24時間のすずめたち


 車の助手席から森を眺めていると、となりで運転している緑が「ゼロゼロゼロだ」といった。きかとら温泉の帰り、彼が「小鳥の喉」と呼んでいる車一台ぶんの幅の小径にさしかかったときのこと。車の時計は0:00を表示していた。

「ほんとだ。おめでとう」と、俺。

 うちではいつからか、時計や車のナンバーなど、ぞろ目の数字を見たときに「おめでとう」「ありがとう」といいあう習慣ができていた。

「まえからしてみたかったことが……」と、おねだりドライバーは小さく咳払いしていう。

「なに?」

「きょうこれから、世界が終わる日のつもりですごしてみる。つぎの〇時ちょうどまで」

「世界が終わる日ごっこ?」

「ごっこ。そう。おれあした休みだし」

 ぱちぱちとタイヤは石を踏み鳴らし、車は夜の森をすすむ。

「いいよ」

「ほんとに?」

「いいよ」

 緑は眼鏡の横顔をうれしそうにして、「ありがとう」といい、「子どものころそういう設定でひとり遊びしたけど。はかない気持ちになって川を見にいったり。でもその気持ちは何時間もつづかねえ」

「つづかないよなあ」

「ふたりならできるかと思って」

「やってみよう。俺たちは二十四時間ごに滅ぶんだ、みど!」

「滅ぶのが楽しみなの? なんか勝手がちがう……」

 緑の脳内にはまるで「恋人ができたらしてみたいことリスト」でもあるみたいに、世間の恋人たちが楽しんでいるにちがいないと彼が信じてきたことを、ひとつひとつ俺と経験していきたい気持ちが、とても強いのだった。カフェでデザートを食べさせあうとか、服屋ではおたがいに試着室をのぞいて意見しあうとか、早朝から遠乗りして果物狩りやピクニックにでかけるとか、ベッドではおたがいのからだを縛りあうとか手錠をかけるとか。

 彼の「してみたいことリスト」にはもうひとつの系譜があることも、同居してから気づいた。それは幼少期に家庭で味わえなかったことや、ひとりでやっていた遊びで、恋人であり親友でありたったひとりの家族である俺とのあいだで実現したり共有したいこと。未来北海道の十勝平野の片すみのこの家に暮らしてから、絵本の中のシーンのようにホットケーキを何十枚も焼いて積みあげて、四角いバターをのせてシロップを垂らすこともしたし、豪雨のなか庭に出て雨で髪をシャンプーしたり体をブラシで洗う遊びもした。そのときの彼の表情には、二十六歳と思えない幼さがイラクサのとげのようにきらめいていて、いつも俺は泣きたい気持ちになってしまうのだった。

 変電所をすぎ、橋をすぎ、白樺の木立に囲まれたわが家に到着する。

 玄関へつづく玉砂利のスペースにジープをとめる。荒い道でもよく走る賢いジープ、この車とのつきあいもあと二十四時間をきったと思うといっそう愛おしい。

「ドアの開閉音が柔らかくてすきだった」と、俺はいい、角ばった草色の車体をなでた。

「パシュッていうんだよね。泥だらけでも品があった」といって、緑は玄関から車をふり向き、「あとで洗ってやろう」

 未来北海道の住宅では、「玄関フード」と呼ばれる風除室がついているのをよく見かける。この家にもついている。玄関フードのかたすみに巣くう、足の長い飴色の蜘蛛にも、「きょうで終わりだよ」と声をかけておれたちは部屋に入った。

 俺はキッチンで湯をわかす。相棒はすたすたと、ひのきの桶をふたつ抱えて洗面所に向かい、バスタオルや手ぬぐいや着替えた服を仕わけしはじめる。

「みど君、きょう世界が終わるのにお風呂セット片づけるんだね」と、俺は洗面所に向かって。

「体が勝手に動く」と、緑の声が風呂場に響いた。

 棚の紅茶のストックから、ムレスネル・ティールームの野いちごとキャラメルのブレンド、<ウェルカムトゥモロー>をいれた。洗濯機のしんしんという作動音を背後にあらわれた洗濯男は、紅茶の香りに顔をほころばせる。

「楯が茶をいれてくれた、楯茶だ、楯茶」

「さいごの日にも働き者の緑くんに」

「世界じゅうのあらゆる茶の頂点に楯茶ってのがあって、それぞれの茶の三倍うまい」

「おじょうずねえ」

 俺たちはティーカップで乾杯をした。

「なんていい香り」

 と、ほめじょうずは眼鏡の奥の目を切なそうにとじてつぶやく。いつもの彼ならここで、香りや味わいのすばらしさを説く言葉がいくらでも出てくる。なにをいうかなと待っていると、緑はカップの中を見つめ、「きょうはだまって味わうのがいいな」といった。

「さいごの日にわざわざいわなくてもいいやと思うってことは、どうでもいいことなのか。おれふだん、どうでもいいことに言葉を使いすぎか」

「おまえの薀蓄や意見なんか聞くのすきだったよ」

「ありがとう」幼心の君はほくほくとした表情で、「——うれしいね。こんな子どもっぽい遊びにつきあってくれて」

「俺本気。この肉体はきょうかぎり」

「おまえがいうとこええ。やっぱりふたりだとごっこ遊びの本気度もちがう」

「あ、1:11」

「おめでとう」

「ありがとう」

 初夏といっても、内陸のこのあたりは夜に気温がぐっとさがる。緑は「二十五度」といってエアコンに寝室の室温をあげさせた。

 俺と緑はベッドに横たわり、おたがいの体に腕を回していた。彼は体温が高い。その手のひらの湿った熱にまどろんでいると、「むかしさ」と、熱い人は思い出したようにつぶやく。「外出先から家電に指示するのって子どもの役目じゃなかった?」

「だった、だった」と、半分眠りかけてた俺は噴きだした。

 家族で買い物やレジャーに出かけると、子ども用にもたされている端末から帰り時間にあわせて空調を整えるよう指示をだしたり、掃除機や洗濯機の動作予約をすることなど、小学校中学年からのお手伝いとして推奨されていた。

「俺が頼まれると剣がうらやましがって、自分がやるってきかなくて」

 剣は三歳したの弟だ。

 緑は笑いながら、「目に浮かぶ」

「俺やる気ないから、その役目はそうそう奴に譲った」

「おまえらしい」

 ものにはすべて心があり、電気製品にも感謝をこめて優しく声をかければ故障もすくなく、長もちするということを、俺たちの世代は小学校二年生の理科の時間に教わった。だから子どもたちは家電にも名前をつけたり、家族の一員にお願いするように、動いてくれるよう頼むのだった。

「3:33」と、緑がベッドサイドの時計に気づいていう。「風を入れよう」

 緑は起きあがってカーテンをひらき、窓をあけた。森を抜けた夜明けの風が、薄羽根を生やした妖精たちのようにすべりこんできて、愉しく、心地いい。

 室温がきゅうにさがったので、エアコンががんばって風量を増す。体をめぐって冷風と温風が入り混じる。部屋を暖房しているときも、窓をすこしあけて新鮮な空気を入れるのが俺はすきで、ときどきやる。すると緑はエネルギーの浪費だと小言をいう。なのにいま、彼のほうからそれをした。なんといってもきょうは世界の終わる日だ。

 肩を寄せあって窓の外を眺める。闇は東のほうから明るみつつあり、すらりすらりと白樺が浮かぶ。家のまわりに生えているこの木のことを、緑はことのほか気に入っている。この木は楯のような色気がある、囲まれるとハーレム気分になるといって、彼は庭にデッキチェアを出してよく日向ぼっこしていた。

「なんだかほんとにこの世が終わる気がしてきた」

 といって、緑は窓をしめ、俺を寝かせて毛布をかけた。

「俺はもう終わるモードよ」

「ごっこだからね?」

「やるなら役に入りこめ。こわい? 降りる?」

「降りねえ」

「眠くなってきた」

「寝んの? 寝れんの? さいごの日に?」

「おやすみどり」

「笑顔がはかねえー」

 生れてから幼少期まで病気がちで、そのせいか俺は幽体離脱しやすい体質になってしまった。ものごころついたときからあの世とこの世を行き来していて、人は死んだら人生という重い夢から覚めて、楽になるだけだということがわかっている。

 去年の秋までいた未来東京では、緑の仕事が忙しく、残業と対人ストレスで彼は毎日いらいらしていた。辞めたらいいと提案しても、クライアントが困っているから、上司やスタッフに迷惑をかけるから辞められないと彼は答えた。ふたりですごしているときも、俺の言葉のあげ足をとったり皮肉をいったり、それを後悔して落ちこんだりをくり返していた。「これじゃ生きてる意味がわからん」と、怒りをぶつけてきた彼に、つい口がすべって「じゃあ死ぬか。つきあうよ。俺も緑も死んでまったく問題ない」といってしまったとき、緑は泣きながら家を飛び出してしまった(そしてすぐ帰ってきた)。

 俺には死は、行きなれた場所へ片道切符で行くだけのこと、「荻原楯」という役や、いつも淡くだるさのつきまとう肉体を脱ぎ捨てられること。死は生きる張りあいになる楽しみのひとつだなんてとてもいえない。

 窓のすぐそばでびゃーびゃー鳴きまくる鳥がいて、「なにこいつ」と俺は笑いながら起きた。たぶんヒヨドリだけど。そしてホットメガネがもう、俺にしがみつくようにして眠っていた。寝ているまに腕を抱えこまれたり脚をからめられたりして、そのたびに振りほどいたのをなんとなく覚えている。

「もう明るい」と、俺は手を伸ばしてカーテンの裾をめくった。「なんという晴天」

 緑は目をこすりながら、「おまえはこの期におよんで鬼だよ、ふつうはこんなとき不安がってるパートナーをおいて寝たりしねえ」

 不満なときにいつもそうなるように、彼は唇をとがらせた。絞りだしたクリームの先端みたいに、ずいぶんきれいにツンとなるものだ。寝起きだというのに。

「緑だって寝た」と、俺はくちばしっ子のツンを指で押した。

「ひとりで起きててどうしろって」

「あ、指輪」

「してやったさ」

「久しぶりだなー」と、俺は寝ているまに指輪をはめられた左手を見た。冬の日ざしを想わせる、銀の輝き。

 同居をはじめたときに贈られたけど、周囲の反応がやっかいそうな職場にいたのもあり、緑に要求されるように、つね日ごろ身につけることはなかなかできなかった。

「覚えてる? おれが指輪してくれって頼んでたとき、『そうあせるな緑、これからは毎朝おまえの指に草の指輪を巻くことだってできる人生がはじまる。俺たちは銀の時間、草の時間の両方をもっているんだ』なんていったの。だからこっちは、じゃあいましてくれなくてもがまんするかって思ったのに」

「俺もおまえに負けないロマンチストだね」

「それがどうだ、同居三年目にしてまだ一回も指に草なんか巻いてくれねえじゃねえか。指輪もしねえし、草も巻いてくれねえし」

「なんか俺いろいろ責められる。さいごの日なのに」

 そのとき俺の腹がクルルーと、うずを巻いて鳴った。時計を見ると六時をすぎていた。

「腹がへった。朝食はどうする?」

「あるものでいろいろできるけど……おれは鮭焼くとか。楯には——」

「いいね。俺も鮭をいただこう」

「へえ」

 緑は上半身を起こし、真上から俺の顔をまじまじと見つめ、「うちのベジ坊やが魚を食べるって」

「お魚に極楽へ連れていってもらおう」

「じゃあ焼く。あとは?」

「まえにつくってくれたあの……豆腐のまるくて平べったい、たれにまみれたよろこびを食べたい」

「よろこび?」緑はけげんそうに片眉をあげて、「ああ、あれか。豆腐のさつま揚げ風」

「よろしく」

 グリルに鮭の厚い切り身をふた切れならべながら、「魚をいちどにふたつのせたのはじめて……」と、メガネシェフがつぶやくのを、アシスタントの俺はかたえに立って聞いている。

 米を炊いて、だしをひいてみそ汁をつくり、豆腐のよろこびをつくり、野菜をもんで浅漬けをこしらえた。漬け汁とキャベツとキュウリ入りのふくろをシェフに渡されて、もむのだけ俺がやった。

 食卓は、おもての木に取りつけた鳥の巣箱を眺められるよう、窓に面してつくったカウンターで、ならんで座る。テーブルに向かいあうのは「遠い」といって緑はいやがる。したいときにすぐ、キスができないからだそう。

 焼き鮭とみそ汁の匂いの中で緑は俺にキスをした。そして、「いつもいっしょに食べてくれてありがとう、愛してるよ」といった。これはきょうでなくとも毎日、食事のたびにすることで、いうことだった。

 食後はジープを洗い、明るいうちに歩いておこう、と家のまわりを一周した。

 白い壁に青い屋根の二階建てのこの家は、俺たちが入居するまで長いこと空き家だった。壁も黒ずんで周囲は草ぼうぼう、「おばけ屋敷」なんて呼ばれていたらしい。

 緑は、家の土台あたりからぴょよんと伸びているえのころ草の首をつかみ、引き抜くかと思いきや、そのまま手を離した。

 彼はミントブルーの空を見あげて、「しかしほんとに雲ひとつねえ」

 俺は強い太陽に手をかざしつつ、「こんやの営業終了に先がけて、雲の発生装置を停止したんだな」

「雲くらいさいごまで出してくれ」

 歯を見せて笑っている、ごきげんな彼に俺は問う。

「未来北海道に来てよかった?」

「え。もちろん」

 未来東京での生活を変えるため、去年の秋の終わり——こっちではもう冬の始め——に、俺たちはこの地、未来北海道は十勝地方、未来鹿嘗町の鶴寝という地区にやってきた。

「こっちに来て落ちついたよね、みど君」と、俺。

「単純に仕事がひまだし」

「でも焦ってない」

「なにかが止まった感じがする。子どものころからずっとずっと走ってたものが、気づいたら止まってた」

「走ってたもの」

「これは、冷たくも熱くもなくて、体温とおなじ温度で脳の中に同化してて、めったなことじゃ存在に気づけないものだ。でもいま、博物館の役目の終わった機関車みたいな奴がここにある」

 緑はそういって、いかにもそこに異物があるように、自分の頭に手をやった。

「こいつはおれの意思で走らせたり止めたりできるものじゃなくて、思い出せないむかしからずっと勝手に走りつづけてて、勝手に止まった。おれは自分が運転してると勘ちがいしてたけど、乗せられてただけみたいだ」

「なにが止まったんだろう」

「人生をよりよくしたいって欲望。たぶん」と、拾った枯れ枝を振りながら緑はいう。「仕事はいま、向こうにいたときの八割減だけど、おまえのバイト代とあわせれば暮らしていける。毎朝起きたら楯がいて、いっしょにいられる時間がたくさんある。ほかになにが必要なんだ? と思ったら、なにもいらないとわかった。いままでもわかってるつもりだったけど、ほんとうに腹に落ちた」

「うん」

「でも怒りっぽいのは治んねえな。けさもいろいろ責めてしまった」

 ギギギギ……という、エゾハルゼミの声に誘われるようにして、白樺の林に入ろうとしたとき、ひたいが全開になるほどの風が吹いた。俺は風の中のひとすじの草をつかむ。

「巻いてやろう」

 彼の左手をとり、薬指の指輪に重ねるように草を巻く。されるままにだまっているその顔を見ると、目を赤くしてじっと自分の手もとを見ている。

 長くあまった草を蝶結びにして、俺はいう。「もっとはやくこうすればよかった」

 いや、とか、もう、とか口のなかでもごもごといい、緑は草の指輪のうえからそっと右手を重ねた。

 五月も終わりのいまは雪もおおかた解けて、黒ずんだ氷のかたまりがぽつぽつと日陰に残っている。木のあいまをぬう浅い水の流れに沿って、俺と緑は手をつないで歩く。この水はおそらく、俺たちの家を遠まきに囲んで流れている。春先にここを歩いていて、雪のしたから川があらわれたのを見たとき、緑の蛇はこのせせらぎになったんだと俺は了解した。

 俺にはそういうものが視えるのだけど、高校時代に出会ったときから、緑にはたくさんの蛇が憑依していた。

 欲望の強い人、嫉妬や怒りの感情の大きな人が、そのあたりをただようものたちを磁石のようにくっつけているのを、街ではよく見かける。緑もそうした霊たちを背後に従えているひとりだった。社会人になってからも蛇たちは健在だったけど、この鶴寝の家に移ってからは、日にひにその影がうすれていき、ある日見えなくなっていた。

 部屋に戻り、俺たちは昼の光の中で愛しあった。終わったあと、シーツのうえに緑の指からほどけた草が落ちていた。

 午後はすきだった場所をめぐろう、ということになり、うちから数キロ離れたおとなりさん、農家レストランへ行った。

 店主のあやめさんは、四人がけのテーブルにわざわざならんで座る俺たちにももう慣れている。コーヒーと紅茶をはこんできた彼女は、手前の緑にたずねる。

「きょうはどうしたの?」

 緑はあやめさんを見あげて、「え?」

「なんかようすがちがう」

「わかります?」と、俺。

「メニューすごくじっくり見てさ、きょうはちがうの飲みたいのかなと思ったら、いつものだし。お店の中きょろきょろ見てるし」

「ここに来られるのはきょうでさいごかと思うと、メニューも熟読したくなって」

 そう俺が答えると、緑が袖をひっぱった。この人にいうのかよ、と顔がひきつっている。

「エ、きょうでさいご? どこか行くの? 来たばっかりなのに」

「いえいえ、まあ、そういうつもりで遊んでるんです——」

 やたらとキンキン音を立てて紅茶をかきまぜる緑の横で、俺はこの遊びについてあやめさんに話した。俺たちの母親くらいの年代の彼女は、にやっと笑って、「あいかわらず変なことしてるう」といった。

「ひまなもので、こんなことばかり」と、俺。

「そんな大切な日に、うちに来てくれるなんて光栄だな」

「もちろん寄らせてもらいますとも」

「十三時間経過したわけだけど、なんか変わった? 特別なことした?」店主は俺たちの向かいに座る。「ワタシだったら世界さいごの日、貯金ぜんぶおろして豪遊するかな」

 緑は真顔で、「それはいかにも自分は報われてないと感じてる人の発想だ」

「あらやだ」

「すみません、悪気はないんです。そんな退廃てきな豪遊なんてあやめさんにふさわしくないと彼はいいたいんです」と、俺。緑はとなりでちょっと首をかしげている。彼は率直すぎるものいいをすることがあって、ときどき人を怒らせている。

 わかってる、というようにあやめさんは俺に目くばせした。

「僕はこの設定でもあまり変わらないですね。だからここに来てるともいえるし……」と、俺。

「彼はもともとこの世に執着が薄いんで」と、緑。

「じゃあ緑くんは?」

「私は口数が減ったかもしれません。この期におよんでいわなくてもいいかと思うことが多くて。だまって味わっていたいというか」

「まだまだ減らせるよ、いわなくてもいいこと。——そう、なんかきょう変だなって思ったのは、緑くんがおとなしいからだ。あなた楯くんいるときすっごくしゃべるじゃない。いつも、入ってくるときからしゃべってるもんね」

 おしゃべりメガネはぐっと言葉に詰まり、「それほどでもないと思う」

「自覚ないんだ」あやめさんは、目を細めてうんうんとうなずく。「で、ほかには? 変化は?」

「いつにもましてコーヒーが美味しく感じられます」

「けさは彼、魚を食べました」

「わあ、本気だ」

 俺は窓の外を見て、「それに、目に映るものすべてがほんとうに美しい……」

 どこが? というようにあやめさんも窓の外を見る。初夏の日ざしのなかにまるまると張りつめたハウスがならび、その手前に錆びたドラム缶や、泥よごれのついた青い乗用の草刈り機があった。砂利と、石のすきまから伸びている名も知らない草花も。

「とても味わいがあります。草刈り機のタイヤに草がくっついてるのや、ドラム缶の錆やへこみとか。ふたに雨水がたまっているのとか。もう見られないと思うとひとつひとつ、胸に突き刺さってくるようで」

「そんなもんかしら」

「このコーヒーカップの野苺の——」

「九谷焼」

「染付の青い濃淡も、この世がどんなに豊かだったかを教えてくれるようです。目に映るものたちが皆語りかけてきているように思えます。それに耳をすませているだけで一日が終わってしまいそう」

「へーえ……」

 あやめさんは頬杖をついて俺の話を聞いている。

「父も亡くなるまえにそんなこといってたわ。でも若くて健康なあなたたちが、明日をもしれない病人と、おなじ心境になれるなんてすごいね」

 俺も緑もだまっている。

「そうよねえ、このあとどうなるかわかんないのは皆おなじか。それはホントだ」

 思うところがあるのか、ぶつぶつとひとりごち、どういう回路をたどったのか、あやめさんが口にした結論(?)は、「ワタシもお酒、こんや解禁しちゃお」だった。

 アルコールを制限されていたんだろうか。俺と緑はそれについては追及しなかった。

 店の入口には朝採りの野菜や果物が売られていて、いつもは帰りにいくつか買っていく。たまねぎ、じゃがいも、びん詰めの山菜。グリーンやホワイトだけじゃなくて、赤やオレンジや紫色もあるアスパラのコーナーは、クレヨンの売り場みたいだ。

 三キロを越えそうな大玉のキャベツを眺めていると、「きょうで終るのに、こんなに食べきれないよね。もし奇跡が起こって皆生きのこれたら、また買って」と、あやめさんは笑って見送ってくれた。

 農家レストランのあとは、森の中の一本道を通って、山あいのきかとら温泉に向かった。平地の木々はカシワやハンノキ、山に入るとハルニレやトドマツ、ウダイカンバなど、まざりあいながら植生はゆるやかに移ってくる。

 森は夏に向かって勢いをまして、下生えの草や笹も地面が見えないくらいに繁っているけど、未来北海道の植物は本州のそれよりも色が淡い気がする。山や森を遠くから眺めたときなんかとくにそうで、全体が光るように白っぽく、おなじ時期の関東の自然の、目に刺さるような濃厚な緑とはちがう。真夏にはもっと旺盛な感じに? しかし世界はこんや終わるさだめ。

「もうすぐうちだ」と、俺はつぶやいていた。

 車にお風呂セットを積んでいたので、家には寄らずに前を通りすぎた。明るいうちに見るわが家はこれきりかもしれない。俺は助手席から振りかえって、見えなくなるまで家を見ていた。

「どうしてあやめさんに話した」と、緑。

「世界が終わるだなんて重要な情報を、俺たちだけ知っててご近所さんに隠しておくなんてできない、って気持ちになって、ついね」と、俺。

「なにいってんだおまえ」

「そのくらい役に入りこんでたんだよ。でもとちゅうで、あ、これ遊びだ、と——そこで話やめるわけにもいかんし、説明してしまった」

「わかるようなわかんねえような」

「ごめん、温泉じゃいわない」

「頼むよ」

 鶴寝峡のきかとら温泉には泉質の異なる九つの湯があって、俺と緑は内湯で体を洗ったあと、岩の壁と木の天井に囲まれた扇型の風呂に入った。ぶこつな岩肌にひとすじ、血のような赤茶に変色した部分があって、そこをお湯が流れ落ちてくるのだった。

 フクロウの謡をあらわす、神秘てきな名前のついたお湯だった。ひとり用といえるくらい小さな湯船で、そこにふたりで入ったものだから、湯は豪快にあたりにひろがってしまう。

 五センチほどあけられた窓からの風に、水面の湯けむりがサーッと吹かれてゆく。四十一度の湯のなかで、俺たちはどちらからともなく指をからめあった。

「愛してるよ」と、いった緑の鼻のわきを、汗が伝いおりた。なんだかとても、彼が生きている感じがした。

「俺も」と、頭にのせていたタオルで彼の顔をぬぐう。緑はにこにこと、されるままでいた。

 そのとき、入口に人影があらわれて、おれたちを見るや「おう、スズメクラブが来てるな」と笑った。きかとら常連のエンドさだった。八十歳をすぎていて、やや、がに股になりかけている。黄色みの強い肌にカラメル色の大きなしみがたくさんあって、俺にとってはたまご焼きを連想させる人だ。

 まえに深夜の露天風呂で、ほかに客はいないと思って緑とちょっとキスをしていたら、エンドさが内風呂からつづく木道にひょこっと出てきて、見られてしまった。それからずいぶん「あんたらだらもうちゅっちゅちゅっちゅしてるんだもなァー」とからかわれて、「スズメクラブ」とコンビ名をつけられた。

「こんにちは」と、緑はエンドさを見あげて、「ショッさはいっしょじゃないんですか」

「きょうは来てない」

 エンドさは、向かいにあるもうひとつの扇形の湯船につかる。ショッさというのはエンドさよりすこし年上の温泉友だちで、彼がいない日のエンドさはすこし寂しそう。

 これは彼らのあいだでだけ聞くので、方言ではないと思うけど、「エンドウさん」「ショージさん」が縮まって「エンドさ」「ショッさ」と呼びあっている。俺たちもそう呼ぶようになった。

 エンドさは気持ちよさそうに壁に頭をもたれて、「このへんの野湯もあちこちはじまったってね」

 緑は身を乗りだす。「へえ、いよいよ」

「鹿遊(しかゆ)の湯は、来月の一週めには掃除が入るってたな」

 鹿遊の湯は、清流沿いに湧くたくさんの野湯の中でも、緑がとくに憧れているところだった。お湯が緑がかった銀色をしているそうで、周囲は野生動物が生活する環境なのだとか。

 しかし、来月は来ない。今年はだれも、鹿遊の湯に入ることはできない。

 どこの野湯はいつオープンだとか、嬉嬉として緑に教えてくれるエンドさを、俺はせつなく眺めていた。

 温泉から出るころにはひどく腹がへっていた。昼に愛しあったあと、緑は胸がいっぱいになったといってなにも食べず、俺もそれにつきあって一食抜いていたことを思い出した。温泉の食堂で、窓いっぱいに落ちてゆく夕日を眺めながら、緑は好物の天ぷらとざるそば二枚を、俺は山菜そばといなりずしを、時間をかけて食べた。

 つゆに散らした七味とうがらしが、もちあがるそばに吸われる。たったこれだけの現象も、遠ざかりゆくものに自分の一部がもっていかれる感じがすることや、つれない人に惹かれるとかという心の動きを説明してくれているように思えた。もしかしたら身のまわりはこんなサービスであふれていたのか、しかしそのすべてのメッセージを受けとり、解読する時間はもうない。この世界は無言にして、かつ、なんとおしゃべりな場所だったんだろう。そんなことを思いながらそばをすすった。

「さいごはどこで迎えたい?」と、俺。

「いっしょならどこでも」と、緑。

「じゃあこんやは庭で野営をしよう。テント張って、世界の終わりを観察しよう」

 そう俺がいうと、緑は「わひゃっ」みたいな変な声を出し、「それしたい! それしたいしたいすげえしてえ」

「いいね」

 それから心なしかジープは速度をあげて、薄暮のなかをわが家に到着した。

 庭にテントを組み立て、その前に分厚い毛布を敷いた。夜にそなえて厚着をし、毛布に座って俺たちは、南の空に輝きはじめた月を眺めた。

「世界終了の原因はなんだろう」と、緑はつぶやく。「隕石衝突か、大地震か、異星からの侵略か」

「あんまり破壊てきなのはこのみじゃない」

「じゃあどんな?」

「どこからか大きな手が、大気圏にそっと眠り薬を注射する。そしてすべての生命は活動を停止する」

「痛みも恐怖もなく、おだやかに」

「どこかうっとりとして」

「それがいい」

 月が西の森に近づいてくるころ、気温は思った以上にさがった。昼間暖かいほど、夜は寒くなるのがこのあたりの気候なのだった。緑は家に戻って、もう一枚ずつうえに着るものをもってきてくれた。

「白湯でも飲もう」と、俺は小さなこんろにコーヒーポットをかけて湯を沸かす。

 外で飲むときはこれと決めている、赤いマグカップに白湯を注いで渡すと、緑は暗がりでもきらきらしている瞳で、俺を見つめた。

「楯と白湯を飲むといつもどきどきして、初心にかえる」

「白湯なんかしょっちゅう飲んでる」

「だからそのたびにご丁寧にどきどきしてんだよ」

「なんで」

「覚えてる? 身宝山の山頂ヒュッテ、白梅の間で、さ、は、はじめて結ばれたときに……」

 いくらかいいにくそうに、くねくねしながら緑はいった。

 高校時代にふたりで旅行した山で、早朝に俺と白湯を飲んだことを緑は語りだす。彼はむかしのことをじつにによく記憶していて、「なあ覚えてる?」なんて小さなエピソードを話してくれるたび、新鮮な気持ちで聞いている。

 正直なところ俺は、十年近くもむかしのこととなると覚えていない部分も多くて。緑にかんしては、いつも全体てきに愛しくて、いろいろあったがずっと楽しかったという印象があるばかりだ。

 月はもう西の森の向こうに落ちて、空では星ぼしが自分たちらしく輝きはじめていた。家のうちそとの照明は消しており、庭の前の道路にはしばらく街路灯もない。カンテラを消せばあたりは闇となる。寒くなるだろうとテントは張ったものの、星のしたにいたくてなかなか入る気にならない。

 ならんであおむけに横たわり、さいごの夜空を見あげる。

 俺は時計を読みあげる。「22:22」

「二時間きった」と、緑はうめいて、寝がえりをうって俺のうえにうつぶせた。

「愛してるよ楯、愛してる、愛してる!」

「俺も」

「省略しない」

「俺も緑が愛しい」

 真上から緑はじっと俺を見おろす。

「おれねえ、こんな遊びしようなんていったのは」

「うん」

「世界さいごの日だったら、愛してるってすきなだけ口にしても聞いてもらえると思ったから」

「べつにふだんからいってるし、俺聞いてるし」

「おれってうるさいんでしょ? これでもセーブしてる。三回いいたいところを一回にしてる」

「あやめさんにいわれたこと気にしてんの?」

 あの人にかぎらないけど、といって緑は口ごもる。「すきだとか愛してるってのは、たまにいうのが効果あるとか……」

「遅すぎる」俺は噴きだして、星ぼしが自由に輝く空を指す。「みど、見てごらん。あの星たちのどれかひとつでも、ほかの星を気にして輝くのをためらってると思うかい?」

「いや」

「おまえが愛してるといってくれるたびに、俺の心はまちがいなく動いてるんだよ。だからいつのまにか、視界がこんなことになってる」

 俺は緑の頭をなでた。いつも七三分けにしている前髪がおちてきて、こっちのひたいに触れてくすぐったい。

「視界?」

「いま、緑の顔と、背後の夜空しか見えない。これが俺の世界」

「たッ楯」彼の鼻息が猛然となる。「もっももういちどいって」

「見えるのは緑と星だけ。これがいまの俺の世界のすべて」

 緑は俺の首に抱きつき、「この遊びしてよかった! ほんとよかった! ほんと……ああ……」

 俺は背後の毛布をたぐりよせてもちあげ、自分と緑とをぐるんと包んだ。毛布の筒のなかで緑はうっとり目をとじ、「吸血鬼に愛されてるみてえ」と、可憐なことを口走った。


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*表紙フォント キユマヤ園


*本作は『幸せになりやがれ』(講談社)の続篇たち、「口取りの日々」「猫舌クッキ割れて三月」のあとにつづくお話です。

このあとは「あの鳥、口にジュース入ってるみたいな歌いかただ/それはおまえだろう」、「ユーアーマイあやうラッキーグリーン」、「君と帰る、マーキュリータクシーで」、「五時四十ッピングからす鳴いティング」といったショートショート・短篇、ちょっと長いお話では「ふたりは揺られ宙」もあります。以下続刊です! ぜひごらんくださいね♡



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雪舟えま!

ひとくち小説集

甘くめでたい短篇・ショートショートです。

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スズメクラブの青春篇がございます。 https://note.mu/mamix/m/m072707bcfd58 ピンときたかたはぜひ! 読む養命酒として、寝るまえにすこしずつ嗜むのがおすすめです。
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