいたが、とちゅうで読むのをやめた。テーブルのうえにはさっきもらった名刺。きょう会話した人たちのことを思い出し、これまで自分はいろんな人と、浅く、深く――ときには会社の財務状況や個人の家庭事情なんかにもとことん立ち入ったりして――関わってきたな、としみじみする。未来東京時代ほどめまぐるしくはないだろうが、これからもいろんな人と知りあって別れて、おれをめぐる人間関係は変わりつづけていくのだろう……。
 なんだろう、荻原と離れてひとり青ざめた街を眺めて茶なんぞしているからか、いやにセンチメンタルだ。
 そうそうそう、あいつが待ってる。そろそろ行くか。
 ラストひと口を飲もうとした赤いボウルの底には、泡に描かれた端整なハートがほぼそのままの形でのこっていた。
 「あ」と、このときのおれは声が出てたんだか、出てなかったんだか。
 だれと出会って、なにをして、どんな経験を重ねても――さいごには愛だけがのこる。
 そんな声が胸の中に聞こえると、たちまち荻原を求める感覚でいっぱいになって、体はもうしびれるようで、いてもたってもいられずおれは荷物をまとめて席を立ち、「馬」を駆った。
 ちなみに、さいごまで崩れずにのこるラテアートはバリスタの腕がいい証拠なのだと聞いたことがある。


1月15日 おれは君洗い係

 夕食のあと、風呂に行こうかと思い立ち、シンシンピコリのチェアーに横たわる荻原に軽い気分で声をかけた。
「ハーイ楯ちん、ねんねんしてる? 起きてる? おれこれから温泉行こうと思うけど」
 チェアーのわきに座って、そっとその厚い手をとる。
「おまえもどう? 平日だしこの時間ならそれほど混んでない」
 話しかけながら半分は「まだ無理かな」と思っていたところに――彼の指先が、おれの手の中でぴくりと動いた。
「えっ」
 おれは彼の手と顔を見くらべてもういちど問う。
「たっ楯、行くの? これ行くって意味?」
 指先がもういちどかすかに動いて、こんどは枕に埋もれていた頭がすこし上向いた、ように見えた。
「わっ、わっわっ」彼の手を握りしめながら思わず立ちあがってしまうおれ。「ほ、ほんとに。よし、い、行くぞ、じゃあ」
 とつぜんの事態におれは腰が抜けたようになりながらあわあわとチェアーを離れ、風呂道具を準備し始める。ふたりぶんのタオルや着替えをバッグに詰めて、さきに車に積んでおくべくそとに出る。
 風はなく、雪が間遠に降っていた。
 吸いこまれるように見あげると、深々とした夜空が影絵のような黒い森のうえに広がっている。青い雪の中に立ち、ついにここまで来たぞ、と、気づくとおれはにぎりこぶしを作っていた。ついに外出、ついに温泉。荻原と――荻原と!
「馬、楯を乗せるぞ」
「はい。今日はどちらへ」
「きかとら温泉。後ろに乗せるからシート前に倒して」
「はい」
 運転席と助手席のシートが前傾し、後部に広く空間ができた。
「つれてくるのに時間がかかる。暖めて待ってて」
「了解しました」
 家に戻りながら段取りを考える。上着はどうする? おれのコート、腕は通せねえだろうが羽織らせてやろう。足は雪かき用の長靴が入ってくれるとありがたいけど。帽子と、あと、マスクもいる。混んでないとはいえ人目はちょっと気になる。
 玄関に長靴やニット帽、マスクなんかの小物を用意して、居間へ。チェアーの彼を抱き起こすと、その両足を床につけさせ、「よっ」というかけ声とともに気あいを入れて立たせる。抱きあった姿勢で、その大きな体を背中からおれのコートで包む。そしてすこしずつ向きを変え、一歩、一歩、玄関へ向かう。
「ずっとずっと連れて行きたかった。すごくいい温泉なんだ。露天じゃ鹿も見たし、お湯は治らぬ病なしだよ」
 荻原の体重をおれにもたせかけ、片ほうの手で彼のまるい背を抱きながら、もう片ほうの手でシューズボックスのうえのニット帽をつかんで彼にかぶせる。片手だと笑ってしまうくらいやりにくく、ニット帽の前を押さえれば後ろが、後ろを押さえれば前がずるずるとずりあがる。
「ハハ……なにやってんだ」
 おれは笑いながら、彼の顔側にまず帽子のふちをひっかけておれの額を押しあてて押さえ、彼の後頭部側にニット地をぐいっと伸ばした。顔を離しても帽子がずりあがらないのを確認すると、あらためてちょっと目深になるように引っ張ってやる。
「頭ってむくむもんなんだな。こんなに広がった編み目見たことねえ」
 ぼてっとした足はなんとかゴム長靴に収まってくれた。玄関から出て、いちど壁にあずけた彼の体を背負い、車までの数メートルを歩く。彼の体はむくんでぶよぶよしているが筋肉は落ちていて、いまじゃおれより軽いんじゃないか。
「馬、リアドアあけて」
 ドアがひらき、おれは車に背を向けて荻原を降ろす。彼の大きな尻が床に乗った――感覚を確かめ、体を離す。車の反対側に回り、ドアをあけて彼の胴を引っぱりあげ、シートに腰かけさせる。またもとのドアに戻ってぶらんとさがった足を曲げて床のうえに収め、姿勢をなおす。車の両側を行ったり来たりしてそんな微調整をくりかえし、ようやく荻原は正面を向いて座ることができた。シートベルトをぐんと伸ばして装着させる。
「ここまでで一時間超」
 おれは運転席につき、タオルで汗を拭く。すでにかなり疲れたはずなのに、脳から興奮物質が出ているのか体はまだまだ動きたがっている。
「馬、これが楯だよ」
「ようこそ楯さん、お待ちしていました」
 荻原は黙っている。
 馬はもういちどいう。「ようこそ、荻原さん」
「いろいろあっていまは喋れないんだ。外見もぜんぜん変わっちゃってるし」
「…………」
 馬が高速で思考しているのが伝わってくる。しかしどんなに優秀なAIでもこの状況を理解するのは無理というもの。おれだっておれと荻原に起こっていることの全貌を正確に把握しきれているのかといえば、心もとないんだから。
「いいんだ馬、わからなくて。とにかく安全運転で頼む」
「自動運転開始します」
 草色のジープは雪を踏みながら走りだす。
 ふだんはほとんど使わない機能なのだが、きょうは運転を馬にまかせ、おれは移動中リアシートの荻原のようすを見守ることにした。山間の温泉までの道は細くて険しく、揺れる箇所では腕を伸ばして彼の体を支えた。
 きかとら温泉に到着した。家を出たときよりも降る雪が増えている。
「ついたぞっ、楯」
 ぱつぱつのニット帽の中の遮光器土偶よ、もう愛しさでどうにかなりそうだ。その顔を両手でつつみ、ぷよぷよの頬にキスをしてからマスクをつけてやる。まずおれだけさきにひとっ走りして施設の受付へ行く。家族風呂の順番待ちはどのくらいか聞くと、いま入浴中の組が出たところで清掃が終わったら入れるとのこと。おれは家族風呂のドアノブにバッグをかけ、荻原を迎えに駐車場へ戻る。
「お待たせ。次入れるって。運がいい。さすが楯さま」
 彼を車から降ろして背負う。ゆるい傾斜のある広い駐車場を氷の部分をよけながら歩く。日帰り入浴や宿泊の施設を通りすぎ、その奥の家族風呂の小屋につくまでのあいだ、何人かの入浴客とすれちがった。彼らは荻原のすがたに目をみはったり二度見したりする。あっという声をあげてしまう人もいた。
 しかしそんな反応も想定内のことで気にならない。なんたって今日は、ついに夢が叶って荻原が温泉に来られたのだから。なんぴとたりともおれのわくわくを止められやしない。
「こんばんは」
 と、好奇の視線をよこす人には明るくあいさつで返す。
 家族風呂にふたりで入って中から鍵をかける。脱衣室はストーブで暖まっていた。荻原をベンチに座らせて長靴を引っぱると、足が抜けるときにスポン! と音がして笑う。彼も笑ったような気がしながら、その服を脱がせる。おれも自分の服を脱ぎ、バッグから風呂道具を取り出す。
 肩を組んでゆっくりと浴場をすすむ。はやく湯にいれてやりたい気持ちを抑えて、彼を座らせてかけ湯をし、全身をスポンジでかるく洗い流す。
「風呂なんて三か月ぶりじゃねえ?」
 家では蒸しタオルでぽんぽんとたたくように体を拭くことしかできなかった。ドライシャンプーも、汚れをしっかり落としているというよりは、清涼感のある香料で洗ったような気分になれるだけのもののような気がしていた。
「さ、入るぞ。滑るから気をつけて――って、気をつけんのはおれだよな」
 自分で自分につっこみを入れつつ、荻原をもういちど立たせて、ハムのような片足を持ちあげて湯の中にいれ、もう片方のひざを曲げ、湯船にすべらせてゆく。ぷかぷか浮いてしまうんではと思った水風船のような体は、なんとか湯船の中の段差の部分に座ることができた。水の抜けてたるんできた皮膚がふわふわと揺れるままに、荻原は微笑しているかのように目をとじてお湯につかっている。
 なんだこれは。新種の生命体かよ。
 そのほのぼのとした光景に胸がいっぱいになる。
「夢が叶った! 楯ときかとらに来る夢が叶った」
 おれは荻原を抱きしめる、近ごろはやっと、抱きつくよりも抱きしめる感覚に近くなってきた。
 おれは手で湯をすくって彼の丸い肩にかけてやりつついう。
「熱くねえ? ここの温泉の中じゃあ低めのほうなんだけど」
 きかとら温泉には、麦茶っぽい色や淡い乳白色、黄色っぽい湯の華が豊富な湯などいろいろあるのだが、家族風呂の湯は透明で湯船の岩の縞目もようがはっきり見える。
 そのとき湯の底で、彼の大きな足の指がフンフンと動いているように見えた。湯が揺れているのか、指が動いているのか?
「え? 指動かしてる? ちょっちょちょっと待って!」
 おれは湯の中に顔をつっこんで目をあけた。目玉が熱い。しかしその足首から先が楽しそうに動いているようすに釘づけになってしまう。やはり温まると調子がよいのだ、浮力もついて動きやすくなるし。
「いいリハビリになる。また来よう」
 いつもは一文字にとじたその目が、気持ちよさそうに弓なりになっているように見える。
「このへん野湯もあるんだって。元気になったら行きてえな」
 ショッさやエンドさから、近場の野湯の情報を教えてもらっていた。清流沿いに湧き出している小さな温泉がいくつもあるそうな。そのなかでも「鹿遊の湯」のお湯は幻想てきな緑がかった銀色をしてるのだとかで、とくに勧められた。
「夏の三か月しか入れねえの。まわりにふつうにキツネとか歩いてて――熊も出るらしくて、立ち入り禁止になったりするっていうから、運だけど」
 ぜったい来よう、と荻原のうるけた(未来北海道弁で「ふやけた」の意)白い手をさする。赤んぼうの手首っぽい、輪ゴムでも食いこんだかのようなくびれかたをしている。
「そろそろあがるか」
 彼の髪や体を洗う。石けんをしっかり泡立ててスポンジで優しく皮膚を撫でながら、むかし荻原の家に『パパはママ洗い係』って漫画があったと思い出す。色白でやたらと肉感的な「ママ」と、毛深くて強面でイノシシみたいな「パパ」の日常を、ロボットめいた息子「ぼく」の立場から描いたシュールなギャグ漫画。このパパがママを溺愛することかぎりなく、バスタイムにはママの全身を洗ってやる習慣になっている。
 そうか、おれも楯洗い係なんだな。それでいい。というか、それがいい。もっといえば、一生そんなことだけをしていたい。
 あっというまに家族風呂の利用時間が終わりかけていた。自分を洗うのを忘れたが、まあいい。湯冷めしないよう、とにかく彼の体や髪を念入りに拭き、乾かす。帽子も深くかぶせてマスクもつける。
 急いで出る準備をしたが利用時間をすぎてしまったかもしれない。荻原と肩を組んで家族風呂のドアを出たとき、向こうから女性ふたり連れが歩いてくるのが見えた。いま来たのかな、待たせたんじゃないといいけど……、と思いつつ、すれちがいざまに会釈する。
 そのときだった。
「……先生?」
 聞きおぼえのある声に呼びとめられる。おれは顔をあげる。
 ニット帽にジャンパーの女性たちが目の前に立っていた。
 ありえない光景に、頭がくらっとする。「ええと、あなた、は……」
 家族風呂の小屋を出たときのおれの心理は完全に、荻原とふたりだけのときの超プライベートモードになっていた。そこから一瞬で世間対応モードに戻るのは、ワームホールを抜けて別の宇宙へ移動するくらいの負荷がかかる。
 すぐにはものがいえずに彼女の顔を見ていると、相手は顔を輝かせて、こういった。
「伊藤です。兼古先生ですよね?」
 あら、知りあい? と、彼女の背後の年かさの女性がおどろいたようすでいう。彼女はふり向いて、ごくしぜんに「うん、未来東京の知りあい」といった。
 数秒見つめあったあと、さきに彼女――おれが未来東京で受任していた性的煩わせ訴訟の相手方原告――伊藤豹が口をひらく。
「私、勝ちました」
「おめでとう」
 彼女が勝った、つまりうちが――おれの後任の燃野いく氏が負けたことは知っていた。
「ほんとに、二度あることは三度ありましたね。しかもこんどは、未来北海道のこんな山奥で」
 伊藤豹とは未来東京でぐうぜん出くわしたことが二度あった。彼女は訴訟の原告で、おれは被告代理人。楽しい話に花が咲くような間柄ではなかったが、二度めに駅のホームで会ったときにはすこしだけ会話をした。彼女はその訴訟に「勝っても負けても故郷に帰る」といっていた気がしたが――。
 勝訴したためだろうか。未来東京での彼女とは別人に見えるくらい生き生きしている伊藤豹は、つやつやした顔で問う。
「こちらには、冬休みのご旅行とか?」
「いや、住んでる」
「え? 先生、このへんご出身……?」
「ちがう。さいきん住み始めた」
「私の実家、鹿嘗町役場のうらです。先生は?」
「鶴寝のおばけ屋敷」
「え!」
 伊藤豹は口に手をあてる。
「湯冷めしそうだよ。失礼」
 よっ、と腹から声を出し、おれは荻原を背負って歩き出した。

 車の中でも、家に着いてからも、短時間に感情が大きく動きすぎたせいで心身がしばらく興奮状態だった。荻原といちゃいちゃしてゆるみきっているときに仕事上の人間関係や世間的な価値観に介入されるのがいちばん神経にこたえる。
 とにかく今日は、彼を念願のきかとら温泉につれて行けたのは最高だった。「楯のお世話日誌」に記す。そして伊藤豹との再会、これは――青天の霹靂ではあったが、いまは彼女となんの利害関係もないわけだし、吉なのか凶なのかわからない。役場のうらに住んでいるとかいっていたな。気づかぬうちに同じ町で生活していたことになるのか。
 ほかほかと温かな頬をして眠る荻原を見やりつつ、テーブルで日誌をつけたり、物思いしたり。
 なにかが動き始めた一日、そんな気がする。


1月16日 再接続

 温泉効果なのか今朝の荻原は寝汗をかいていた。
 仮死状態のようにずっと低体温だった彼が、汗をかくほどに回復したなんて! 水分の排出がすすみ容貌はいちだんとすっきりして見えたし、カーテンをひらいて部屋に朝日がさしこんだときには、またすぐにとじてしまったものの一瞬は薄目をあけたようだった。
 ここまではっきり手ごたえがあると、なにか刺激があればさらに回復が早まるんじゃないかと、ついあれこれやりたくなってしまう。かき氷を食べさせてみようとか、ちょっとだけ酒を飲ませてみようとか。
 いかんいかん。
 はやる気持ちをおさえてルーチンをこなす。
 昼食のあとは雪目防止にゴーグルをつけて雪かきをした。いまは晴れていてまぶしいくらいなのだが、ひと晩降りつづけた雪は、車や庭や塀をみんななめらかな曲線でつなぐように積もっていたのだった。
 ママさんダンプであらかた雪を運び出し、ショベルで塀やジープ周辺の雪をどけていると、町の方面から走ってきた白い車がうちの前で減速するのに気づいた。運転席にいたのは――伊藤豹。
「…………」
 そうか、鶴寝のおばけ屋敷に住んでるって伝えていたんだっけ。
 うちを訪ねてきたらしい伊藤豹に、おれはショベルの手を止めてうなずいてみせた。いま雪かきをしてあけたスペースにもう一台入れそうだ。車をバックでとめ、彼女が降りてきた。昨夜、家族風呂の前で見たときと同じニット帽とジャンパーだった。肩をすぎるくらいの髪を両耳のしたで二本に結んでいる。
「こんにちは」
 おれも答える。「こんにちは」
 彼女は目を細めて家を見あげ、いう。
「ほんとにおばけ屋敷に住んでるんだ……」
 おれはゴーグルをはずして答える。
「なにも出ないよ。とても快適に暮らしてる」
「母から――あ、昨日いっしょにいたのが母ですけど、未来東京から来た若者が住みはじめたらしいって聞いてて、うひゃーって思ったけど、まさか先生だったとは」
「いいでしょ」
「うらやましくないです!」彼女は笑った。「昨日のお連れの人は荻原さん……ですか?」
「え?」
「表札に、荻原・兼古って」
「ああ、なるほど」おれはうなずく。
「興奮しちゃって、湯あがりに引きとめてすみませんでした。湯冷めしませんでしたか? 荻原さん病気のごようすなのに」
「ゆうべの彼はあれでもかなり元気なほうです。ご心配なく」
「あの、これ……」
 伊藤豹は手にさげていたビニールぶくろを持ちあげてみせた。
「農協の前で売ってる今川焼き、すごく美味しいんです。さっき販売車が来てて、ラッキー! って買いました」
「…………」
「あと、たこ焼きも」
「…………」
 これは、中に入れてほしいってことなんだろうか。
「じゃあ、祝勝会しましょうか。――どうぞ」
「ありがとうございます!」
 伊藤豹を居間に通し、いつも窓ぎわにおいているおれの作業用テーブルを真ん中に持ってくる。
「てきとうに座って」と、おれはパントリーを眺めながらいった。
 仕事関係でもらった酒が未開封のまま何本も立っているが、とりあえずりんごジュースのびんを抱えて居間に戻る。彼女はシンシンピコリ・チェアーの前に立って横たわる荻原を眺めていた。
「あの、荻原さんは寝てらしゃる……んでしょうか」
「寝てるともいえるし、そうでないともいえるし。大丈夫なので気にしないでください。――あの、酒がいっぱいあるんですけど、よかったら飲みませんか。帰りは私が伊藤さんの車を運転して送ります」
「え、でもご迷惑では」
「私も町に用事があるんで、ついでで」
「ほんとにいいんですか?」
 そんなつもりではなかったというように、彼女は切れ長の目を丸くしている。
「もちろんむりには勧めませんが……」
 おれって人を誘うのがへたなのかしら。たしかに自分でも荻原を誘うときとほかの人を誘うときでは熱意があきらかにちがうとは自覚している。荻原以外の人間を誘うのは、せっかくだからとか、行きがかりじょう好都合だとか、相手にも自分にもメリットがあると思うときくらいだ。この淡泊さはわれながらAI並みだと思う。
「酒があって、町に出る用事もあるので提案しただけです」
 彼女はおずおずという。「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「日本酒どうですか。ビールもあるけど」
「ありがとうございます。ビールいただきます。先生、ふだんはお酒飲まれるんですか」
「私はつきあいていど。彼がもともと酒ずきで、買ったりもらったりしてつねにストックがあるんです」
 皿を用意して、彼女と手分けしてたこ焼きや今川焼きをのせる。おれは彼女のグラスにビールを、おれのグラスにりんごジュースをそそぐ。
 おれはいった。「いろいろあったけど」
 伊藤豹は感無量というようにうなずく。「はい」
「勝訴おめでとう」
「ありがとうございます」
 グラスをかちりとあわせる。
 ジュースをひと口飲んでおれはいう。「まさかあなたと飲むことになるとは。未来北海道の片田舎で」
「片田舎ですみませんね」
「賛辞なんだけど」
 彼女はたこ焼きをほおばり、涼しげな目をきらっと光らせていった。「正直、先生がまさかの交代をしてくれて助かりました」
「え?」
「燃野弁護士は、私には戦いやすい相手でした。ちょっと怒らせてみようかなと思うと、ちゃんと挑発に乗ってくれるところが」
「優秀な人なんだけどな」
 と、おれは燃野いく氏の怒った表情を思い浮かべながらつぶやいた。
「兼古先生のほうが、なにを考えてるかよくわからなくて、淡々としてて」
「いつもは私のほうが燃野先生よりよっぽど短気だよ。あのときはプライベートに重大な気がかりがあって必要最低限の注意力しかなかったから、ぼんやりして見えたかもしれないけど」
「重大な気がかり……」
 答えを探るような彼女のまなざしに、おれは荻原を見やってみせる。
 そうか、というように彼女はうなずいた。「荻原さんの病気、ですね」
「そう」
「ええと、さっきから思ってたんですけど、彼と兼古先生の、ご関係って――」
 伊藤豹はもじもじと聞きにくそうにしている。
 おれはりんごジュースのグラスを持って立ちあがる。荻原の指をつかんで、「りんご飲む?」と聞いてみる。手の中で指先がかくんと曲がる。
 おれはグラスのジュースを口に含み、荻原の唇に口移しで飲ませた。
 ふた口飲ませて、「まだ飲む? もういい? ――もういいか」と、彼の意思を確認して離れる。
 伊藤豹の前にふたたび座って「こういう感じです」というと、彼女は顔を真っ赤にして、しどろもどろにいった。
「あっ、あ、あ、そ、そうなんですね、素敵です」
 それから、十月の終わりに彼がいなくなったときのことから、彼女に話した。
 理解してもらうためには時どき、おれと彼の高校時代のことや、離れて暮らしていたときのことなども織り交ぜて伝えねばならない。長い話を終えたときには、彼女はアルコールのせいか恋愛の話のせいか、いくぶんぼうっとしていた。
「先生は――」
 火照った頬をして、胸いっぱいというように彼女はいう。
「もののけ女房をもらったわけですね。女房って、男ですけど」
「彼はおれのほうを女房だっていうよ」
「ある意味いまこそ、ほんとにもののけ屋敷なんだ、ここ……」
 彼女は子どもっぽく顔を輝かせて天井を仰いだ。
 日が暮れるころ、おれは伊藤豹を町役場まで送った。彼女は助手席からの景色を眺めながらぽつりという。
「あの駅のホームで会ったとき、先生を見ていてふしぎな感じがしました。この人、こんな出会いかたじゃなかったら友だちになれそうなのにって」
「…………」
 どう返事をしたものか、すぐには言葉が出てこない。
「なにかのまちがいでこの人と私は敵どうしとして出会ってしまったけど、そうじゃない関係でもぜんぜん違和感ないな――っていうか、そんな世界がすぐそばにある感じがしてました」
「…………」
「あのころ、まわりが信用できない人だらけに思えて、ほんとうのことを話せる人を必死で探してました。兼古先生を見たとき、この人だったらよかったのにって思ったんです、なぜか」
「…………」
「おかしいですよね」
「私を見て信頼に足ると思ってくれたんなら、それはそれでうれしいけど」
「そういう感じともちょっとちがって……」
 彼女は言葉を探すように宙に目をさまよわせて、いう。
「いまやっと、正しいほうの世界に再接続された感じっていうか……」
 おれは笑った。「荻原みたいなこというな」
「え?」
「あいつもふしぎなことをいうよ。じっさいめちゃくちゃ不思議くんだし」
「どんなふうにふしぎか、またいつか教えてほしいです」
 伊藤豹を役場前で降ろした。
「この町のことでわからないことがあったらなんでも聞いてください」と彼女は笑っていい、建物と建物のすきまの小道に消えていった。


1月17日 バーバー惑星

 庭に面した大きな窓から雪が降るのを見あげていると、エレベーターにでも乗って上昇しつづけているような感覚におちいる。
「面白いなあ楯」
 と、思わずいってしまうが、シンシンピコリ・チェアーの彼から返事はない。
 おれは立ちあがってチェアーを窓ぎわへと押し、降る雪を彼に見せてやる。目はとじていてもなにかを感じてくれるかもしれない。
 おれは彼の人さし指をにぎって、その指紋をくるくる撫でながらいう。
「子どものころにも家の窓から雪を見て、初めは『あがる! あがる!』ってはしゃいでたけど、このまま見てたら天国行っちゃうんじゃねえかってこわくなって見るのやめた、ことがあった」
 ぬるくなった茶を飲む。
「おまえのおかげで天国――ステーションか。そんな場所がほんとにあって、しかもこわくないってことがよくわかったけど」
 未来京都で法道研修所の寮に住んでいたとき、未来東京の荻原と週末にステーションで待ちあわせてデートしていた。初めは「ステーションに行きたい、行きたい」とあまりにも強く念じすぎて、かえってそれがステーションへ意識を移行するために必須なリラックス状態になるには妨げになっていた。そして、念じることにつかれたりあきらめたりしてほどよく脱力すると、ふっと眠気がさした瞬間にステーションへ行けたりする。
 あのときは、さきにステーションで待っていた荻原が向こうから導いてくれたから、こうした技術の未熟なおれでも行くことができたんだと思う。なんたって彼は葬儀社の仕事で、ステーションで行われる死者の見送りのために、地上で眠っている親類縁者たちの意識を呼び寄せるということを日常的にやっていたのだから。
「ほんとおまえって、夢魔みてえな奴だよなあ」
 荻原がこの状態になってから、ステーションに行けたら彼の意識に会えるのではないかと瞑想を試したことが何度かある。しかしやっぱり彼に会いたい気持ちが先走って、リラックスできないことに焦って、時間ばかりがすぎてしまう。彼のサポートなしにはむりだった。
「楯、おまえの意識っていまどこにあるの?」
 おれは彼の前髪をかきあげて、牛乳色のひたいをさらす。
「おでこの奥にいるのかな」
 その柔らかなくせ毛をくしゃっとつかんでは離し、指のあいだをくぐらせ、手触りを楽しむ。長いことそとに出ていない彼の頭皮は青白く海氷のような透明感があった。波うつ髪のからまった美しい耳を見ていると、草むらの中から古代の戦士の盾を無傷のままで見つけたような気持ちになる。おれは草をかきわけるように髪をよけてあらわにした彼の耳のふちをつまみ、耳たぶをちょっと引っぱってみる。
 こういうことを幼児期に――いや、小学校にあがってからもずっと、心ゆくまで母親にしてみたかったし自分もされたかった、と思い出す。くすぐったがられたり手をのけられたりして数秒とできたためしはなかったが。
「髪を切ろうか」
 彼の前髪を指ではさんですーっと伸ばすと、目を隠すくらいになった。
「そうしよう、ね」
 おれは立ちあがり、チェアーの背を起こして荻原の姿勢を整え、ヘアカット用のケープを着せた。スツールを持ってきて彼の横に座り、はさみを構える。
 冬の明るい窓ぎわで、彼という太陽をめぐる惑星のように位置を変えながらその髪を切った。切られた髪がナイロンのケープにはたはたと落ちる音も愛しくて、はさみの刃をとじるたびに耳を澄ませた。


1月18日 4匹の子ぶた?

 おれも髪を切ることにした。
 おれは彼とちがって、月にいちどは必要なサービスならなるべく同じ店に通いたい。こういうのはかかりつけ医といっしょで、髪質や肌質や頭の形、好みのスタイルや仕上がりを把握している人に施術してもらうのが話もはやいし安心安全。そして、店をどこにするか毎回考える時間を省ける。
 未来帯広駅近くの黒壁平屋建てのしゃれた店に決めたのもかなりのリサーチを経てのことだった。おれは駅前の駐車場に車をとめ、午後一番で予約をしていた店に入る。ベテランの白髪あたまの店長が担当してくれる。
 待合スペースの黒い革張りソファで待つこと数分、カット用のいすへ案内される。
「どうされますか」
 と、店主が鏡ごしにたずねてくる。すこし伸ばしているごま塩めいたあごひげが渋い。
「前回と同じように」
「はい」
 カルテを確認してさっそく施術に入ってくれる。
 技術や店の雰囲気などの基本的な部分で評価が高いのはとうぜんとして、店のレビューで「スタッフは余計な話をしない」とあったのが、この店をえらぶ決め手となった。
 ここを利用するのは二度めだが、技術も使用品も申しぶんなく第一印象はかなりよかった。あとは安心して担当者に任せておればよい。イメージとちがうようにされてしまうんじゃないか、シャンプーや整髪料の香りが好きじゃない感じだったらどうしよう……などと心配しなくてもよさそうだ。
 「安心したい」というのが子どものころからの願いで、心をゆるしきることのできる関係や環境をずっと求めていた。そのためには心地よいものや間違いのないものをこの世界の中から自分の力で探し出し、周囲をたしかなもので固めて、安全な空間を確保するしかないと思っていた。幼稚園にあがるころには、『3匹の子ぶた』の絵本を読んで「レンガの家に決まってんだろ、さいしょからレンガ一択だろ」と、わらの家や木の家のぶたは馬鹿だと鼻息荒く思っていた。
 長いあいだ、おれの考える安心とは鉄壁の要塞の中でのみ得られるものだったのである。
 人間関係はそのような強化を最優先にすべき項目で、パートナーにはぜったい信頼できる決して裏切らない人を――と、思っていた、はずなのに、じっさいに惚れてしまったのは荻原楯である。ファンからの貢ぎ物で生きていけそうなそのジゴロ体質は、じつは無欲でなにも持たずとも平気な旅の僧とコインの裏表のようでもある。気絶しそうなほど甘い時間をくれるのに、なにを考えているのか謎で、どんなに尽くしたっていつ消えてしまうかわからない……そしてほんとうに失踪してしまったのをやっとつかまえた、風のような雲のような男なのである。
 そ、そ、そ、そんなにも理想と真逆な人間に骨抜きにされ、生まれ育った未来東京から遠く離れた小さな町の一角で、いま髪を切られているんだよおれは!
 そう思うと笑いがこみあげ、こらえるのに歯をかみしめる。店長をちらっと見るとなにも気づいてないようすではさみを振るっていた。
 そう――しょせん、理想なんてものは思考でつくりあげたもんなんだよなあ、と、つくづく思う。おれの理想のパートナー像というのは、おれがこの世界で生きのびる確率を上げるための共同生活者、もっといえば共闘者、みたいな感覚で想像していたのだった。しかしほんとうにおれがしたかったことは、この現実をサバイバルするにはむしろ不利な、もう自分はどうなってもいい、死んでもいいと想えるほどにすべてをかけて誰かを愛すること、だったらしい。
 じつは自覚しているのである。おれがこうした店えらびなんかの場面で、失敗したくない、いやな思いをしたくないからとリサーチを重ねたり計画したり備えたりして、やっと安心できるアイテムやスペースを手に入れること――それはけっきょく、世界を警戒していることなんだと。これなら間違いないと警戒しなくてすむ小さなものを手に入れるために、もっと大きなものを警戒しつづけている。
 たぶんほんとうに警戒をやめたとき、世界を警戒することをやめたとき、世界じゅうが安心な場所に変わるのだろう。
 そんな生きかたがおれにできる日はくるんだろうか。
 すでにそういう生きかたをしている奴を、ひとりだけ知っている。しかもいちばん身近に。
 荻原。彼がどういう気持ちで生きているのか聞いてみたい。
 3匹の子ぶたの話に荻原とおれが登場するなら、おれはまちがいなく3匹めのレンガ子ぶただろう。そして彼は、数のうちに入れられなかった放浪癖のある4匹めの子ぶただ。その子ぶたの家は木でもなければわらですらなく、敷物が一枚あるだけ。宇宙が彼の天井であり、壁はなく風が吹き抜けるまま。
「なんで頑丈な家にしないんだ」
 と、レンガなおれは野に住む彼に忠告に行くだろう。
 すると彼はこう答えるのだ。
「この美しい世界に壁がいる?」
 おれはもうたまらず、レンガの家を捨ててついていってしまうだろう。


1月19日 二日めの匂い

 家でなにがしかの作業をするときは居間の大きな窓の前にテーブルを持っていく。そこが定位置になっている。すぐ背後にはチェアーに横たわる荻原がいる。昼のあいだは彼を窓の近くに寝かせることにした。そろそろおひさまに当たりたいんじゃないかと思って。
 きょうは彼のゆるくなった服を解体し、布を再利用してひと回り小さな服を作っていた。糸をぜんぶほどくとなると気が遠のくので、縫いあわせ部分は切って取りのぞいてしまう。袖口や襟など布が二重になっている部分は使わない、などのルールを自分の中で決めたら、あとはどんどん切っていく。そしてリサイズした型紙を当てて布をカット。
 あとは縫うだけというところまですすめると、おれはかたわらのポットから茶をおかわりして飲み、背後の荻原をふり返った。
 彼の鼻のあたまに午後の日差しが当たって、そこがまるく白く光っている。
「鼻のあたまが光ってる。うれしい」
 おれはその部分に触れてみた。光の丸は指先でかくれてしまうくらいのものだった。
 なんで彼の鼻が光っていたらうれしいんだか、わけがわからん。とにかくじんわりとした温かさが胸を満たしてきて、口もとがゆるんでしまうのだ。
 おれは体を伸ばしてチェアーのへりにもたれ、彼のいくぶんすっきりした髪をつかんでは撫で、その中に顔をつっこんで息を吸いこんだ。今夜温泉につれて行くつもりで朝に洗わなかった髪は、洗った翌日の匂い――二日めの匂いがした。
 健康なときより新陳代謝が落ちているとはいえ、ちゃんと頭皮から汗や皮脂の分泌があり、二日めの匂いがするのはよい。
 お裁縫タイムだったのも忘れ、彼が動かないのをいいことにくんくんとかぎつづける。おれは彼の匂いマニアで全身あらゆる箇所の匂いを熟知しているが、だいたい首からうえはパン、とくにくるみパンに似た匂いがする。
「はあ、いい」
 おれは彼の髪の中から顔をあげ、ほうけた声をもらした。
「たまらん……」
 おれが荻原をすきな理由は、もちろん見た目がどうしようもなく好みだったというのもある。彼にいわせれば、おれが彼を見つけやすいようにわざわざ「おれ好みの外見で生まれてきた」らしい! いうか普通そんなこと!? とおどろきつつも、その美麗な容姿が自分のためといわれた日にゃあ顔面が雪崩を起こすほどデレきったおれだった。
 そしてつきあいが深まるにつれ、おれと正反対ともいえる彼の考えかたや生きかたに惹かれるようになり――同時に、その声とか匂いとか皮膚の手ざわりとか、彼のしぐさや雰囲気に離れがたいものを感じるようになっていく。
 外見に始まって、いまはそのすべてが愛おしい。別人のようにすがたが変わってしまっても。
「さてと。ぴったりサイズに仕立て直してるからな。待ってろよん」
 荻原成分を体いっぱいに満たしてごきげんなおれは、鼻歌しながらふたたび作業台に向かう。ミシンを手前に持ってきて起動する。
 できあがった部屋着を着せ、夜には彼を温泉につれて行った。


1月20日 9時ラー

 目が覚めてからどのくらいたったんだろう。気づくと天井を見ていた。
 体は床に釘づけにされたように重い。
 きかとら温泉の湯は体の深部までほぐしてしまう。昨夜は荻原の身じたくをして車に乗せ、家族風呂の小屋まで背負っていって入浴させ、また服を着せてつれ帰る――という一連のけっこうな重労働と、温泉でゆるみきってしまう体験を同時にしたおれの体は、翌朝、複雑なだるさで満ちていた。重いものを動かしたり運んだりして傷ついた筋肉組織が、じわじわ修復されていく感じというのか。
 二度めだったので、ミッションの全過程ですこしずつ手ぎわがよくなっており、今回はおれも自分を洗うのを忘れなかったし、湯にゆっくりつかることができたのだった。
「おはよう」
 おれはとなりのふとんに横たわる荻原にもぞもぞと手を伸ばし、彼の指に指をからめる。
「細い」
 思わず声が出る。長らくゆですぎたソーセージのようだった彼の指のつけ根にも、いまはすきまができて「恋人つなぎ」ができる。まだちょっときついけど。
 いま何時だろう、と自分に問いかけると、8時28分だとわかる。ずいぶん寝たな。いつもはアラームなしで6時まえにしぜんと目が覚めるのに。2時間以上オーバーだ。
 ぎゅうう、と腹が大きな音を立てて動いた。
 ええと、昨日は……帰ってきて、腹へってたけどそのまま寝ちゃったんだよな。てことはまえの食事から何時間たってんだ? おれが寝坊すると荻原の朝食もそれだけ遅れることになる。
「がっつり食いてえな」
 いまなにがあったっけ、と彼と手をつないで天井を見あげたまま、ぐーぐーと胃ぶくろに催促されながらメニューを考える。しかし時間をかけて考えたわりにはシンプルな答えが出た。
「よし。9時になったらラーメン食べよう! いわゆる9時ラーですね」
 おれは宣言する。そしてすぐに自分につっこむ。
「なにがいわゆる9時ラーだよ、ねえよそんな言葉」
 ひとりでちょっと笑ったあとにしみるしずけさ。
 雪の森に囲まれたこの家は、庭の前の道路を通る車の音か、風の音、野鳥の声くらいしか聞こえないのだ。いまはそのどれもなかった。
 ごろりと寝返って荻原のうえにおおいかぶさり、その首に抱きついた。
「ああ……楯はやく起きて。でないとおれ、日がな一日ひとりごといってる老人になってしまう」
 起きてラーメンを作り、食べる。スープに刻んだワンタンの皮を浮かべたものを彼のぶんとした。


1月21日 大福としるこ

 ドラッグストアの店内の一角、介護グッズコーナーの前で迷っていた。
 もうじき彼の下着の中に敷いている吸水シートが切れそうなので、もういちど同じものを買うか、それともおむつにするか。
「おむつ……」
 中年女性が笑顔で青空を見あげている絵柄のパッケージの、成人用おむつ。サイズを確認してひとつ取ってカートにのせる。
「荻原におむつをあてる日が来るとは……」
 ぶつぶつといいつつ、無香料タイプのドライシャンプーや口腔用スポンジをえらんでかごに入れていく。口の中の粘膜は皮膚よりもさらにデリケートで、歯ブラシを使うと傷つけてしまいそうである。なので、専用のスポンジでみがいたり水を吹きつけて洗い流す洗浄器を使ったりしている。
 つづけて農協スーパーで食材や切り花を購入し、車の中で茶を飲みながらラジオを聴いて休んだ。平日のこの時間は未来鹿嘗町の超ローカル番組「お気楽ペロシカ」が放送中だ。地域のグルメやイベント、新しくオープンした店の情報なんぞを提供しており、十年一日のごとく変わりばえしないその内容が、パーソナリティのトークにかすかななまりがあるのとあいまって、とても落ちつく。作業中など部屋に流していることもある。
 和菓子店の今月の新作大福が人気だという話題になった。
「ん? すぐそこじゃねえ?」
 このあたりは未来鹿嘗町の中心部で、役場や学校や郵便局、金融機関やさまざまな店が集中している。ラジオで話題になる店もこの界隈のことがおおい。
 行楽地の情報を聴けば「楯といつか行きたいな」と思い、飲食にかんする情報を聴くと「楯にどうかな」と思う。もう、反射のようにそう思ってしまう。おれの脳の中で彼にまつわる思考回路に最優先にエネルギーが流れるようになっているんだろう。
 大福は、もちはむりだがあんは……あんをしるこにしてやればあいつにも食べさせてやれる。きょうの三時はそれにしよう!
 そう決まるとよくわからぬ元気が出て、おれはパッと車を降りて歩いてすぐの和菓子店に行き、話題の大福「雪の中」をひとつと、こしあんをひとふくろ求めた。十勝地方は国内最大の小豆産地で高品質の豆やあんがいたるところで安価で入手できる。
 みやげを手に入れて意気揚々と家路につく。「荻原・兼古」と表札のある門を抜けて玄関前に車をとめるとき、いつも一瞬、世界がスローモーションになる。これは彼とおれの家なのだ、と噛みしめない日は一日もない。
「タティー、ただいま」
 本日の収穫物を抱えて居間へ。チェアーに眠る彼のほおにキスをしてキッチンに向かう。
 ピンクと白のガーベラ、かすみ草の茎を切って花瓶にさしてテーブルに飾る。食材や食品は冷蔵庫とパントリーへ。介護グッズは洗面所へ。そしてキッチンで、小鍋にこしあんに水をくわえて煮溶かし、緑茶をいれる。
 食器棚には綺麗な小皿や可愛い小皿がたくさんあり、大福をどれにのせようか迷う。大学から修習時代にかけて、いつか荻原と暮らすときのために……と食器を買い集めていたのが使いきれないくらいにあるのだった。しかしじっさい同居すると、彼はおれの趣味をあまり解さず「イタリアの変な絵皿」とかいいやがるのだが。
 食べやすく冷ましたしるこの椀をもってシンシンピコリ・チェアーのわきに座り、背もたれを起こす。
「楯、きょうラジオでうまい大福のことやっててさ。あんこも売ってたから買ったよ。しるこにした」
 荻原のまぶたが反応するようにぴくぴくと震えた。
「はい、あーん。あんだけに」
 だじゃれに自分で笑ってしまってさじを持つ手が揺れる。
「おっとっと……はい、どうぞ」
 首を後ろに傾けてすこしひらいた口に、しるこを流しこむ。のどが動くのを確認して、もうひと口――もうひと口。
 椀の中身が半分ほどになったところでおれも大福を食べ、緑茶を飲んだ。彼に向きなおると、どうも、その顔は緑茶を飲みたがっているように見えた。
「わかる。その気持ちわかる」
 さっと口移しで飲ませる。
 ストローを入れても吸ってくれないのでジュースや茶などは口移しですませるのがはやいのである。


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