モンツンラ と クロージョライ

本作品は『タラチネ・ドリーム・マイン』(PARCO出版・2012年)の巻頭話です。

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モンツンラ と クロージョライ 


わたしたちの街サプラウは、四月も雪が降って。

入学式の朝、制服を着た体をうす青い炎にしらしらと覆われている生徒が、わたしたちの前に現れた。
狭い校庭の、小指の折れたマリア像の下に所在なさそうに立っていた彼女に、新入生たちは目を見はった。彼女の体のまわりの陽炎のような揺らめきが錯覚ではないかと、目をこすりこすりしながら。

肌寒い体育館で、誕生日順にならんだ彼女はわたしのすぐ後ろだった。わたしはこんなにも目立つ少女の前に立っているのが誇らしくて、ふりむいて名前を聞いた。
「名前は? わたしはモンツンラ、夢中人」
「わたしはクロージョライ、close your eyes」
「あなたのそばにいたら暖かいのかと思ったけど」
「わたしの火は、熱くないよ」
クロージョライは長い腕を――ほんとうに長い腕を(彼女だけ制服のブレザーが七分袖みたいに見えた)すらっと上げて、わたしの頬に手のひらを触れた。火が! とわたしはびくっとしたけど、ほんとうに彼女の手は炎をまといながら熱くなく、むしろひんやりしているくらいだった。
「モンツンラ、初等部からここなの? わたしはきょうからなんだけど」
「いいや、幼稚部から」
「そう」
「どこから来たの?」
「田舎」
とりつくしまもない返答に思わず吹き出す、「田舎って」
「しっ」唇に指を立てて、若いシスターがわたしたちのそばを通り過ぎる。
周りのだれもがわたしたちのやりとりに耳を澄ませているのを感じていた。
「ねえ、どうしてこの火、熱くないの?」
「さあ。いちおう、寮の部屋に入って最初に火災警報器の中身を抜いておいたけど」
そういってクロージョライは笑った。笑うといがいに口が大きくて、おおっそうきたか、と心はさらに吸い寄せられる。
クロージョライの棒タイの蝶結びが曲がっていたので、結び直してあげた。両手が、クロージョライの胸の炎に包まれ、涼しく焼かれているのを見つめながら。

入学式が終わって渡り廊下を戻りきるころには、わたしはすっかりクロージョライの魅力につかまっていた。

クロージョライに関するうわさ

一、火を吐くことができる。
二、じつは宇宙人。
三、男嫌い。
四、田舎者。

「一は、できたら楽しいだろうけど、できない。二は、わたしにとっては皆のほうが宇宙人に見えなくもない。三は、嫌いといえるほど男は知らない。四は、否定しない」
クロージョライは部屋の作りつけのベッドに、ちらちらとする青白い炎に包まれて横たわったまま、すべて否定形で答えた。彼女がつねに呼吸のように膨らんだり縮んだりする炎に包まれていることに、わたしはすでに見慣れてしまっている。
机の上には入寮してすぐはずしたという、機械じかけのかたつむりのような火災警報器の中身が転がっている。
「入学初日から、あなたのうわさですごいよ」
「そうね」
最初の一か月は、入れ替わり立ち替わり、よそのクラスからも生徒が現れてはクロージョライの炎に触れてキャーキャーいって喜んでいた。「焼き芋焼けるかな?」といってさつま芋を持ってきて、炎が熱くないとわかると「なんだつまんない」と落胆する子もいた。
小さな学校のこと、うわさは寄せては返す波のように新しい尾ひれをつけながら広がりつくして、いまや落ちつきを見せつつあった。わたしたちは、なにごとにもすぐ慣れるようにつくられている。

「わたしのうわさ、それだけ?」
「え?」
クロージョライは体を起こして、
「わたしね、生まれたころから体が火に包まれてたの」
青い冷たい炎に包まれた赤ん坊。わたしは目をつむり、病室のベッドで母親の枕もとに眠る、生まれたばかりのクロージョライを想像してみる。
ふとんの上に力なく投げ出されているクロージョライの手のひらに、わたしは手のひらをそっと置いた。
「青い炎って、いいものだね」
「いいもの?」
「青い炎は安全だって習ったじゃない?」
「そういえばそうだ」
「わたしが見ててあげるね、ちゃんと火が青いかどうか」
「赤くなったら不完全燃焼」
「そう、そしたら注意するからね」

クロージョライはいつも安全に青あおと燃えていた。

寮生は週末だけ家に帰ることができて
金曜の授業が終わるころ、父兄の迎えの車が校舎の前にずらりと並ぶのは
このあたりの名物てきな光景だった
両親も、たぶんそのためにわざわざ新しい車を買った
早く大人にならなくては
そんな両親をみていると、わたしは思わずにいられない
早く大人にならなくてはと

「学校はどう?」
母は運転しながら、ルームミラー越しにわたしを見た。
先に、近くの高校に通う兄の震撼(ツンハウ)を拾って来たらしく、兄は助手席でおにぎりを食べていた。
わたしは後部座席のまんなかに座り、体の左側に丸めたカーディガン、右側に鞄を投げ出して、ぶっきらぼうに答える、
「うん、順調」
遠ざかってゆく校舎。その陰にある寮に、クロージョライは残っている。
彼女は週末に家に帰らず、寮でひとりですごす。
道路沿いにならぶ梅と桜、水仙やチューリップがそれぞれあられもなく満開になっていた。ふつうは二月から五月にかけて順番に花期がくるはずの植物たちが、この街では長い冬の終わりにみんな一気に咲いてしまう。この時期のサプラウは、色彩があふれて浮足だっている。
「この咲きかた、風情ないよねえ」とわたしがいったら、「狂い咲き、わたしはすきよ」とクロージョライは笑った。それから、わたしもこの街のこんな春の来かたが、好ましいような気がしている。
「ねえママ――毎週来てもらってるけど、来週からはいいよ」
「え?」
「もう迎えはいいよ、って」
「ママの運転いや? パパに代わってもらおうか?」
「そうじゃないの、毎週帰るのを、やめようかなって」
「どおしてえ」
鏡に映る上目づかいの母は、目を見ひらいてものすごい顔になった。
赤信号になり、車はぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅと苦しげに止まる。
母はふり向き、「帰って来ないって、モンちゃんどういうことよ」
「ずっとじゃなくて、毎週毎週じゃなくてもいいかなって意味で」
「やあーだあ、毎週ちゃんと帰るって約束だったじゃない」
「月に一回にしない?」
「なにいってるの、だめそんな」
「もうけっこう決めちゃってるんだけど」
「決めたって、いきなり勝手だわ」
助手席の兄がふり向いて、わたしの顔をじっと見つめ、
「寮にクロージョライが残ってるから?」
母はすばやく反応して「え、モンちゃんのとなりの部屋とかいう子?」
「ばか、いうなっていったのに」
鞄を振り上げると、兄はドアに身を寄せて逃れながら笑い、
「すごい図星、わかりやすい奴」
わたしは身を乗り出して兄の頭を鞄で何度もぶつ、「ばか、ほんとばか、最低」
「やめなさいモンちゃん、後ろ見えない、危ないわ」
「お兄ちゃんが悪い」
「そのクロージョライって子、家に帰ってないの? どうして」
わたしは鼻息荒く、「自立してるのっ」
「とにかくその、モンちゃん毎週帰らないっていうの、ママだけじゃなんともいえないわ、パパとも相談しないと」
「最初からそのつもり」
わたしはシートの上で膝を抱え、あごを乗せたまま窓の外を見る。

「うちに招待したらいいよ。それならおまえも帰って来たいだろう」
ツンハウはいった。
兄の部屋にはベートーベンの「春」が小さく流れている。
「クロージョライのこと?」
「母さんも喜ぶ」
「あの子が家に帰ってないってどうしてママにいった? 呼びにくくしたのはお兄ちゃんだよ」
「悪かったってば」
「会いたいんでしょ? クロージョライに」
「会ってみたい」
「いままでうちにつれてきた子たちとは、ぜんぜんちがうよ。――あの子ほんとに、ほんっとに特別なんだから」
「さんざんそれは聞いてるよ」
わたしは入学式からずっと、家に帰るたびにクロージョライがどうしたのこうしたの、車の中でも食卓でも彼女の話ばかりしていた。とくに兄には、部屋に入りびたって深夜まで、彼女がどんなにすてきかを興奮して語って聞かせた。
わたしが黙りこむと、兄はどこかおもしろそうに、
「喋りすぎて失敗した?」
「失敗とは思ってないけど……」
わたしは兄のベッドに体を投げ出し、仰向けになって天井を眺める。
「ツンハウとクロージョライは、合わないと思うんだなあ」
「決めつけるね」
「だいたいクロージョライ、音楽聴かないし」
「クラシックを?」
「いや、音楽じたい聴かない」
兄は信じられないというような顔になる。
「趣味は散歩、あとは苔みたいのを窓のところで育ててるような、放っといてるような」
「年よりみたい」
「お兄ちゃんの手に負えるような子じゃないって、いちおう忠告ね」

わたしは両親を説き伏せて、毎週は帰らなくてもいいという許しをとりつけた。
翌週はさっそく寮に残って、金曜の夜はうれしくてうれしくて、クロージョライと一緒のベッドの中で夜通しお喋りをした。

休日の寮は静かで、少なくとも三階の一年生の部屋には、わたしたち以外だれもいないことがわかった。
昼に食堂にゆくと、休日も研究室にきている大学や短期大学部の先生たちやシスター、図書館の職員、それに上級生が三人。それぞれまばらに座って、カウンター脇のテレビでニュースを見ながら定食を食べていた。
いつもとちがうのんびりした空気。食堂の窓がこんなに広くて、光りがさんさんと差して明るいことにはじめて気づく。
「残ってる先輩たちって」といいかけて、予想外に響く自分の声にひやっとする。「どうしてなんだろ?」
「親が海外にいるんだって」
クロージョライはくやくやと小さな音を立てて噛んでいた牛乳を飲み下して答える。クロージョライは牛乳を噛んで飲む。
「先輩と喋ったの?」
「うん、毎週同じ顔ぶれが残ってるからね、なんとなく話しかけるよね」
「へえ」
先輩とも物怖じせずに話すクロージョライのすがたが目に浮かぶ。
「休日の寮っていいね、朝もすきなだけ寝てられるし」
「モンツンラ、朝ごはんに間に合わなかったね」
明け方までのお喋りで、わたしはすっかり朝食に寝坊した。クロージョライはきちんと起きて、わたしの部屋の壁をノックしたものの、返事がないのでひとりで食堂に行ったという。
クロージョライはトレイに箸をそろえてかちゃりと置き、
「このあとどうする? わたし散歩に行こうかなって」
「行くいく!」
「無理しないでね、休日なんだから。明日もあるんだから。来週もあるんだから」
といって、クロージョライは笑ってくれる。明日もある、来週もある、そのまた来週も、この先もずっと。ばら色の未来って、このこと? なんという甘い気持ち。

学校から一時間くらい歩いたところで、風が強くなってきた。クロージョライは手首にいつもつけているゴムをはずして、歩きながら髪を両耳の下でおさげにした。
とちゅうでドーナツとジュースを買い、公園のベンチで食べる。
「きょうもきれいな青」
わたしは隣に座ったクロージョライを見つめる。
きょうも彼女は幸せそうに、おだやかに青あおと燃えて、伏せ目がちに「ありがとう」といった。それがとても大人っぽく見えた。
わたしは思いきっていってみる、
「ねえ、そのうち家に遊びに来ない?」
クロージョライは唇についたカスタードクリームを、親指でぬぐいながらわたしを見た。
「すぐじゃなくていいけど、いつか。わたしが帰るとき一緒に」
「ありがとう、でも……」
いつもたいていのことに「いいよ」という彼女が、いいよどむ。断わられそうな雰囲気に耐えられなくなり、わたしはパッと両手を上げて、
「いいのいいの、気にしないで。ツンハウがクロージョライを呼んでみたらっていったからさ」
「ツンハウって、お兄ちゃんだっけ」
わたしは、兄がクロージョライに興味を持つにいたるまでのことを話した。クロージョライはあきれたように笑って、
「それじゃあお兄ちゃんの頭の中で、わたしいったいどんな理想の女になっちゃってるんだろ」
「ごめん。わたし、クロージョライのこと喋りたくてしゃべりたくて――」
「ふふ、ありがと」
「あまりすきじゃない? 人んち行くの」
「そういうわけじゃ……」クロージョライはドーナツの袋をくしゃっと丸め、「友だちの家に行くことってあんまりなかったから」
「うちは全然遠慮いらないよ」
クロージョライはうなずいて、「じゃあそのうちに」
「ほんと! うれしい。お兄ちゃんも喜ぶよ。ていうか、あいつは別にどうでもいいけど」
「お兄ちゃんがすきなんだね」
「基本いい奴だよ」
わたしは胸を張った。

わたしがモンツンラと名乗ったとき、親友になるしかない名前だとクロージョライは思ったという。
わたしだって、クロージョライという名前の響きにそう思っていた。

クロージョライは夏休み、わたしたち家族が山の家と呼んでいる別荘にゆくとき、ついて来ることになった。
わたしはぜったいに彼女に来てほしくて、しつこいと思われないように、興味を持ってもらえるように、細心の注意をはらって誘いつづけた。週末の帰省にはいくら誘っても「またこんど」「そのうちに」とはぐらかされつづけていただけに、一学期も終わるころになってようやく「行く」という言葉を引き出せたときには、天にも昇る心地だった。
「ほんとに? ほんとに来る?」
つかみかからんばかりにわたしはいった。
「うん」
「ほんと? ほんとだね?」
「うん」
「はあああ」
全身から力が抜けて、床に座りこみそうになる。
「どうしたの」
クロージョライはマリア様のように微笑む。
「だって、諦めかけてたから。もうぜったいだめだと思ってたから」
人はほんとうの望みが叶うとわかったときに、こんなふうにふにゃふにゃになってしまうものらしい。
「ふふふ」
クロージョライは笑っていた。赤い透きとおったシャープペンシルを、指にはさんでユラユラさせて。シャープペンシルは、彼女に懐いている小さなサラマンダーのよう。
「あははは」
わたしも笑った。奴隷みたいな自分に。

別荘には一週間滞在する。やりたいこと、行きたい場所を決めるため、作戦会議と称してわたしは毎晩クロージョライの部屋でごろごろしていた。
「山のおうちね、お風呂すてきなんだよ。すぐ前に綺麗な池もあって泳げるし。バーベキューやろうね。あと、釣りと。花火もいっぱい買ってくね」
「わたしと花火すると面白いよ」クロージョライはいった。「手持ち花火も打ち上げみたいにできるし、線香花火一時間でも生かしておけるよ」
「すごい! 一時間の線香花火って」
「いいかげん飽きるけどね」
クロージョライはふっふっと笑って、ベッドに広げた地図の別荘のあるあたりを眺めている。わたしはその横顔を見つめ、
「楽しみにしてくれてるみたい」
「楽しみだよ。誘ってくれてありがとう」
「しつこいと思われてるかと思ってた。家族に会え、家族に会えって、結婚でも迫ってるみたいだなって」
「ううん。うれしいよ。熱心に誘ってくれる子、はじめてだから」
「夏休みはクロージョライがいなくちゃ始まんないって感じ!」
わたしは親友の腕に抱きついて、肩に頬を押しつける。
大すきで、大すきで、たまらない、クロージョライ、じまんの友だち。
細い長い脚の黒いタイツに、よく伝線ができていること。そこから見えているひと筋の白い肌に、わたしはいつも目を奪われてしまう。

わたしから見ると、クロージョライは複雑だった。
いつも炎をまとっているそのふしぎな体質は、彼女にいつもいつももの思いをさせてきたのだろう、笑顔ひとつにしてもいろいろな感情がぎゅっと畳みこまれているように見えた。同級生のだれにも感じたことのない奥ゆきが彼女にはあって、わたしは心地よく吸いこまれつづけていた。

バスが一日にほんの数えるほどしか通らない道から、さらに森の奥の未舗装の道を車で二十分ほど入ったところに山の家はある。もう少し奥にゆくと、地元の人いがいにはあまり知られてない秘湯と古びた宿があるくらい。同じ源泉からのお湯をこちらの風呂にも引いてある。
サプラウから車で半日かかる道のりを、父と母が交代で運転した。後部座席にはクロージョライと兄、そのまんなかにわたしが座った。二人のあいだに入って会話をとりなそうと思ったのに、兄はクロージョライへの興味をおもてには出さず、車中ではずっと肘かけに頬杖をついて窓の外を眺めているばかりだった。
「どうしてクロージョライと話そうとしないの?」
高速道路のパーキングエリアで、ジュースの自動販売機に硬貨を入れている兄をつかまえる。
「ほんとに燃えてるんだなあ」兄はぼんやりという。「ほんとに可愛いなあ」
「連れてきてよかった?」
「あ、ああ」
おまえいたの、というように兄はやっとわたしを見た。
「ツンハウ」
「え?」
「これ、ボタン押さないと」
あ、といって兄は販売機のオレンジジュースのボタンを押した。しゃがみこんで受取口からジュースのボトルを取る兄のつむじに向かって、わたしはつぶやく、
「ひと目ぼれだねえ」
これまでのガールフレンドたちとクロージョライは全然ちがうことがわかったらしい。兄はいがいにもてるらしくて、いつも周りに女の子の気配がするけど、ほんとうにすきになった子はたぶんまだいないと思う。それが車中でクロージョライと半日一緒にいただけでこんなふうになってしまった。わたしは兄の手からさっとジュースを奪い、
「飲んでいい?」
「え?」
「ひと口、ひと口」
「ああ」
女の子はたいてい自分をすき、くらいに思っている苦労知らずの兄が、クロージョライをすきになって苦しむのはちょっといい気味かもなあと、兄のジュースをほとんどぜんぶ飲みながら思った。

わたしは友だちの家に行ったりすると緊張して挙動不審になるけど、クロージョライは学校とかわらず落ち着いたようすで、静かで、青あおときれいな炎を肌の上に薄くまとっていた。足もとに置いたリュックに長い腕を差し入れ、キャラメルの黄色い箱をつかみ出し、紙をむいてひと粒、一瞬発火させてから口に入れた。
「いま、なにしたの」
「こうするとおいしいんだよ」
といって、彼女はまたひと粒キャラメルを小さな青い炎で包み、わたしの口に入れてくれる。キャラメルの表面が柔らかくなっていて、作りたてのような香ばしい生クリームの味が舌の上にひろがった。
「おいしい?」
「おいしい! 炎、熱くすることもできるの?」
「やろうと思えば。お兄さんもどうぞ」
クロージョライはもうひと粒火をつけて、兄にさしだす。兄は「どうも」とだけいって受けとり、口に入れた。

別荘のある村に着いたのはすっかり夜になってからで、明かりひとつない森の中をヘッドライトだけで車は進んだ。小さな川にかかった、地元の人の手づくりの橋をふたつ渡り、砂利道、雨が降るとどろどろになる粘土質の道を、十分ほど走ったところで父は車を止めた。
「あっ、あれやるの? もうここ来たの?」
わたしはクロージョライの膝の上の手に、手のひらを重ねてぎゅっとにぎる。どうしたの? とクロージョライがふり向く。
父は毎年決まってここで車を止め、「さあ、消すよ」といってエンジンを止める。ヘッドライトもメーターの明かりもすべてが完全に消えると、入れ替わるように現れる、一センチ先もわからない、森の奥のしんの暗闇。わずかの光もない闇は息ができないような恐ろしさで、わたしは毎年同じ場所でりちぎに悲鳴をあげる。じっと待っていれば目が慣れて星の光が見えたり、川が星明かりをちらちら反射するのにも気づくけど、それまで耐えていられないくらいに怖いのだった。
けれど、今年はちがった。わたしの横には、闇の中で音もなく燃えているクロージョライの輪郭があった。オーロラのように揺れる青い炎の奥に、クロージョライがうっすらと浮かび上がっている。
「あなた、ほんとにふしぎな子ね」と助手席の母がふり向いていった。
「今朝からずっと見てるけど、やっぱり慣れないというか、どきっとするよね、あたりに燃え広がらないのが不思議だ」と父もクロージョライを、少しこわごわというように眺める。
「今年はクロージョライのおかげで真っ暗にならなかった」
わたしはクロージョライの腕に腕をからめた。

山の家は近所の人に管理をお願いしていて、一年まえとかわらず掃除され、整えられていた。真夏でも空気がひんやりとして、朝晩は涼しすぎて暖炉を入れることもある。
わたしの部屋にはクロージョライのためのベッドを入れ、ふたつをくっつけた。クロージョライとふたりで新品のシーツの端と端を持って敷きながら、「でもさあ、寒いからけっきょくどっちかで一緒に寝ちゃうよねえ」といって、そのとおりになって眠った。
寮でもたまに、どちらかの部屋で布団に入ってお喋りしながらそのまま寝てしまうことがある。そういうとき、かすかに甘い匂いの寝息を吐くクロージョライにキスしてみたり、パジャマの上から胸に触ってみたりする。炎の中のクロージョライの胸は肋骨の上にうすい肉があるだけの、ぎょっとするほどの平らかさだった。はじめて触ったとき、雷に打たれたようで、ほんとうにいけないことをしてしまった! と、とっさに祈るように両手を組んでしまった、けど、それも一瞬だけで、この男の子のような胸をわたしはすきになってしまう。
クロージョライはブラジャーを持っていなかった。正確には、一枚だけ持ってる、と聞いたことがある。でも、いちばん小さなカップでもかぱかぱして気持ちわるいから着けない、いらない、といっていた。自分の体に女らしくなる徴候が一向にないことにとくに感想もないようだった。彼女のそういう超越した、風のような態度にわたしはうっとりする。クロージョライにうっとりしている女の子はたくさんいる。

クロージョライを車に乗せたときから、両親は、とくに母は、クロージョライがどんな子か見極めようと観察していたように思う。わたしが親友から影響を受けすぎていることを危ぶんでいる。クロージョライは実家に帰ろうとしない。母の考えではそういう子はみんな問題ありということになるけど、クロージョライが不良なのかといえば、そうでもないことは見ていればすぐにわかる。山の家に来てからはすすんで手伝いをするし、服装はむしろ個性がないほうで、もっと派手な子はクラスにいくらでもいる。
それでいて、友人の親の前でも堂どうとして物怖じせず、喋る必要がないときは無言をとおす強さには、大人のほうがどぎまぎするほど。それになんといっても、安全な青い炎とはいえ四六時じゅう発火しているという異形のさまは、この数十年特異体質の子どもが増えてきているなかでもほかに例がなく、有無をいわさぬ迫力があった。クロージョライが窓際で、オリーブグリーンのビロード椅子の背もたれに赤い髪を広げ、泰然と腰掛けているところなど、ボーダーのTシャツにデニムのスカートという健康てきないでたちであってさえ物憂く、わたしははじめて、退廃という言葉の意味を理解した気がする。
この山の家に来てから彼女の魅力が増したように感じられて、わたしはますますときめいていた。
「お兄ちゃん、なにかいってこない?」
キッチンで、パウンドケーキを焼くための小麦粉をボウルにふるいながらわたしはいった。クロージョライはシンクのふちに両手を突っぱって、だまってわたしの作業を見ていた。
「え?」
「きょうで三日めでしょう。クロージョライに話しかけるようすもないから」
「人みしりなんじゃない?」
「初対面でも図ずうしいほうだと思うよ」
「お兄さんの部屋から音楽聞こえてくるね」
「ベートーベンね、昔からああいう退屈な音楽がすきなんだ」
「あれ、ベートーベンっていうんだ?」
「ベートーベンは作曲家の名前。それくらい知ってるでしょ?」
クロージョライはあやふやな笑みを返した。大作曲家の名前も知らないらしかった。
「ほんっとに、音楽聴かないんだね」
「うん」
「クラシック気に入った?」
「ちょっと気になる」
「ツンハウ、レコードいっぱい持ってるよ。聴かせてもらったら」
「いいのかな」
「ぜったい喜ぶね」
キッチンの窓は大きいけど、目の前まで木が迫るように生い茂っていて室内は昼でもうす暗い。クロージョライは、ステンレスのふるいからこぼれてボウルのまわりにうっすら積もった小麦粉に、指先で☆をいくつも描いた。
「ケーキ焼けたら、ツンハウにも持ってってやろうか」
「お母さんたちが牛乳もらってきたら、ミルクティーいれよう」
親たちは近所の牧場に牛乳をわけてもらいに行っていた。毎年、ここにいるあいだは朝にしぼったばかりの一升びん入りの牛乳をすきなだけ飲める。

ケーキが焼けるまで、家の前の池で泳ぎたいとクロージョライはいった。
先にいってて、とわたしは告げて、兄の部屋に向かう。
ドアを開けながらノックすると、あんのじょう、兄は窓の脇にもたれて池を見下ろしていた。
「そのノック、する意味ないよね」
兄はふり向き、ばつがわるそうに笑ってそういった。
「どうぞ、見てたら」
「いわれなくてもそうする」
と、腕を組み、また窓を向く。
わたしも池が見えるところまで進み、きらきらした水色のセパレート水着を着たクロージョライを見た。
「ああ」兄はため息をついた。「ラファエル前派の女みたい」
「クロージョライ、ベートーベンに興味あるみたい」
「へえ」
「この部屋から聞えてくるのが気になってるって」
「そう」
「夜にでも聴かせてあげたら」
「いいけど」
「へいへーい」わたしは壁をコンコン叩いて兄をふり向かせる。「なんだよツンハウ、もっと喜ぶかと思ったのに」
「言葉が出てこないんだよ。彼女を前にすると」
「めずらしーい」
「自分でも知らなかった自分の出現に驚いている」
と、兄はふざけて棒読みでいった。
「ツンハウ去年クリスマスに連れてきた子とも、夏休みに連れてきた子とも、クロージョライはちがうでしょ」
「比較するのも酷というもの」
「あんな子、高校にもいない?」
いっ・ない、と強調するように兄は首を振った。わたしは満足して笑った。

校舎の長い長い廊下を、わたしたちは腕を組んで踊るようにして通り抜けたものだ。一年生の教室の窓から、学校の創始者の名前のついた、木立に囲まれた記念館が見える。白いペンキのはげた木造の建物で、クロージョライはひと目見るなり「五分で全焼」といった。わたしたちは笑い転げた。
「燃やさないでよ」
「燃やさない、たぶん」
「死んだシスターの亡霊が出るっていうよ」
「じゃあ燃やしたらかわいそうだね」
「幽霊がかわいそうなの?」
「幽霊だって熱いでしょう」
「優しいね、クロージョライ」
「いつだって、だれだって、外から焼かれたら熱いの。火の中にいれば、火になっていれば平気なんだけど」

池は温泉ともどこかで繋がっているようで、温水プールというほどじゃないけど、生ぬるいくらいの温度が保たれている。葉っぱや虫の死がいが浮いた中を、クロージョライはいやがるようすもなくすいすいと平泳ぎしていた。
クロージョライは池のまんなかですっくと立って、ふいにいう、
「終業式のまえに観た、映画さ」
後頭部にだんごにまとめた髪から、ぽたぽたとしずくが落ちる。
「映画がどうしたの?」
一学期の終わり、歴史の授業が予定より早く終わってしまい、教師はあまった時間に映画を見せた。千年まえの南米ジリリスの首都、キリカラの鉱山の爆発事故を題材にした映画だった。キリカラの街が炎に包まれるシーンから始まる。
「火から逃げようとする人たちが、皆いっせいに家から飛び出して、人や馬車が道にあふれてめちゃくちゃになってた」
クロージョライはその光景をありありと見ているように、焦点の遠い目をしていう。
「うん」
「わたしだったら人びとの流れに逆らって、火に近づきたい、火のもとに向かいたいって思いながら観てた。――あれってほんとにあったことなのかな?」
「キリカラの大火災? いちおう史実に沿った映画みたいね」
「あんなこと、またあったらいいのに」
「大火事が?」
「サプラウであったら、わたし、火のまんなかに向かって走ってく」
「火の中に飛びこむの? いくらなんでもそうしたら、クロージョライでもどうなっちゃうんだろう」
「どうだろう――」
クロージョライは伏せ目がちに、うっとりとそういって、手のひらをお椀のかたちにして水面からなにか掬った。水の中でも彼女の体には、皮膚からつぎつぎと生まれる炭酸の泡のような膜がまとわりついていた。空気中よりはずいぶん弱められているけど、火なんだろう。水の中でも滲みつづけている火。海底火山って、こんな感じだろうか?
なにを掬ったんだろう、とぼんやりと彼女の手もとを眺めていたら、水に落ちた蛾を助けたらしい。乾かすように、祝福のように息をふっと吹きかけてから、草の上にそっと放してやった。

夕食は、一日くらいお母さんを休ませてあげたいから、とクロージョライがスパゲティーを作った。あるものをなんでも使っていいよ、といったら、蟹とアボカド、大根おろしとなめ茸のスパゲティーになった。めんつゆで手抜きしちゃった、とクロージョライは謙遜したけど、蟹の赤、アボカドのグリーンが見た目にもゆかいで、いろんな味が口の中で混ざり合って騒ぐのが楽しくて、目から火花がスパークしそうだった。
「おいしいよ、すっごいおいしいよ! すごいね、こんなの作れるなんて」
わたしは感激して、親友のいがいな料理の腕をほめちぎる。
母は目を閉じてうっとりと食べながら、
「ほんとたいしたものね、おうちでしっかりお手伝いしてるからなのね、だれかさんとちがって」
と、わたしを見て笑う。
「家でお料理してたの?」
父も大盛りのスパゲティーをいつもより速いペースで口に運びながら。
「得意なわけじゃないんです。たとえば、夕食のメニューをぜんぶ考えるとかは、たぶん苦手です」
「でもこれ、ほんとにおいしいよ」やっと兄が会話に参加した。
「スパゲティーだけは、楽しい。ひと皿の中のできごとだと思うと、わたしにも手に負えるっていうか……」
クロージョライは胸の前で、お皿を示すように手で楕円形を描いた。
「料理も想像力なのよねえ、忘れてたわ。蟹とアボカドと大根となめ茸かあ」
母は感心したように、カラフルな具がつゆに浮かぶ皿を見下ろす。

わたしはすっかり食べすぎて、食後に兄の部屋でクロージョライと三人でベートーベンを聴き始めたころには、眠くなってきていた。
「これは、指揮者がショルショイ・ミミコフ。六十年まえの録音だよ」
「こっちのは? きれいな写真」
「田園。交響曲六番。これもミミコフだよ。聴く?」
「聴く」
兄は音楽の話になると緊張しなくなるようで、家から持参したトランクいっぱいのレコードをクロージョライの前に並べて、指揮者がどうの、オーケストラがどうの、録音がどうのと講釈をたれている。
わたしはそんなふたりのやりとりを、兄のベッドに寝そべりながら聞いていた。
田園の第一楽章が流れてくる。
「田園眠くなるよおー」
わたしはあくびしながら、うーんと伸びをする。
「おまえは食いすぎ」兄はあきれたようにいい、すぐにクロージョライに向き直って「ミミコフはわりとスタスタ振るほうだね。同じ曲でも指揮者によって速さがぜんぜんちがったりする」
「ゆっくりの人もいるの?」
「ゆっくり……フランフルフロワとかかなあ、ニーベルングの指環を持ってきてるけど」
「それもベートーベン?」
「いや、ワーグナー」
「ベートベンがいいな。いまかかってるこの田園」
クロージョライは椅子に腰かけ、机に頬杖をついた。わたしからは表情は見えないが、目をとじて、浸るように聴いている気がした。
(クロージョライとツンハウ、いい感じ)
気づくとわたしは兄の夏用の肌掛けの上によだれをたらしていた。すっかり眠りこんでいたらしい。わきの下や背中がじっとりと汗ばんでいる。
「自分の部屋で寝るねえ」
わたしはずるずるとベッドを降りると、少し距離を置いた椅子で黙って音楽を聴いているふたりにそう告げた。兄は顔を上げてこちらをちらりと見、うなずく。
わたしは部屋を出た。

ツンハウが叫ぶ声に目覚めると、わたしは暗い部屋でひとりきりだった。暑い。全身は汗だくで、声のほうをふり返るとドアを縁取るように金色のちらちらするものが見えた。
「火……?」
(クロージョライだ)
跳ね起きてドアを開けると、天井や廊下のあちこちを、金色のモールのような炎がくねくねしていた。
「モンツンラ! クロージョライが」
数メートル先のドアはひらいていて、兄の声がする。
炎をよけながら兄の部屋に入る。クロージョライをとりかこむように炎がとぐろを巻いて、渦は踊るように大きくなったり小さくなったりしていた。兄はわたしをふり向き、
「下行って消防車呼んで! 父さんに電話!」
クロージョライは火の中で、入口に背を向けて立ちつくしていた。兄は彼女に近づくこともできずに呼びかけるばかり、「クロージョライ、しっかりしろ、動け! 逃げよう」
「お兄ちゃんが電話して、わたしクロージョライをなんとかする」
兄はうなずいて、足をもつれさせて出てゆく。
わたしは部屋に入り、炎の渦のすきまから彼女に触れようとする。いつも彼女を包んでいる青くて穏やかな炎とはまったくちがう、宙に手を伸ばし動きまわるおそろしい火。あまりの熱さに腕を引っこめ、
「クロージョライ! こっち見て! しっかりして!」
前にまわりこむと、クロージョライはわたしの声など聞こえないようにとろんとした目でまっすぐ前を見ていた。なにこの顔、ツンハウお酒飲ませた? 親が出かけたのをいいことに。クロージョライがこんな表情をするの、見たことがない。
「クロージョライ! クロージョライ! こっち見て! おねがーい」
叫びながら、見知らぬ人のようなクロージョライの目の中にわたしの知っている彼女を探す。クロージョライは肩をびくっとさせて、ようやくこちらを向く。
「え……?」
「どうしたの? あなたの火なの? 止めて、家が焼けちゃう!」
「モンツンラ……」
クロージョライはわたしの名をつぶやくと、はっと打たれたようにあたりを見まわし、炎の中にいる自分を見おろした。「これ、わたしが?」
「わかんない、来たらもうこうなってた。どうにかできるでしょ? この火消して!」
「消す? 消せばいいの?」
「やれるんなら早く!」
「あ、あー……そう、か」
彼女自身混乱しているようだった。目をつむり、なんとか集中しようとしているのがわかる。長い腕の先の両手は、散りぢりになった心を束ねるようにぎゅっと握られていた。
彼女のせい(らしい)こんな炎を見たことはなかったし、炎を消してと頼んだのもはじめてだった。
「火になれば熱くない」といった、いつかのクロージョライの言葉を思い出す。
(火を消そう、と思うんじゃなくて、消えよう、と思うの。もう消えていいんだ、十分だ、って)
(火は、とても正直。燃えなければならないときはどうしたって燃えるし、やることが終わったら消えるの)
じゃあ、いまはその、燃えなければならないときだったの?
クロージョライは炎と話し合うように目を伏せていた。天井や壁に出張っていた炎が彼女にするすると戻ってゆく。それを見て、やっぱりこの火の原因はクロージョライだ、彼女から出たんだ、と悲しい確信をした。
「モンツンラ、ごめんね」
火が消えても、まだぷつぷつとはぜている窓枠やテーブル。足もとのひときわ激しい燃えかたとうらはらに、クロージョライの肌もシャツもソックスも、白くてきれいなままだった。焼けて穴のあいた絨毯から焦げた床板がのぞき、彼女は黒い水たまりに立っているようにも見えた。
「ほんとうにごめんなさい」
うつむきかけたクロージョライの瞳から、涙があふれる。はっとしたように顔をあげ、「ああ。だめ、だめだめ」と急いで涙を拭き、首をふる。一瞬泣いたのをなかったことにしようとするかのように。
「喜怒哀楽が、いけない」
「え?」
「いままでいわなかったけど。心があんまり大きく動くと、火をコントロールできなくなってしまう」
といったクロージョライの炎は、さっきまでの暴れようは嘘のように、いまは忠実に彼女の体に沿っていた。彼女の肌が砂浜だとして、波打ちぎわの柔らかな泡のような炎。わたしがすきな彼女の炎。
「なにがあったの? ツンハウがなにかした?」
「お兄さんはなにも」クロージョライは小さくかぶりを振り、「曲を聴かせてくれただけ」
「じゃあどうして」
「いえない」
「なんで?」
「とても許されない。わたし。やっぱり音楽を聴くべきじゃなかった」
「音楽のせいなの?」
「聴くべきじゃなかった」
消防車のサイレンの音がして、ふたりで泳いだ池の脇に停まるのが見えた。火の消えたこの部屋に向かって消防士が駆けあがってくる、ブーツの足音が聞こえる。青ざめて硬直するクロージョライに、むかし映画で見た、覚悟して太陽を待ちうける吸血鬼のすがたが重なる。わたしはクロージョライを抱きしめた。
(ぜったいにあなたのせいにしない。させはしない)
わたしは無言で彼女を見つめた。
(家よりも、親よりも、わたしはあなたをとる)

ベートーベンに恋をしたのだと、クロージョライはいった。
曲の中で、炎の森の小径をさまようベートーベンと出会ってしまったのだと。
何百年もまえに外国で生まれて死んだ作曲家に、クラスの男子を(うちの学校に男子はいないけど)すきになるのと同じように恋ができるなんて。
「はじめてわたしと同じ熱をもった人に出会った。いつの時代の人かなんて関係ない」
クロージョライはいう、
「音楽は心を動かしてしまうから、ずっと避けてきた。でもいちど知ってしまったら、もう音楽のない世界には戻れない」
最近買ったという、新品のヘッドホン。
「ひとりで聴くのにぴったりの場所見つけたんだ。川沿いの廃墟。もとは工場だったみたい。だれもこない」
「わたしも連れてって」
「そのうちに」
「ぜったいだよ!」
うんうん、とクロージョライはうなずいた。
でもたぶん、連れてってくれないだろう。
無人の廃墟で、ガラスの破片を靴の踵でじりじりと踏みながら、ヘッドホンをして心は楽園にいる、燃えさかる炎の中のクロージョライを思い浮かべる。それは奇妙ではあるけど満ち足りて、とても美しい景色に思われた。そこにわたしは必要ない。時間の果てのような空間に、クロージョライとベートーベンの音楽だけがあればいい。
寮の、クロージョライの部屋のベッドにわたしたちは座っていた。ひらいた窓からは中庭が見おろせる。
「わたし、消防士になろうよね」クロージョライはいった。「大学卒業したら消防士になろうね。それがいいね」
そして星空を仰ぎ、
「ああ、天職ってそういうことか」
クロージョライの赤い髪が夜風に舞い上がって、くるくる、くるくる、小さなうずを巻いた。わたし消防士になろうね。クロージョライはもう一度つぶやく。
「炎の真ん中にあの人はいる。消防士は火の中に飛びこむ仕事。消防士をつづけていたら、どこかの現場が、あの人に会える道につながっているはず」
クロージョライは、ため息をして窓のさんにもたれた。
「あんなにきれいな景色を、音楽で描いて、音楽でものを考えて。そしてあまりに熱すぎてだれもついてこられない孤独。会ったところでふられるかもしれないし、要らないっていわれるかもしれないけど、わたしの胸には、彼にあげたいものがある。彼に受け取ってもらえなければ、わたしのこれはどうにもならない」
わたしのこれ、というとき、クロージョライは平らな胸をかきむしるしぐさをした。
「会わなくちゃならないの。気づいた」
そこまでいってふいにわたしの顔を見つめる。
「ごめんね、モンツンラ」
「え?」
「別荘、火事にしちゃったのに。わたしいまのほうが幸せ」
「山の家のことはいいよ。正直にいってくれてうれしい」
「モンツンラ……」
「ねえ、転校しないでね。火事のことは責めないから。そのかわり転校しないで」
別荘から戻ってのち、クロージョライの態度にはどこか遠くへ行こうとしている気配が見てとれた。わたしに対して距離を置こうとするような。わたしはそれをゆるさなかった。
「やっぱり行こうとしてたんでしょ?」
「責めていいよ。とうぜん、あなたがたはわたしを訴えることができる」
「そんなことするわけないでしょ、親にも絶対させない」
「あなたとご両親の関係が悪くなる」
「いい、かまわない」
「そんなことかんたんにいっちゃだめ」
「いい人ぶって、もう遅いのに」
「モンツンラ」
「わたしもいまのほうが幸せ。あなたがすきな人を見つけたから。すごくへんな相手、何百年も昔に死んじゃってる相手だけど」
「でも、わたしに関わってるとまた――」
「人を変えてしまうことを怖がらないで。クロージョライ。危険人物でいて。わたしのいちばんの友だちでいて」
ねえクロージョライ、あなたがほんとうなんでしょ? 人は、心が燃えるなら体も燃えるのがほんとうなんでしょ。わたしはそうだと思う。わたしはこんなにあなたがすきで、なのにこの体が燃えもしないことが悔しい。これじゃ、わたしには大すきな人がいるってことが、はたから見てもわからない。クロージョライ、あなたは心と体がぴったりと一致している、だれよりも正直なひと。

クロージョライに関するうわさ

一、田舎で大火事を起こして引越したらしい

「小さいころのことで覚えてないんだけど。新聞には載った」
ツンハウが古い新聞にクロージョライの家のことらしい記事を見つけたというので聞いてみたら、あっさり認められてしまった。
「ほんと?! その火事、やったの?」
「たぶんそう」
「なにが原因」
「両親のけんかを見たみたいね。母の話では」
「小さい子にはつらいよね」
「でもわたし、誕生日にサプライズパーティーしてもらったときも、うれしすぎてテーブルクロス焦がしちゃったんだよ。おかしいでしょ」
「うれしすぎてもだめなんだ。たいへんだね」
「うん、たいへん」
クロージョライは笑った。
「感情が揺れすぎると、燃えてしまうんですって、この人は。可愛い」
わたしはクロージョライの首に抱きついて揺すぶる。
「入学まえは、火事はそれだけ?」
「住みかを追われるほどのはね」
「ぜんぶ吐きなさい」
「あとはちっちゃくて、たくさんで、忘れちゃった」
「クロージョライ、あなたが大すき」
彼女の手をとって、甲にキスする。
クロージョライは少し困ったような笑顔、完全に心の底からは喜びきれないような目をしてわたしを見つめた。その目はこういっている、
(あんまり よろこば せないで)
クロージョライはよく笑う。よく笑うのに、いつまでも慣れることができないような、あのなんともいえない表情をわたしは大すきだけど、本人は苦しそう。彼女がいつかベートーベンに出会ったら、そこはキリカラの街みたいになるのだろう。わたしのためにもいっぺんくらい、原っぱ焼きつくすほど心を動かしてみてよ、クロージョライ。


おわり

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モンツンラ と クロージョライ

雪舟えま!

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