とりふ丸と耕太郎


 こんにちは、場面耕太郎です。

 相棒のとりふ丸と、中野ブロードA奥地の書店ウーララで働く三十五歳、独身天然パーマです。とりふ丸は外見は二十代はじめに見える。本人も正確なところはわからないらしい。髪の毛は茶色でねこっ毛、天然ウルフカットです。とりふ丸と名乗っているけど女の子です。可愛いか? おれは相棒をそういった基準で測る能わざる。各自の判断に任せたい。

 とりふ丸をさいしょに見つけたのは早稲田駅前のビデオショップで、夕方から開店だもんでまだ下りているシャッターの前。おれはその日、バイト仲間の送別会で飲みすぎて終電をのがし、安ホテルから出てきたところでした。たったひとりのバイト仲間が、もっと安定した職場探すといって辞めていった。店長が旅に出てしまってもどってこないことに不安をおぼえたとのことです。

 安定した職場……そんなものはこの世にないぞ……おれが知らないだけであるのか……などと去った者の言葉を反すうしながら早稲田駅に向かうとちゅう、道端でかん高い叫び声がして、おれはギクッと体をすくませたひょうしに二日酔いの頭がズキンとしたんです。見ればその、ビデオショップのシャッター前に人だかりができつつあり、まんなかにいるやつが叫んでいるもよう。なにをいってるのかと耳をすましたけど、獣が吠えているようで聞きとれず、「向こう側」に行ってしまった人間の声というか、それは絶望てきな響きで、みぞおちのあたりが冷えていく感じがしました。

 道路を挟んでビデオショップの向かいあたりにきたとき、ようやくそいつがなにをいっているかわかったんですが。

「けーきはらいっぺーくいてーしにてー! けーきはらいっぺーくいてーしにてー!」

 ケーキ腹いっぺえ食いてえ死にてえ?

 アーッともギャーッともつかない叫びのあいまに、そいつ、狼の子どもみたいな小柄な人間はそういっていました。

 おれは道路を渡って近づいていく。人だかりをかきわけてもっと。なんとそいつは女の子でしたよ。やせていて、タンクトップからは棒のような腕を突っぱらせて力んでいた。ショートパンツから出た足も骨ばってひょろひょろしている。それでも女の子とわかるのは、あごのあたりがなんとなく優しい感じの曲線だからです。

 見物人たちは痛ましい気の毒なものを見る顔つきで、しかし頭のおかしな奴にいきなり刺されたりするのもいやだし、と腰が引けています。おれは彼女の前に一歩踏みだして、いいました。

「食うかい、ケーキ」

 あ? と声を漏らして、彼女のなにも映していなかった目が、おれの顔に焦点をあわせました。

「腹いっぱい食いにいこう」

 彼女は二秒、おれの目を見た。瞳にじわっと、承諾の色が浮かぶのが見てとれた。行こう、といっておれが歩きだすと人びとはサッとよけて道をつくった。おどろいた顔、関わりたくなさそうな顔とすれちがう中で、ヒュウッとだれかが高く口笛を吹くのが聞こえました。振りむかなくとも、ちゃんと彼女がついてきているのはわかりました。ゴムサンダルを引きずるずばー、ずばー、という足音がおれの三歩うしろ、つかず離れずつづいてましたから。

 おれと彼女に注意を払う者がいなくなるまで歩いて、店名「薔薇園」のピンクのネオンが昼もまぶしい喫茶店に入りました。いいぐあいに混んでいて、おれたちは壁ぎわの目立たぬ席をとる。おれは椅子にかけ、彼女は壁ぞいのソファーへ。彼女はテーブルににぎりこぶしにした両手をのせ、店内をじっと見まわし、そしておれを見た。その目の動きや表情はビデオショップの前で叫んでいたときよりいくぶん落ちついて見えました。おれはメニューをひらいてやり、「すきなだけ頼みな」といった。

 彼女はぎらぎらした目で両手につかんだメニューをにらみつけ、

「ぜんぶ」

「ぜんぶ?」

 彼女はうなずく。おれはメニューをもう一冊ひろげてみました。ケーキは全種類でも八つ。きのう給料は振りこまれたばかりでした。

「ぜんぶね。飲みものは? カップでいい?」

 彼女はまたうなずく。

 やってきたウェイターにケーキを全種類と、カップふたつと告げる。彼女はパッとテーブルを離れてドリンクスタンドに走り、ターコイズブルーのタンクからカップにジュースを注いで、まずはその場で立ったままあおりました。いったいどれだけ飢えていたんだろうか。おれはテーブルからそのすがたを見ていました。彼女は飲みほしたカップをもって黄色いタンクの前に立ち、となりのタンクとちょっと迷ってから黄色のジュースを注いで、こちらを向くと慎重な手つきでカップをもって歩いてきました。きっとカップのふちぎりぎりまで注いだんでしょう。テーブルにつくとうやうやしくカップに両手を添えて飲む。それも飲みほしてしまうとまた席を立とうとする。

「おいって」

 おれは思わず呼びとめ、「そんなに飲んだらケーキ入んなくなるよ」

 そうか、という顔をして座りかけた彼女は、すこし考えてまたドリンクスタンドに行く。そしてこんどは理性が働いたのか、紅茶をカップの半分くらいに注いでもどってきました。

 ケーキが八つ、二回にわたり運ばれてきました。ウェイターは伝票をおいていく。クラッシックな手書き伝票でした。彼女はフォーク一本でケーキをざんざんと食べすすめます。彼女がフォークを手にとったとき「ほほう」と感心する自分がいたのは、手づかみで食べてもおかしくない気がしていたのか。正確には、シュークリームだけ手づかみしました。

 ごいごいと飲むようにケーキを食べてゆき、さらに注文するかと見ていたが、六個めのガトーショコラあたりから口に運ぶスピードが遅くなってきました。そして七個めのレアチーズケーキを三分の一ほど食べたところで、ついていた頬杖ががくんとはずれ、フォークを落とし、テーブルにずるっと突っ伏しました。

「おい」

 コーヒーを飲んで見守っていたおれは彼女の肩をゆすぶる。きゅうに大量の糖分をとって体がどうにかなってしまったのか? しかし髪の毛をよけてあらわになった彼女の横顔は、おだやかに目はとじられて、すうすうと寝息をたてていました。

 懐メロが流れ、まわりの客たちのさわさわという談笑、窓からさす午後の光。おれはテーブルに伏せる彼女の金色のつむじを眺めながら、食べ残されたケーキの皿をひきよせました。フォークのふちでゆっくりとケーキを切り、スポンジやフィリングの層をながめ、口に運ぶ。さいごのひとつはダークチェリーのタルト。きっとこれも食べたかったんじゃないかなと思いながら。それがとりふ丸。とりふ丸との出会いだったんです。

 中野ブロードAは迷宮じみたショッピングモールで、中にはハンドメイドコンピュータやデザイナーズヒューマノイドの店をはじめ、先鋭てきな客を相手にした間口の狭い店が、その数数百とも千ともいわれているが、ぎっしりとひしめきあっています。書店ウーララは、本の形をしていれば、縁を感じるものという基準でなんでも扱っています。なんでもといったって、六坪もない狭さだからおのずと数はかぎられるけど。

 店長は長年、たぶんブロードAができた当初からここに入っていた数すくない草創期メンバーのひとりです。おれともうひとりの仲間が働きだすころから、彼は仕入れと称して旅に出ることがおおくなりました。だんだん旅行は長期化していきました。はまってる星があるとかないとか。給料はとどこおりなく振りこまれるし、彼が旅先から送ってくる本やおれ自身が気に入った本を仕入れて売ればよいだけで、おれはむしろ自由で面白いし楽だなあと思いながら働いてたけど、バイト仲間は店長の素行に先行きの不安を感じていて、辞めてしまいました。一日十時間、家族よりもだれよりも長くいっしょにすごしていたたったひとりの仲間の気持ちも察してやれなかったなんて、おれは自分の他人への関心の薄さに、落ちこんだものです。おれはそいつにしてやれなかったことの罪滅ぼしに、とりふ丸にケーキを食べさせてやったのかもしれません。

「おっ、慣れてきたね」

 とりふ丸は常連の巨漢、南西さんお買いあげの本にスッスッスッと手ばやくカバーをかけ、ほめられました。三冊の本をとんとんとそろえて手さげぶくろに入れ、ぺこりと頭をさげて渡す。

「ありあとごつぁいます」

 とりふ丸はしゃべるのはうまくないけど、手先が器用でしおりの小さな穴に細いリボンを通して結ぶ作業なんかは嬉々としてやってます。エネルギーマネーの清算方法も知らないみたいだったけどすぐに覚えたし。

「那須さん生きてるの? ぜんぜん見ないね」

 南西さんは店長のことを那須さんと呼びます。

「はあまあ、あいかわらずで」

「面接なんかどうしてるの」

 と、南西さんはちらっととりふ丸を見やる。

「僕の裁量でやっちゃってますけど。だってこっちから連絡のしようがないんですよ、用事あるときは店長からいってくる、それを待つしかなくて」

「ベンベ司令官かよ」

 といって南西さんは厚い胸にぐっふっふと声を響かせて笑いました。ベンベ司令官というのは往年のSF映画に出てくる、部下に悪の指令をくだすときだけ宇宙の奥処からすがたをあらわす正体不明の黒幕のことです、たぶん。しかし南西さん大きいな。おれが小柄なほうなのもあって、南西さんのせりふはいつもおれの顔の高さにあるその胸のスピーカーからじかに聞いている気がする。

「七くん辞めちゃったねえ。彼短かったね、一年いなかったんじゃない」

 ですね、とおれは胸に痛みを感じつつ、棚に本を収める手をとめずに答えた。

「いっそ場面くんが店長になったらいいんじゃない」

「もーなりゆきでそーなりそうすよ」

「それもおもしろそうだなあ」

 そいじゃーにー、と、朗らかなバリトンで告げて南西さんが去る。彼のきょうのブロードA行脚は、このあと御機嫌堂の新作フェアリーをチェックして、変てこザウルスでモーレツガチャをして、地下の食料品店で弁当買ってバンビシアターで映画を観ながら食って帰る、といったところでしょう。

「休憩いいよ」

 おれは時計を見ていう。とりふ丸はうなずいたけど、店から出ていく気はなさそうで棚を眺めてぶらぶらしはじめます。

「なにか食べておいで」

 とりふ丸は首を横にふって。

 立ちどまり、一冊の本の背に指をかけて抜きとる。

「これ」

「またか」

 とりふ丸がうちで働きだしてから、ふしぎな現象が起こるんです。

 棚の中に、ときどきほかの本よりあきらかに古びた、黒ずんで縮んだようになる本が見つかりはじめて。ひらいてみてもページは煤けた感じで、文字は褪せかかって判読不能になっている。そうなるともう捨てるしかないんですけど。

 ブロードAのうえには古いマンションがありまして、そこにうちの店の倉庫として借りている部屋があり、寝起きできるくらいの三畳間やキッチン、ユニットバスもついています。薔薇園でケーキを食べたあと、とりふ丸は行くところがないというのでとりあえずそこに住みながら店を手伝ってもらうことにしたのですが。保管してある在庫の中にも、そういう黒くなって縮んだ本、そうなりかけの本がいくつか見つかりました。あきらかに、とりふ丸が来るまではなかったものでした。

 これはどうしたのって彼女に訊くと、「この本はもうたくさん生きられたから成仏した」と意味不明なことをいう。時間をかけて説明してもらうと、こういうことのようでした――作家たちによって日々生み出される物語は、まだ現実の人間によって生きられたことのない可能性としてのストーリーなのだと。ところがたまに、じっさいの人間によって生きられてしまうストーリーがある。だれかが書いた物語の、登場人物のごとく生きてしまう人間がいるらしいのです。物語のこまかな部分までなにもかもおなじようにというわけでもなくて、物語の核の部分、エッセンスとなる部分があるていどまで再現するように生きられると、その本は魂が抜けるみたいにポンと成仏し、古びて干からびた外見になってしまうというのです。

 たとえば、この世には、近ごろ話題のファイナルチャーマーになりたい女の子を描いた物語と、ファイナルチャーマーになりたい現実の女の子がいる。ファイナルチャーマーになった女の子たちの人生が、物語が満足するほどに増えたとき、ファイナルチャーマーになりたい女の子の本は成仏するわけですな。

 とりふ丸がやっと昼を食べに出ていく。本の黒ずみ収縮現象は興味深いが、こうたびたび商品が売り物にならなくなるのはたまらん。店長にどう報告したものか……そもそも彼は店のことをどう考えているのか……。

 戻ってきたとりふ丸はあごに白いものをポチッとつけていて、よく見ると生クリームっぽかった。

「またクレープか」

「…………」指摘されるといやそうな顔をする。

「そんなの飯にしてちゃだめだよ、だからいつも朝フラフラしてるんだ」

 おれはとりふ丸がケーキやアイスクリームやクレープや、甘いものばかりを食事がわりにするのが気にかかっています。

「やあかいものしか食えねえ」

「え?」

「痛いから」

「虫歯でもあるの?」

 とりふ丸はうなずく。口をあけてペンライトで照らして見せてもらうと、上下の奥歯が端から二本ずつ黒くなっていた。ほかにも黒ゴマを散らしたようにところどころ虫食いになっている。

「みごとに黒が四隅を取ってる」

 オセロの惨敗画面が頭に浮かんだが、これは深刻かもしれん。とりふ丸は過去のことをあまり話そうとしないのですが、どうやら孤児? 身内はいないか、いてもいまの彼女の力にはまったくならなさそうで、彼女もだれかを頼りにしている感じはありません。天涯孤独と呼ぶのがぴったりでした。

「歯医者に行かないとまずかろうよ、いますぐにでも」

「歯医者……」

「医療受給者パスなんかもっ――」てるわけがないのです、とりふ丸が。

 レジ奥の定位置に座ってしおりを作りはじめる彼女を見ながら、唐突におれは栃木で秘宝館温泉を経営している両親のことを思い、台湾でデザイナーをしている姉と、ニュージーランドで羊飼い修行中の妹のことを思った。彼らは皆健康で、いろいろありつつも人生は順調そうだ。たまに連絡を取りあうと小粒ながら幸せな話題にことかかない。恵まれている。

「………………」

 なんだ、そういうことでいいのかも。おれは定規に合わせてリボンを切っているとりふ丸に声をかけました。

「とりふ丸、おれのパスで歯医者に行こう。正確にはおれの家族用パスで」

「あ?」とりふ丸は長い前髪の奥の目で、ふしぎそうにおれを見た。

「入籍すればこんやにでも行ける」

「ニュウセキ?」

「君がよければ。いやだったら歯医者に通うあいだだけでも」

「………………」

「あまりいいことじゃないかな」

「ニュウセキって結婚?」

「そう」

 とりふ丸の手からハサミが落ち、見るとその顔は真っ赤になっていた。そして、「いやだ」といった。

「あ、そう……じゃべつの方法を考えよう。昼行ってくる」

 おれは店を抜け、四階番外地のいつもの食堂に行くつもりが、足がかってにわたわた動いて止まらなくてブロードAを出てしまった。

 気がついたときには、一年ぶりくらいで巨神亭に吸いこまれ、「むちゃドカ★巨神ご飯」の食券を購入している自分がいました。目の前にあらわれた銀色の洗面器状のうつわにハンバーグとカツとエビフライとシュウマイと数の子とちらし寿司がトッピングされたカレーが出てきてはじめて、自分は傷ついてるのかもしれないと自覚できました。

 もしかしておれは、プロポーズを断られた男なのでは。いや、もしかする余地もないだろ。

 巨神亭のエビフライは異様に長く、子どもだって模造とわかります。数の子にいたっては蛍光色です。二度と食うまいと思っていたものを腹に詰めこみながら、人は傷つくと、毒だとわかっているものを際限なく身のうちに取りこんでしまうと思いました。自分を大事にできなくなるんです。そして、異様に糖分をほしがるとりふ丸の傷の深さを想いました。いままで仕事の相棒としか思ってなかったけど、おれは彼女を愛していたらしい。

 重い腹を抱えて店にもどると、いつも「おかいりなさい」といってくれるとりふ丸がパッと目をそらした。

「あの、弱みにつけこんだわけではないよ」

 と、切り出したおれのわきをすりぬけ、外の棚の整理に行ってしまう。

午後はそのまま絵に描いたようにぎくしゃくしました!

 これなんですが、とSF作家の富士見さんに黒ずみ収縮本を見せると、彼はぜんぜんおどろかなかった。

「ま、ここは魔窟だからね」と、富士見さんは眼鏡を押しあげて。

「魔窟……」

 たしかにブロードAはそんなふうにも呼ばれます。もとは高級マンション付属のショッピングモールという構想で作られたのに、倒産と買収がくり返されるうちにいまのようなカオスになった。長い不景気のあいだに自分の店の一部をかってに間仕切りして又貸しする店子があらわれ、仕切りをさらに細かくしての又貸しの又貸しなどが横行し、正式な住所「中野ブロードA201」が「201のD」「201のDのホ」「201のDのホの☆」など、枝分かれして増殖がとまらない。古くからいる正式な住所の持ち主が「番外地」と呼ぶのはそんなもぐりの店のことです。ちょっと見下す感じも入ってます。そしてまた日本の郵便サービスは優秀すぎて、そんな番外地にもすぐに手紙が届くようになり、既成事実が積み重なってブロードAのオーナー会社としても追い出しにくくなって現在にいたる。

 番外地は日陰の雰囲気で、空気はなんとも判別のつかない謎のにおいがする。商品名や聞こえてくる会話は符丁だらけ、お客もそこ目当てのマニアばかり。詳しく知りたくないが、「人消えの606のBのイ」「335のCのワラヤさん」など都市伝説てきな怪談も枚挙にいとまがなく。

「御機嫌堂のフェアリー、実在のアイドルに似せて作るとそのアイドル死んじゃうっていうだろ」

 富士見さんは手の中の黒ずみ収縮本をためつすがめつして、「そうかー、物語はじっさいに生きられると成仏しちまうのかー」

「作家さんとしては複雑ですかね」

「どんなに突飛な話を書いたつもりでも、それを平然と生きてる人はいるかもね。現実のほうがぶっ飛んでたりするでしょ」

「負けないでくださいよ」

 とりふ丸がお茶を出してくれる。富士見さんと、おれにも。彼女が近くに来るとなんだかそわそわしてしまう。

「人類の新しい夢について書けということなのかなー。それもいつかはだれかに生きられて消滅する。うん、それもいいか。本の形で長く残ることが最良ともかぎらない」

 ふんふんとひとりでなにか合点して、ほんじゃ帰る、といって富士見さんは立ちあがった。うちやよその店で買いこんだ本をさげて出ていく。彼は上階の住人です。

「魔窟か」

 おれはつぶやき、椅子を重ねてレジの奥にもっていく。するとその狭いスペースで、とりふ丸が頬を押さえて泣いていました。信じられないというように目を見ひらいて、ぼろぼろと涙を流して。

「ついに来た?」と、おれ。

 とりふ丸は発語不可能というようにうなずきました。

 おれはエネルギーマネーを渡し、「いますぐ歯医者に行け」

「にゅうせきする」と、とりふ丸は涙でぐちゃぐちゃになった顔でいいました。

「え?」

「でもパ」といって、彼女はアウと叫んでしゃがみこむ。

「おい」

「ス」

「ス?」

「のた、めじゃない」

「入籍する、でもパスのためじゃない」

 とりふ丸はうなずく。ヒーヒーと息を漏らしながら。

「わかってる、歯はきっかけだ、きっかけ。なんだっていいんだよ」

「痛い」

「一階のブロードA歯科がいい。急患だって電話しとく」

 とりふ丸はおれのマネーを握りしめて、よろめいて棚にぶつかりながら出ていく。

 長時間の治療のすえ帰ってきた彼女は、痛みどめも効いて安らかな表情になっていた。もしかすると、出会ってからずっと微妙に険しい顔つきで発音も不明瞭なのは、歯が痛かったんでしょうか? 完治までにはしばらく通院することになりそうです。

 その夜おれととりふ丸は入籍をしました。彼女は正確な年齢がわからないので、健康診断で出た身体年齢三十五歳をそのまま年齢とし(おれとおない年になってしまった……)、誕生日はおれと出会ってケーキを腹いっぱい食べた日にしました。そんなのでいいんだろうか、もっと調べたほうがと思ったけど、とりふ丸がうれしそうだったので、いいんでしょう。

 店長不在のあいだにバイトがひとり辞め、おれが自己判断でとりふ丸を雇い、しかも彼女と結婚してしまったということを、どう報告しようかと考えながら棚を整理していたある日、黒ずみかけている本に出会いました。まだタイトルの下半分が読める――「……・ラ・プ・ス!!」

 『ドリームバイヤー・ト・ラ・プ・ス!!』

「店長だ」と、おれはわれしらずつぶやいていた。

 この小説は、地球出身の商人の男が、銀河一の愛されバイヤーになるまでの話でして。そぞろ神に憑かれた主人公は仕入れと称して店を空け、フラフラと遊びに出かけるようになり、行く先ざきの星で不思議な効能をもつ秘薬や、まだその価値を知られていない夢のような品じなに出会い、それらを好事家たちに売りさばいていく。

 どうして店長だと思ったんだろう。

 もしかしてこれは、彼、那須正義がいま生きつつある物語……?

 時間だ、といって家族用医療受給パスをエプロンのポケットに入れ、歯医者に行くとりふ丸の背中を見送ると、おれは『ドリームバイヤー・ト・ラ・プ・ス!!』の、黒ずみを免れている部分をレジの奥で読みはじめました。





この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

グウェントに課金します🚩🐿️🌲

🌏🕘かけぬけて地球時間🌏🕘
5

雪舟えま!

ひとくち小説集

甘くめでたい短篇・ショートショートです。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。