ふたりは揺られ宙 (前篇)


*本書は『幸せになりやがれ』(講談社)の続篇です。先にこちらを読んでいただくことを強くおすすめします! さらにその前日譚となる『プラトニック・プラネッツ』(KADOKAWA)も、読んでおられるとGOOD!!



 未来帯広空港の展望デッキから、絹のようなブルーの空に遠ざかりゆく飛行機を、俺と緑は見あげていた。未来東京ゆきの便には、空港のレストランで牛ステーキ御膳やホタテ尽くし御膳やとうきびソフトクリームを胃ぶくろにおさめて、すっかり満足した俺の身内の人びとが乗っている。

「皆行っちゃったなー」と、俺。

「すぎてしまえば夢のよう」と、となりで緑も春の空を見あげている。

 飛行機は見るまに小さくなって、胴体に描かれていた航空会社エア・ランラのキャラクターのリスの絵ももう見えない。

「行こう」と、俺。

「うん」と、緑。

 階段を降りて、二階の出発ロビーに出る。四月の平日の午後にここから旅立つ人はおおくないみたいだ。みやげ店にかこまれた空間を木の香りのする風が吹き抜ける。

「みど君、おつかれさまでした」

「え」

「ずっと運転手してくれて。ありがとう」

「べつに、運転はすきだから」

 日ごろ、自分をほめろもっと感謝しろなんて訴えてくるくせに、正面からありがとうといわれると、うれしすぎて耐えきれずにそっけない態度をしてしまう彼なのだった。

「皆楽しんでた。緑のおかげ」

「このくらい大したことない」

 未来東京から俺、荻原楯(おぎはらたて)の両親と弟、母方の伯母夫婦の計五名が、三泊四日で遊びにきていた。宿泊は、十勝平野北部の未来鹿嘗町にある俺たちの家か、近所のきかとら温泉で。空港でレンタルしたミニバスで彼らを送迎し、牧場や渓谷に遊びにゆき、未来釧路まで足をのばして湿原も見にいった。運転はずっと相棒の兼古緑(かねこみどり)がしてくれた。

「なああれ」

 と、緑はねぎらいの言葉に温まった顔で、一階につづくエスカレーターをしめす。

「あれを降りるまでキスしていてほしい」

「緑のしてみたいことシリーズか」

 ステップにならんで乗ると、おねだり小僧は目をとじて顔を近づけてきた。身長がふたりとも百七十三センチでおなじ高さに目があり唇がある。塩おにぎりのような、シンプルでいつまでも見あきない顔の唇にキスをする。

 うんうんとしずかにうなるエスカレーターに運ばれ、一階について顔を離すと、緑は花粉におぼれた蜂のようなうっとりした表情をしていた。「満たされた。これで帰りも運転できる」といって、意気ようようと歩きだす。

 空港の駐車場にとめていたわが家の草色のジープに乗って走りだす。蜜蜂な彼は車の中で、ワルクマンヒューマンから流す曲にあわせてぶんぶんと歌いつづけていた。

 緑が元気でよかった。

 俺たちが未来東京からここへ引っ越してきたのは、半年まえの秋の終わり、未来北海道ではもう冬のはじめだった。そのとき俺は、全身が盛大にむくむ謎の症状を発症していて、自力では横になることも立ちあがることもできなかった。

 未来東京では事務所に勤務する弁護士だった緑は、ここに来てしばらくは開店休業のていで、つきっきりで俺の看病と介護をしてくれた。意識はあっても話すことも身動きもままならない俺が、なにを求めているかを敏感に感じとり、想像を尽くして世話をしてくれた。

 たとえば、きょうはなにが食べたいかということを、いくつか候補をあげて彼がたずねてくる――粥かスープか、流動食、またはゼリーくらいでいいのか、などなど。そうするつもりでなくとも、心身が欲しているものをいわれたとき筋肉はわずかに応えるものらしい。彼は俺の水風船めいた体に指先をそっと触れながら質問し、イエスやノーのパルスを感じとってメニューを決める。それはかなりの精度で、言葉によらない会話といってもいいくらいだった。――そういえば彼は、以前からベッドでも、相手をよろこばせる技術について情報を収集してあれこれと試しては、俺の反応がうすかったことはつぎから二度としない繊細さがあった。相手がよろこんだことを積み重ねていこうとする、その努力の方向は的確だったのだろう、いったいなにがしたいんだ、と、はじめはちょっとあきれていた俺も、彼と閨をともにしつづけるうちに、現実の肉体にこんな感覚が起こりうるのかとしみじみ味わえるようになる。

 それはともかく……水風船が外出できるくらいにまで回復すると、彼は車に乗せてきかとら温泉へ湯治に通わせてくれた。体が温まると水が排出されるペースがあがり、ふくらんだ体はみるみるしぼんでいった。そして冬の終わりのある午後、たるんだ皮膚そっくりなぶかぶかの服の中で俺は目を覚ました。起きあがると、脱ごうとしなくても衣服はするりと落ちた。それほど襟ぐりの大きな服を着ていたのだった。

 じゅうたんを踏みしめて立ったとき、あたりはきらきらする粒子で満たされていた。腕を振るうと光を切ることができた。皮膚に受けるやわらかな風が楽しくて、腕を振りまわし、脚で宙を蹴りあげると、はらっとバランスをくずして倒れた。筋力がひたひたにおとろえていてまったく踏んばりがきかなかった。目を焼くほどにまぶしい、陽光を反射するテーブル。そこに映りこむレースカーテンのさざ波。俺は裸のままテーブルにのって、光る面を何度もなんども手のひらで撫でていた。

 テーブルのあとは自分の体に関心が移っていった。素裸を見おろしていて、いまの俺は緑からもらったものでできていると了解した。自分の体なのに、引っぱって見つめた前髪も、髪をつまんでいる指も手も、腹も腿も足の甲もどこもかしこも「緑だ」と思った。ここも緑ここも緑――俺の体で、彼でない場所はひとつもない。それは思わず笑ってしまううれしさで、笑えば声の中にまで彼がいた。



 四月も終わりに近づいて、暖かい日が増えてきた。まだ朝晩は冷える。緑はジャケットとシャツ、ネクタイの組みあわせをいくつも鏡の前で試して、やっと玄関に向かった。彼は未来鹿嘗町中心部、町役場となりの農協スーパー二階に小さな事務所をかまえた。

「行ってくる」

 靴をはいて、玄関のたたきに立つ緑。俺の手をとって甲にキスをする。「楯ちん、きょうのご予定は」

「散歩して、あとは家でなにかしてる、たぶん」

「お昼寝は」

「するかも」

「ていうかおれ、ほんとに行くの?」

「みたいね」

 同居して三年めになるのに毎朝この調子で、サッと出られたことがない。

 まえは玄関でぐずぐずする彼を、てきとうにあしらうことが……ないわけでもない俺だったけど、いまはその気持ちがわかってしまう。俺の中には彼がいて、目の前の彼がさびしがるとき、俺の中の彼もびりびりと共鳴する。それは俺のこともすこしさびしくさせる。

 さびしさとはなんだろう。以前はあまり人にたいして覚えたことのない感情だった。それはたぶん、相手のすがたが見えなくなっても愛情はつづいているということなのだろう。毎朝玄関でぐずつく彼は、俺が視野から消えるのにそのごも思慕がつづくことの切なさを訴えているのだった。

「昼に帰ってきたいかもしれない」と、蜜蜂っ子はうわ目づかいでいった。

「おいで。また三時に来てもいいんだよ、おやつの時間に俺に会いたくなるんでしょう」

「なる……」

 事務所からここまで車で二十分ほど。彼は昼休みに家に帰ってきて、俺と食事したり、短く愛しあったりしてまた仕事にもどる。そんなことが何度かあった。未来東京では考えられなかった時間の使いかた。雇われの新人弁護士だった彼はうえから降ってくる仕事をすべて受けとめていて、早朝に出勤して深夜に帰宅するのがつねだった。

 やっと出かけられた緑を見送ったあと、食卓にコーヒーが残っているのを見つけ、それを移した水筒を片手に外に出る。玄関前には彼が立てた鯉のぼり。マンションのベランダに飾っていたもので、ここでは伸縮ポールを背丈くらいにしている。鯉は一メートルほどの真鯉が二匹で、見た目のインパクトはかなりのものだ。

 いまの俺の日課は、リハビリをかねた近所の散歩と、傷みのおおい家の修繕くらい。うすぐもりの空のした、コーヒーを飲みながら家のうらへまわる。北側の壁にはかたくなな雪の小山が残っている。昼の暖かさでゆるみ夜の寒さでしまる、ということをくりかえすうち、ふわふわだった雪もぎゅっと固まってしまうものらしい。スニーカーのつま先でざくざく蹴ると水筒の中でコーヒーが揺れた。

 家の周囲には、白馬の鼻先めいた節をもつ美しい白樺がたくさん生えていて、この瀟洒な林はさらにカシワやハルニレ、トドマツなどのずっしりとした森に抱かれている。ここをねぐらにしている鳥たちの声がたえず家まで届いてくるのだけど、いまはノビタキとかホオジロとかというさえずりがおもしろい連中がおおくて、時間を忘れて聴きほれてしまう。冬にはアカゲラが熱心に木をつつくココココという音もまじっていた。水風船時代の俺は、目は腫れて完全にふさがっていたものの、耳は聞こえていた。緑が家のどこにいてなにをしているかはいつも把握していたし、うちのジープが近づいてくるのもわかった。野鳥の声も聴きわけて、おとずれる鳥たちの変化を楽しんだ。

 冬のあいだ不安はひとつもなかった。むくんだ体はだるく、重く、つねにどこかしらに痛みはあったのに、あのときの自分はいつも笑っていた気がする。俺はものをいってはならないルールで、緑はわずかに与えられるヒントから俺の望みを探る。そんなゲームをしているみたいだった。それまでゲームというのは生活の中で息抜きにやるものというくらいに思っていたけど、この世で生きるということじたいが、ゲームだったのだね緑。おまえに愛されながら生きてどうにもならなくなったらゲームオーバー、そのときはそのとき。そんなふうに思っていた。不自由さがとても楽しかった。

 地面は下生えの植物が折り重なって倒れていて、引き裂かれた白く長い断面をもつ小枝もたくさん落ちている。雪の重みや吹雪で折れたのだろうか。無傷の木は一本としてなさそうで、この地のハードな冬を思う。

 小さな池を見つけた。ふちを歩くと二十歩たらずで一周できた。澄んだ水の中に根のついた木の幹が沈んでいる。池に向かってしぜんに倒れた? だれかが投げこんだのかしら。未来北海道ではその気候からものの腐敗するスピードがおそく、枯れたり倒れたりした木など、とくに水中では何年もそのままのすがたで残っていたりするらしい。

 青い泥と枯葉のたまった水底に横たわる木は、樹皮のひび割れもあざやかで、枝も根もするどいままひろがって、まだ生きているみたいだ。これがさいきんのものなのか十年もこのままなのか見当がつかない。森の中には時がとまった場所がある。

 俺は数歩さがって池を眺め、コーヒーを飲んだ。

 空っぽの水筒を手にさげて帰路につく。目じるしの切株や変わったかたちの木をたどって、いまのところはぶじに帰っているけど、笹や蕗、イタドリなんかが伸びてきたら端末をもち歩かないと道に迷うかもしれない。熊に遭遇しないともかぎらないし。俺がいま水筒しかもっていないと知ったら緑は怒るだろう。

 玄関においてきた端末を見ると、彼からメッセージがきていた。冒頭には「かなり深い処にいますか?」とある。そういえば俺、日ごろ忘れているけど、位置情報とバイタルサインを送るシール状の送信機を彼に貼られているのだった。風呂のたびにはがれていないか体をチェックされて、古くなると交換される。彼は空き時間に、ワルクマンヒューマン――俺をモニターしたり記録したりする俺のこと専用端末で、俺の状態を確認するのが趣味らしい。メッセージのつづきは、「昼はお客さんと食事へ行くことに相成候」とのこと。こんな日もある。



 居間にはビューティフルチェアーがある。とても気に入っている瞑想用のリラックスチェアーで、座り心地のすばらしさゆえビューティフルの称号を与えた。前職場近くの家具屋をひやかしたときにひと目ぼれして買ったこのいすは、まだ未来浅草の空気をまとっている。

 かの街で俺は、伯母夫妻が経営する葬儀社で働いていた。能力を見こまれて高校生のときからアルバイトしていて、そのまま社員になった。

 能力というのは体外離脱のこと。意識が体を抜け出してあの世をさまようことが、子どものころからひんぱんにあった。それを自覚してやるのが体外離脱、無自覚にそうなってしまうのを幽体離脱と俺は呼びわけており、十代なかばまでは前者と後者が半々だった。それでも成人してから訓練を始める人たちより精度は高かった。

 伯母夫妻の会社では、故人があの世でご先祖や縁者に出会うまでをサポートしている。亡くなってまもない人の中には、自分が死んだことが理解できずにパニックになっていたり、あの世のだれも通りかからない場所でひとりぼうぜんとしてたりする人がいる。社員は体外離脱をして故人の意識に会い、いまいる場所の説明をし、会いたい人と引きあわせる。生きている人に会いたいときは、夢の中であの世へ呼び出すこともする。業界ではあの世を「ステーション」と呼びならわしている。

 俺は子どものころ、現実で弟や友だちと遊ぶよりも、ひとりでステーションに行って遊ぶほうがすきだった。心をゆるせる友だちもそこの人たちだった。彼らは欲望もあればまちがうこともあり、基本てきにおせっかいで人間くさいけど、ステーションを熟知した精霊のような小さな神さまのような存在で、幼い俺がステーションにあまりにも長くいすぎぬよう、危険な目にあわないよう見守り、時をみはからって現実に送り返してくれた。やがて俺はステーションをひとり歩きしはじめ、友人たちとつるむこともへっていったけど、彼らはいまも子どものときのまま「坊ちゃん」だなんて呼んで俺の生活をステーションから観察している。そう、いまこのときもきっと。

 未来北海道に来てから、ステーション散歩は緑が留守の午後にしている。ビューティフルチェアーに横たわり、アイマスクをかけ、首のうしろがひらくところを想い描く。体から意識が抜け出すポイントは人によってさまざまで、頭のてっぺんや足のうらからという人もいるし、みぞおちや胸のまんなかから、眉間からということもある。俺はうなじのあたりに小さなシャッターがあるイメージで、そこが出入口になっている。無自覚に幽体離脱してしまうときや、この世とあの世の中間をさまよう存在に干渉されるのは――いわゆる霊が視えたり声が聞こえたり、みたいな現象は、このうなじのシャッターがいつのまにかひらいてしまっていることによる。

 散歩のまえに、「お見送りエリア」にあるうちの会社のブースに寄ってみることにした。故人の意識が縁者と再会をはたし、新たな出発へと送りだされる場所はお見送りエリアと呼ばれ、葬儀会社のブースがならぶ、ステーションの中でも活気のある場所だ。高いところを風が吹き抜ける、果ての見えない白く広大なスペースで、お見送りエリアの先には故人がつぎの転生先へと旅立っていくゲートがぽつぽつとそびえている。現実世界での空港と雰囲気が似ている。

 首のうしろをひらくと、まっくらな視界がぼやぼやとにじみだし、去年の秋まで俺が勤めていたフューチャークラシコ葬祭社のブースがあらわれる。その景色の中に一歩踏みだす。

「わっ、楯?!」

「え?」

 予期しなかった声が背後から響いた。

 お見送りはたいてい深夜から未明にかけて行われるので、昼さがりのこんな時間に人がいるのはめずらしい。声の主は俺の従兄で、社長になったばかりの駿河台多織(するがだいたおる)さん。仕事着の黒スーツに社名入りの腕章をつけている。

「あれ、多織兄さんどうして」

 俺も習慣で黒スーツを着ていた。もう社員じゃないんだから私服をイメージしてもいいわけだけど。ステーションでは容姿など、自分の思い描いたとおりのものになる。

「仕事まえにちょっと見にきたんだ。いまカウンターまわりのリニューアルを考えてて」

「リニューアル?」

「親父がね、古くさいと思うところは変えていいんだよなんていうから」

「へえ」

 変えていいんだよ――前社長の真面目(まじめ)伯父さんの、やわらかな低い声が聞こえた気がした。ほんとうに伯父さんはそういういいかたをしたんだろう。

 伯父さんは先日、荻原家の人びとといっしょに未来北海道に遊びにきていた。きかとら温泉で、俺の快気祝いと、皆に緑を紹介するおひろめ会と、社長業を長男にゆずったばかりの真面目氏の、おつかれさま会をかねての宴会をした。伯父さんは引退のあいさつで、会社の魂は一代かぎりのもの、先代は自分に口出しをしなかったし、自分も引退ごは新社長にすべてを任せるといっていた。

 多織さんはむかしから言葉や態度の端ばしに、伯父さんのやりかたはおとなしすぎで、会社を拡大したい気持ちが強いことをあらわしていた。これからは雰囲気も変わっていくんだろうな、と俺は、うちの会社の平成後期っぽいナチュラルな木の味わいのカウンターを見つめていた。

「それより楯はなんなの、辞めちゃった人がどうしてここに」

「散歩のまえによってみた。なつかしくて」

「そういや、めずらしい病気になってたって」

「おかげさまで、もう元気です」

 多織さんと俺は、故人と縁者の面会用カフェに腰をおろした。カフェは数社ごとにひとつの共有スペースで、飲食物を提供するカウンターは各社のブースにある。

 ウェイトレスがやってきて、多織さんと俺にクリームソーダをくれた。アイスクリームが溶けだして、鮮やかなグリーンのソーダ水と混ざりあうのをふたりでしばし見つめる。俺は冬のあいだの謎の症状についてさらっと話した。

 多織さんはロングスプーンで、アイスクリームをひょいっと口にはこぶ。「ステーションに来られないせいで体がふくらんだ? それじゃ医者もなにがなんだかわからんだろう」

「行かなかったよ病院は」

「おれはわかるけどね。なにが起こっても、楯ならまあそういうこともありえるだろうと。おまえのステーション依存はむかしから心配なくらいだったもん」

 そういえば多織さんって、なにか事件が起こると「おれはまえからわかってた」調のものいいをする人だった。その調子のよさもなんだかなつかしく、愛おしい。

 昨年の秋、過労でいつもいらだっている緑を楽にしてやりたいとは思うものの、彼には仕事を減らすとか辞めるという選択肢はないらしく、どうしたらよいのだろうと考えていた。この宇宙はたくさんの階層で成り立っていて、ステーションの上階に、俺と魂の故郷をおなじくする意識たちが集まっているエリアがある。彼らに緑とのことを相談したら、意識たちは俺に、ステーションへ来るのをしばらく控えたらよいとアドバイスした。アドバイスというより強制てきにそうされてしまった。その直後から俺は、体外離脱ができず、幽体離脱も起こらないという生まれてはじめての状況におちいった。

 一日のうち数十分から数時間をステーションですごすことは、物心ついていらい欠かすことのない日課だったので、それができないとなると――はたからはそう見えなかったらしいけど、俺は人生で最大のあせりと恐怖にみまわれていた。向こうへ行けない時間がつづくとそわそわして落ちつかず、やたらとのどが乾いたり、体がほてって冷水のシャワーを浴びたくなったりと、禁断症状らしきものが出始めた。

 このままだと自分はおかしくなってしまう、心も体もこれまで経験したことのないものに変貌してしまう予感がして、俺は会社に退職届を出し、後任者に引きつぎをすませて未来北海道に渡った。行先を告げずに旅立ったけど、緑は俺につけていた送信機の情報をもとに、未来鹿嘗町字鶴寝の俺がひそんでいた家――屋根もさび壁も黒ずんで、住民たちから「おばけ屋敷」と呼ばれていた家を、探しあてた。

「弁護士辞めちゃった彼はどうしたの?」

「辞めてないよ、いまは町に事務所を出してる」

「仕事あるの」

「ぼちぼち。でももう、助けたいって心から思える人の依頼しか受けないって決めました」

 抱えている仕事の量がつねにおおすぎるというのもあったけど、彼は依頼人の怒りや身勝手さ、憎しみなどの悪感情を浴びつづけることに耐えられなくなっていた。未来東京でのさいごの仕事のひとつは、若い女性が原告の性的煩わせ訴訟の被告代理人で、依頼人を信用できないまま担当することが決まったとき、そうとう落ちこんだようすだったのを憶えている。

「いいご身分だね兼古氏は」多織さんは冷ややかに笑って、「おれもやりたいことだけやれたらな」

「兄さんだって『働きたいあいだだけ働くべし』っていううちのルールに助けられたでしょう」

 ははは……と、多織さんは気まずそうに笑い、長めにしている横わけの髪を耳にかけた。多織さんは若いとき、家業にやる気をなくしてほかの職種を経験したことがある。真面目さんはこころよく息子を送りだし、出戻ってきたときもなにごともなかったように受け入れたのだった。

「長く生きるといろいろあるなしかし」多織さんはロングスプーンでアイスクリームをかき出し、「いまうちの近所じゃ、おまえだって駆け落ちしたことになってるし」

「え?」

「あの人がまた、これで。すまんね」

 多織さんは指先をぱくぱくやって、おしゃべりな人をあらわすしぐさをした。多織さんの母親――つまり俺の伯母さんにして前社長夫人のシャアさんが、未来北海道の旅行からもどって、俺と緑の転居は駆け落ちみたいなものだとかかってな印象を近所にしゃべってしまったんだろう。

「そうとうショックだったみたいで、楯目あてのおばあちゃんたち、お茶飲みにくるのもへったよ」

「ああ……」

「おまえはうちにとって座敷わらしか招き猫っていう縁起ものでもあったからね、損失は大きい」

「すみません」

「いや、母さんがわるいの」

 クリームソーダを飲み干して多織さんはため息をついた。

 ひと月かけて仕事を引きついだ、後任の男性のことを俺は思い出す。

「雷田(らいでん)さんはどう? 順調?」

「船の操縦士としては優秀だけど、お見送りメンバーとしては期待できんね。彼はこっちになかなか来られない。来てもすぐ落ちる」

「ンー……となるといま、どう回してる? 多織兄さんとしん呉(ご)兄さんと、みちこさんと湯々子(ゆゆこ)さんとすーさん?」

「湯々子は週一で手伝ってくれる。すわのさんも出てくれてたけど、演目の仕こみに専念してもらうようにした」

「ふうん」

「だから、おれとしん吾とみちこでローテーション」

「きついね」

「きつい。まあ、まえは楯に週四日頼っちゃってたわけだけど」

 といって、多織さんはハッとしたように俺を見る。

「あ、なあ、おまえいま夜ってあいてる?」

「夜?」

「えーと、よかったらお見送りだけ出てくれたりしない? 週に三回でも、二回でも助かる。バイトしない?」

「バイト……」

「一時から一時間とか。さいごの一組だけでも」

「おとむらい」と呼ばれる現代式の葬儀セレモニーを手がける会社の一日は、ざっとこんなふう――午後の三時すぎから始業、夕方から「斎の船」という火葬設備を搭載した飛行船をおとむらい現場に派遣して、宴もたけなわというころお棺を船内に回収し、火葬と散骨をする。おとむらいは公園や学校のグラウンド、マンションの屋上など屋外で行われることがおおく、近隣や通りすがりの人にも飲食物をふるまうなど広くひらかれている。

 うちの会社はよそとはちょっと変わっていて、すわのさんという歌手を雇っており、彼女には宴会で故人のために歌うという仕事もある。おとむらい現場を三件もめぐれば帰りは深夜。社員は斎の船の中でお見送りを始め、船で終らなかったぶんは会社で残業したり、家にもち帰っておこなう。お見送りは、見送られる人数にもよるけど午後十時から二時のあいだというパターンがおおい。

「どうだろう。なんなら週一回でもずいぶんこっちの負担は軽くなる。給料はずむよ、深夜手当と遠方手当もつける」

 俺は笑って、「遠方って、ステーション行くのに地球のどこからでも距離関係ないじゃん」

「こっちの気持ちとしてはそのくらい来てほしいんだよ。あ、おまえは家族もちってことにして家族手当もつける」

「ずいぶん奮発するなー」

 多織さんの語調には、一分でもはやく寝床に入れるならなんでもするという意気ごみが感じられる。ときに未明にまでおよぶお見送りは、それほどまでにつらいものらしい。俺にとってステーション行きは心身のリフレッシュになることで、体外離脱できるなら睡眠時間を削ってもいいくらいなのに、皆はそうでもないのかな。

「兼古氏いやがるかねえ? 週に何度もおまえが深夜に出かけちゃ」

「なんとなく彼の反応はわかる気がするけど……」

「バイトでも、楯が出戻ってくれたら皆よろこぶ。前社長なんかそりゃよろこぶ。どう?」

「ンー」

「頼む!」

 俺に向かって両手をあわせる多織さんを、食器をさげにきたウェイトレスがふしぎそうに見ていった。彼女は葬儀社のスタッフなのではなくて、このカフェエリアに来客があるとどこからともなくあらわれるウェイトレス意識だ。

「やってみようかな」と、俺がいいおわらないうちに、多織さんはテーブルのうえの俺の手をガシッとつかむ。

「よし! いったな! OKだな!」

「またお世話になります」

 俺はふたたびフューチャークラシコ葬祭社に雇われ、毎週金土日の未明、一時間ちょっとのバイトをすることになった。

 帰宅した緑にそのことを告げると、あまりに予想どおりの反応をするので笑ってしまった。

「は? なんで夜!? なにもふたりのだいじな時間に働かなくても! ちょッと! 笑うんじゃねえ!」

 スーツにランドセル型リュックを背負った緑は、ほんとうに小学生が体だけ大きくなった風情だ。うわ唇をキンキンにとがらせて、法道修習時代の仲間につけられたというあだ名、「生意気なペンギン」の真骨頂ともいうべき容貌になった。

「まあまあみど、ランドセルおろして、茶をいれるから冷静に話を聞いて」

「ランドセルっていうな」

「はいはい」

 俺はビューティフルチェアーを降りてキッチンへ向かう。湯をわかして彼のさいきんのお気に入りの紅茶をいれる。緑は「なんでなんでなんでなんでなんで」といいながら鼻息を荒くしてついてきて、窓に面したテーブルにつく。俺はそのとなりに腰をおろす。

 彼は稲妻のような荒っぽいしぐさでネクタイをゆるめて、「社長とはいったいどういう話したの」

「かりかりするなよ」

「してねえよ」

「してるじゃないか」

 ペンギン野郎はとがった唇のまま、紅茶をつつつと飲んだ。ハンカチでひたいをぬぐい、息をつく。紅茶には心を鎮める作用でもあるんだろうか、彼はいくらか落ちついた声でいう。

「……それって、こんどの週末だけじゃなくて?」

「基本はこれから毎週末ずっと。あの人たち子どもいるし、できれば家族とゆっくりさせてあげたい。もちろん、俺も緑と旅行とか、時間を気にせずにすごしたい日は代わってもらう。社員でもバイトでも助けあうのは変わらないよ」

「…………」

「緑だっていま、事務所の休みは自分で決められるわけだし。俺にあわせて休みをとってた未来東京のころとなにも変わらないでしょう?」

 彼はうなずく。

「すこし考えればわかることだった。つい、おれとの時間は大切に思ってないのかと思ってしまった」

「バイトったって緑を家にひとりにするわけじゃない。一時間だけベッドを抜け出して、あのいすで瞑想するだけ」

「またステーションで働けるのは、おまえにとって幸せなことだよな」

「俺あそこだと遊んでるだけで役に立つんだよね」

 緑は紅茶を飲み干して、はあっと熱い息を吐いた。

「正直いってほっとしてるかもしれない。向こうにいたときほどおれいま稼げてないから」

「そんなこと気にしてたの?」

 気にするに決まってんだろ、と、緑はしゅんとして。

「この先だってまえのように稼げる見こみはない。こんなに仕事選んでちゃ……」

「気が進まないことをやらないって、職業関係なく人間としてすばらしい。やりたくないとか会いたくないとか思うのって、それが自分を損なうものだって直感してるんだよ。それにちゃんと従えるってすごいことだ。えらいぞ」

 俺は緑の肩を抱きよせて、はちの張った頭を撫でる。彼はゆらゆらする瞳でじっと俺を見つめる。

「でもわかっちゃったんだよ、おれ、惚れた人のためにしか動けない人間らしい。いまは人柄がすきになれそうなお客さんの仕事は引き受けてるけど、究極てきには楯のためだけに働きたい。楯のためだけに生きたい」

「わかっちゃったのか」

「楯がおれのボスだったらいいのに。おまえのためならいくらでもよろこんで働くのに」

「ふたりでなにができるかな」

 俺は正面を見る。ふたりとも白っぽい服を着て夜の窓に映っている。

「緑はいつでも、どんなときでも大船に乗ったつもりでいるといい」

「おれの大船」といって、緑は俺の胸に頬をあずける。

「俺でもいいけど、この未来北海道が、この地球が、宇宙がもう大きな船だ。なんにも心配いらない。ふたりでいっしょに揺られていよう」

 この世で俺と愛し愛されながら暮らして、どうにもたちゆかなくなったらゲームオーバー、大いなる場所へもどる。ふたりがどうあっても世界はつづいてゆく。

 なにも心配はいらないんだよ緑。俺は声には出さずに、口の中でそうつぶやいた。



 フィ、フィ、フィ、という鳥の声で目が覚めた。

 これは寝起きの耳に優しい地鳴き。ピッポウ、ピッポウ、そしてたまにツイッというするどい金の針のような声がまじる。さえずりはチーチユチーチユチュルチュルという早口言葉。こんなに楽しいものを聴いて笑顔にならずにいられようか。

 チーチユチーチユー、チーチュルチュル。

 チーチユチーチユー、チーチュルチュル。

 宝だ、と俺はつぶやいた。

 体に感じる気圧や風の音、カーテンを透ける光、鳥の声。自分の体温で温まった寝具の親しさ、シーツや毛布の手ざわり。となりの部屋で緑が立てている、愛しいかすかな物音。すべては自分の意思や努力と無関係に起こりつづけ、俺はひたすらそれを味わっていればいいだなんて。なんという気前のよい豊かさがあったものだろう。

 三月のある夜、彼と居間でテレビを観ていたら、ふいに「俺」という閉じた感覚が消え、すべての境界がなくなるというふしぎな瞬間がおとずれた。荻原楯と名づけられてそれなりの過去や背負うものをもち、連続した心で生きてきたと思っていたけど、そうしたものはすべてまぼろしで、名前も年齢も性別もない、いかなる定義もできない、ただここでこうしているだけの存在だというシンプルな真実が降りてきたのだった。その解放感は、この世にいながらにして、ステーションの上階で味わえるものをうわまわるかもしれなかった。なぜなら、ステーションに行くためには自分の肉体を脱出する必要があったけど、もう俺はどこからか逃げたりどこかへ出かけたりしなくていいのだから。

 その夜の俺はビューティフルチェアーに寝そべっていた。手にはいまにも食べようとしている猫舌クッキがあった。「俺」が消えたとき、未来への期待感や、ものごとについて「こうであってほしい」という希望てき観測など、「俺」がこの世にたいして抱いていた幻想も消え、それと入れ替わるように、むきだしの現実がそこに残っていた。カーテンをとじた夜の室内の空気。このましい寝心地や、暗がりでモニターから発する光が目に飛びこむ感じ、クッキーの甘い香り、モニターの前にお座りする緑の背中の愛おしさ。こうした感覚だけがあり、俺はただ、それらを味わうだけの者だった。

 ひとしきりさえずって、鳥は去っていった。

 気前よく鳴いてくれたこの鳥はなんというのだろう。ふとんから手を伸ばし、ベッドサイドの端末で鳴き声を調べると、ベニマシコという鳥らしかった。

「起きてるの?」と声がして、緑がやってきた。立てた人さし指を俺の唇のまえにもってくる。「はい、けさの」

 俺は彼の指先をなめてひとこという。「甘じょっぱい」

「じょっぱい?」

「蜜は甘くて指はしょっぱい」

 緑は自分の指をなめてみる。「たしかに」

 彼は体温が高くて汗かきで、手のひらもたいていしっとりしている。ビニールぶくろの口がくっついてひらかないときなど彼の指先を借りれば瞬時に解決する。

 居間の窓辺には多肉植物のモーニングデュー・プランツが花ざかり。肉厚の葉を扇のように放射状に伸ばす親株から、むちのようにひゅるひゅると一本飛び出した細長い茎に、等間隔で五十個ほどの小さな花をつけている。花は細長いふくろ状で、毎朝順番にひとつずつ、すぼまった口の先に待ち針の頭ほどの小さな蜜のしずくをつける。緑が未来京都での学生時代から育てている植物のひとつ。

「あのモーニングデュー、買って五年以上たつけど花咲いたのなんてはじめてだ。ほんとに毎朝ひとつずつ蜜をつけたりするもんだったとは」

「まだ一か月は楽しめる」

「植物は人間のストレスを吸収してくれてるってえから、いままで花をつけられなかったのはおれのせいかもしれん」

「でもついに咲いた」

「咲いた」

「早起きしてなにしてたの」

「ちょっと作業を」

「作業?」

「見る?」

 お手手しっとり野郎のあとについていくと、居間のテーブルに工作用ボードが淡く発光していた。やや横長の大きな四角いわくの中に、球体や星型やいろんな立体がつながりながら浮かんでいる。

「もしかして、すごろく作ってる?」と、俺。

「そう! わかる? 記憶を頼りに、おれたちすごろくを再現してみようと思い」

 未来京都と未来東京の遠距離恋愛時代、緑と俺は毎週金曜二十七時にステーションで待ちあわせてデートしていた。そこでは十歳くらいのすがたになって自分たちだけのプレイルームを設けて遊ぶこともあり、ふたりでいっしょに作ったボードゲームが「おれたちすごろく」だった。

 ルールはシンプルで、自分の駒となる人形を二体ずつ作り、ボードの四隅にあるふりだしにおく。さいころをふってマスをすすみ、相手の人形と出くわしたところでバトルが勃発、勝ったほうが先へと進んであがりをめざす。ふりだしの数をふやせば、人形の数もふやして長くプレイすることができる。

 人形どうしのバトルとは、手を使うことなく、イメージで人形を動かして戦うというもの。ステーション滞在経験の浅い緑はイメージでものを操作することが体感としてわかっておらず、念力のような非効率なやりかたで動かそうとし、いつまでも人形をにらみつけてばかりで俺の人形に勝てたことがない。しまいには、すこしは手加減しやがれと激昂するのがパターンだけど、じっさいは、彼は手加減されることのほうが耐えられない性格なのだった。

 俺と週に一度はどうしてもデートしたいと彼はいい、瞑想という名の体外離脱プロセスを練習して――もともと素質もあったようで、わりとすぐにステーションで会えるようになった。ステーションでの記憶は寝ているときに見る夢と似て、目を覚ますとそのおおくは忘れてしまう。葬儀社の人たちは、目覚めてすぐにメモを取るなどのトレーニングを重ねて、向こうでの記憶を長く保てるようになっていくのだけど。

「あがりがまんなかにあって、終盤にあがりのまわりをぐるぐる回ってる記憶はある……ふりだしと、あとこのへん、このへんももやっとして思い出せねえ」

 といって、緑はすごろくの下描きを指で示した。なかなかじょうずな立体絵、うちのペンギンは手羽先が器用なのだった。

「俺だまってたほうがいい?」

「うん、自力で思い出す」

「まだプレイルーム残してあるから行けばいいよ」

「そうか、また行って憶えて帰ってくるのをくりかえしゃいいんだ。きっと何往復かで完成できる」

「いい訓練になる」

「またステーションデートしてえン」

「いいね」

 緑が出勤したあと家のまわりをひとりで歩いた。

 朱肉のような春の林床は、いつまでだって歩いていけそうに思える。しかし、やわらかく起伏のおおい地面は歩く姿勢やリズムが一定にならず、ここでリハビリ散歩を始めたころはすぐにへばって動けなくなったものだった。きついぶん鍛錬にはなっていたようで、ひと月もつづけるうちに体力はかなりもどった。

 五月に入って、林の中の水辺に蕗が大きく育っているのを見かける。高さは一メートルたらず。みごとな群生を眺めていると、漏斗のような円形の葉の重なりあったところから蛍光イエローの半身の人がにょきっとあらわれてびっくりした。

「わっ」というと、その人も「あっ」といった。ジャンパーのフードを脱いだ顔は、健康そうに日焼けした高齢のご婦人だった。クルクルパーマがすこし伸びてきたふうの白髪が、四角い顔のまわりでごうごうとうねっていた。

「こんにちは」と、俺。

「おどろいた。人がいる気配しなくて」その人は落ちついた微笑を浮かべた。

「おどろかせてすみません。蕗を採ってるんですか」

「そう。いまがいちばんおいしい」

 といって、ご婦人は「そっちはここでなにを?」と問いたげな表情をする。

「僕は散歩中で」

「そう……」

 彼女はふしぎそうに俺を見ている。手ぶらでふらっとあらわれたのが、へんだと思うのだろうか。

「家が近いんで、このあたりをちょっと歩いたりしています」

「このへんに家なんて――」

「そこのおばけ屋敷です」

 彼女は「アア」と声を出し、大仰にうなずいてみせる。「うわさの!」

「ははは」

「未来東京から来たものずきなヤングって」

「ものずきなヤング……」

「こんな可愛いお兄ちゃんだったとは。よかったらこれ」

 足もとに収穫物があるらしく、しゃがんでごそごそしているイエロージャンパーのご婦人。ふたたび蕗の中からあらわれたとき、軍手をはめた手には、ひもでくくった蕗の束とたけのこを詰めたビニールぶくろがにぎられていた。

「どうぞ。召しあがれ」

「よろしいんですか、こんなにたくさん」

「もちろん。あく抜きはめんどうだけど、がんばれ」

「いただきます」

「遠慮なくて気持ちいいね。なんだかもっとあげたくなる」ご婦人は笑うと、健康そうな歯がきらりと光った。

 彼女は俺のとなりで水筒から麦茶を飲んだ。蕗の中から出てきたそのボディーはがっしりとして頑健そうで、手指にはいかにも働き者という強さと繊細さがあった。このあたりで採れる山菜の種類や採取のしかたとルール、いまから夏までは山菜採りの人がよく出入りすること。話がはずんで鉈や鎌での熊との戦いかたのレクチャーになり、ほんとうに熊と戦ったことがありそうな真剣な顔つきで語ったあと、ふわっと笑顔になった。

「そろそろ虫も増えてくるし、これからは私みたいに完全装備でね」

 といって、彼女はジャンパーのフードをかぶり、ぐっとひもをひいて頭にフィットさせる。俺は山菜とお話の礼をいって別れた。

 家にもどってあくの抜きかたを調べながら、蕗とたけのこのしたごしらえをする。皮をむいて切って、ゆでて水にさらすだけの作業だけど、慣れないせいか大仕事をした気分になった。さてコーヒーでも、と戸棚をさぐって、豆を切らしていることに気づく。

 きかとら温泉と鹿嘗町の中心部を往復するバスがあって、それが十分ごに最寄りの停留所に来ることがわかった。キッチンに散らばった蕗とたけのこの皮を掃除してバスに乗る。

 役場前で降りたときは未来鹿嘗中学校の下校時間だったらしく、こげ茶色のブレザーに白っぽいもこもこしたズボン、スニーカーといういでたちの生徒がぞろぞろと歩いていた。まえにもこのくらいの時間に町を歩いていたら、「おばけ屋敷の人」と中学生に指をさされたことがある。

 農協スーパー内にある、地元産の品をあつかう「きらきらマルシェ」コーナーにて、近所の喫茶店のコーヒー豆があったので買う。緑はきらきらマルシェがすきで、ここでよく弁当を買っているらしい。

 買いもののあと二階の兼古法律事務所により、ノックしてドアをあける。ひとりの事務所としてはゆとりがあって、玄関を入って向かいにミーティングルーム。部屋の奥では執務デスクが窓からの春の光を浴びていた。

「はい」

 ミーティングルームから緑が顔を出す。彼は、あれっ、という表情になるも、言葉が出てこないようでただ見つめあう。ドアの奥では白髪あたまの男性がソファーに座っていて、俺に顔を向ける。「いらっしゃいませ」と、俺はあいさつをして、コーヒー豆を抱えたまま壁沿いにササッと移動し給湯室に入った。

 聴き耳を立てているわけじゃないけど、オフィスはしずかすぎて声が届いてしまう。

「たしかに杭を出ているようですが」と、緑の声。

「出てるなんてもんじゃない」といったお客さんの声が、思いがけずハスキーだった。コフコフと空咳をする。

「でも調べたところ、この境界標じたいが立会証明のない正式とはいえないものだったんです」

「正式じゃない? うちの境界はまちがってるということ?」

「めずらしいことじゃないんです。日本の土地の境界線のおおくは不明確だといわれているので」

「証明とやらが必要ならとりますよ」

「その件はまた。――こちらはすこし古い写真ですが。このあたりはむかし縄を引いて測量した記録が精査されずにいまも使われています。誤差はそうとうあると思いますが、皆あいまいなまま家を建てたり土地を売買して」

「縄……」と、放心したようにつぶやいたあと、お客さんはまた咳きこんだ。

 テーブルには土地の図面と航空写真らしきものが出ていたな、と思いながら、俺は給湯室の窓をあける。おもての車の音や中学生の歓声でミーティングルームの声はかき消された。ここは冬のうちに緑が見つけて、まだ仕事を再開するめども立たないうちから事務所にしたいと気に入っていた物件だった。

 湯をわかしてコーヒーをいれ、窓から景色を眺めていると、やがてお客さんは帰り彼がやってきた。

「タッティーどうした、びっくりした」

 と、俺の両手をとってささやく顔がほくほくとしている。ふたたび俺の目の前で彼という現象が始まり、俺はうれしい。

「仕事中に会えるなんて」信じられないというように緑はささやく。「さっきは息がとまるかと思った」

「豆を切らしたから買いに」と、俺。

「いってくれたら帰りに買ったのに」

「それも思ったけど」

「おまえあれじゃねえ? もしかしておれの顔が見たかったんじゃねえ?」

「マルシェきょういいパン入ってた」

「頼むから話題はこのままで」といって、彼はじれったそうに俺の手を揺すぶり、「おれに会いたかったんでしょ? なんにもいわずにふらっとあらわれて、ほんとに猫みてえなんだから」

「そう、緑の顔が見たくて来てしまった」

「へへっ……」

 というその、だらしのない顔ときたら。

 緑のこういう、管を伸ばしきった貝のようなにやけ顔を見たり、赤い寒天のようなあえぎ声を聞いたりすると、俺はいつも甘く苦しく名状しがたい気持ちにおそわれる。生きていることがとてもはかなく思え、そんなやわらかな場面をおしみなく見せてくれる彼を抱きしめたくなる。

 俺たちは口づけをする。彼の唇はリップバームの感触がした。職場用なのか香りはなかった。

「すごい。視界が楯でいっぱいだよ」と、おなじ高さにある目を輝かせて緑がいう。

「俺も緑でいっぱい」

「この町の風が吹いてて、おまえのいれたコーヒーの匂いがして。おれに必要なものがぜんぶそろってる」

「そろってる」

 緑と俺は抱きあって、頬を押しつけあう。彼はため息を何度もつく。

「やっぱりこれだ。これしかない」

「うん」

「おれにはこれしかないよ楯」

「うん」

「こっちに来てわかったことがひとつある。いや、わかったことはたくさんあるんだけど、そのひとつが――自分を大切にするってどういうことか」

「うん」

「自分に必要じゅうぶん以上の教育を受けさせて、いろんな教養や、できれば特技なんかも身につけさせて、将来他人の海に出たときに埋没しないだけの個性を養って――社会で有利に生きられる力を自分につけてやることが自分を大切にすることだと思ってた」

「うん」

「子どものころからいつも目標があって、これをクリアしたらつぎはこれ、つぎはこの資格、さらにそのうえの資格、そのつぎはこいつに勝つ、これだけの数字を出す、まだ自分は至らないからもっと学んで、最新の情報を追いかけなきゃ、って、ずっとやってきたんだよ、おれ」

「そうだったよねえ緑は」

「目標をクリアしたり試験に合格したら、そのときだけはうれしいよ、すごく高揚するし達成感がある。でも満たされなくて、自分が停滞してるように感じるのがこわくて、またすぐににつぎの目標を設定する」

 俺は親にはずっと「楯は生きているだけでいい」といわれてきた。その言葉を真に受けて、受験も就職も、そのときの自分が努力せず入れるところに流れるように収まった。成長したい、人の役に立ちたい、重んじられたい、尊敬されたいと努力してきた緑とは真逆の人生といえなくもない。

「この循環は決しておれを幸福にしないとわかってたけど、まわりはつねに進化しつづけていなくちゃいけない空気で、ドロップアウトする人が軽蔑されたり忘れられるのも見てきた。おれは自分にかなりの自己投資をしてここまできたって自負があって、後に引いてしまったら過去をぜんぶ否定することになる気がして、脱出する方法がわからなかった。おまえが失踪ってかたちで、強引におれを引っぱりだしてくれるまで」

 緑はそこまで切れめなく語り、大きく呼吸をする。

「楯、人は向上心じゃ幸福になれないんだよ……ありのままの自分じゃ居心地がわるくて、そこから逃げるための方便が向上心なんだよ」

 俺は緑の髪を撫で――いい香りのする、それはもうみごとに真っ黒な髪で、思わず「緑、頭からいいの生やしている」と、いってしまった。

「なんかついてる?」彼は頭に手をやる。

「全体てきにすごくいいのがいっぱい生えてる」

「髪か」と、彼は笑った。

 なにかに急き立てられるようなしゃべりかただった彼の肩が、そこでふっとさがる。

「個性を養うっていうけどさ、おれって、ほっとくとおまえのことばかり想ってて、うまそうなものを見れば楯に食べさせたいってまっさきに思うし、きれいな白樺を見れば楯みたいだって思うし、おまえのことならしぜんに体が動くし、この世はこんなにいろんなものごとであふれてるのにおまえにしか関心がないっていうのが、どうしようもなくおれの個性だったよ」

「ずいぶんはっきりしたなー」

「このままのおれで生きてみようと思うのさ」緑は俺の目を見ていう。「おれはもうなにも目指さない!」

 そう宣言したとき、よほどうれしかったのか、彼の体が腕の中で小さく跳ねた。

 俺はヒュウと口笛を吹く。「それはすごい」

「おまえと楽しく生きる。それだけ。だから仕事から帰ったあとにもおまえと遊んだりおまえに優しくできる力をたくさん残しておく。そうするって思わなくても自動てきに体が仕事をセーブしてるけど」

 いまの緑はまるで歌っているみたいだ。自分が歌えることを思い出した鳥みたいだ。俺は彼のはじめてのさえずりに耳をかたむける。

「ここに来るまえは真逆のことをしてた。すきな人と不自由なく暮らしたいと思って働いてるのに、余裕がなくなってその当人に当たり散らしたりして」

「ここに来るまえ……どんなだったっけ。なにしてたんだっけ」

 俺は一瞬、ほんとうにわからなくてそうつぶやいていた。過去の記憶は時おり胸をよぎるけど、これまでどんなふうに生きていたかというあらすじは、いまでは自分から遠いものに感じられた。俺はただ、ここに来たくてここに来て、いま会いたい人に会っているだけの者だった。

 緑は俺の上着のジッパーをちりちり上げ下げしていう。「楯はこっちに来て健忘症がすすんだな」

「いまがあればじゅうぶん」

「おれはまだ、おまえの過去も未来もほしがってしまう」

「ありがとう。緑はそんなにも俺をすき」

「過去はやれんし未来の約束はできねえとか、いわれるかと思った」

「いかにもむかしの俺がいいそう」俺は笑った。

「むかしの?」

「俺もこっちに来てから変わったみたい。説明しにくいけど」

「ふしぎ君度が増したなって気はしてた」

「ハハ、たぶんそれであってる」

 俺たちは笑いあった。

 窓からの風に吹かれておたがいの体に優しく触れていると、彼は熱い息をもらして髪の乱れた頭をふった。つるつると上着の金具がひきおろされ、彼は立ったまま俺を愛し始める。彼の内側からあふれる輝きに、山菜を流水で洗った感触を思い出した。

「さっきめずらしいことがあった」

 俺は林の中で老婦人に出会ったところから話す。緑はちょっととまどったようすで、ここでやめるのかよという表情をしたけど、俺はもう話したいと思ったら話してしまう。

 半分おかしそうに、半分あきれたようすながらも彼は俺の話をすべて聞き、「おまえって奴は熊より危険なばあちゃんキラーだな。その気になれば他人の遺産で食っていけるな」とコメントした。ほんとうに俺に遺産を分けると遺言に書こうとして、家族やうちの社長に必死にとめられた高齢女性たちがいたことを彼は知らないけど……。

「熊といえば、戦いかたも教わった。鉈や鎌でこう」

 俺は緑の眉間を手刀でトン、トンと叩く。

「臆せず正面から何度でも打ちつける。できれば熊とのあいだに木を挟むように立って、木を盾にして」

 緑は顔面チョップされながらにこにことして、「そんなんで勝てるわけねえ」

「あの人きれいな山姥かも。いろいろ教えてくれた」

「あんまり深くにひとりで入るな」

「まあだからきょうは、帰ったら山菜がある」

「最高だ」

「最高さ」



 (後篇につづく!)

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後篇予告

ステーションのお見送りスタッフとして、バイトを始める楯。

「この先は、あなたの本来のすがたにもどっていいんですよ」 「本来のすがた?」 「たいていの人は、自分がいちばん幸せだった時代のすがたになります」 この人は晩年がもっとも楽しかったのではという気もしながら、いちおういってみる。予想どおりいちごちゃんは、「じゃああたしは、このままでいい!」と、明るく宣言した。

やっぱりこの仕事は大すきで楽しいものの、社長の代替わりによって会社は変化していきます。

 フューチャークラシコ葬祭社のブースはずいぶん雰囲気が変わっていて、一瞬、ちがう場所に出てしまったかと思った。多織兄さんがリニューアルを決行したようだ。 / 真面目伯父さんが社長だったときのブースの面影もないせいだろうか、なんだかすこし心もとない。自分のよく知っているなじみの場所ではなくなっていくんだな、これからも変わっていくんだろうな――と、なにかを愛した以上はかならず味わう甘いつらさを胸に覚えて、俺は立ちつくしていた。

そして楯と緑はあいかわらずとても仲よし! 挿絵も描けたら入れたいです。後篇のみ価格を設定しており300炎です。よろしくどうぞ。

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*本作は『幸せになりやがれ』(講談社)の続篇「猫舌クッキ割れて三月」のつづきです。

このあとは「あの鳥、口にジュース入ってるみたいな歌いかただ/それはおまえだろう」「24時間のすずめたち」「ユーアーマイあやうラッキーグリーン」などをお楽しみあれ♡ シリーズ作品はこれ以外にもたくさんありますので、ぜひお読みください →こちら 短いものはだいたいnoteの「ひとくち小説集」内にあります。



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