猫舌クッキ割れて三月


猫舌クッキ割れて三月



 雪のうえでは影が青くて、虹色にふちどられている。

 左手にひろがる雪の平原は、三月の陽光に表面が溶けているのが油をまいたように光っていた。右手には、黒い木立の奥から太陽が白いうにみたいに輝きながら、のんびりとしたリハビリ散歩についてきている。

 軽く暖かな防寒つなぎ、襟は汗をかくので胸までひらいていた。実家の母親から送られてきた手編みの帽子と手ぶくろ。雪がとけて水っぽくなっている部分があって、長靴をはいている。

 家を出て四十分ほど、まっすぐな歩道を、緑につき添われて歩きつづけていた。彼によれば二月までは、この歩道は除雪車が寄せていく雪で埋もれてしまっていて、歩行者は車道を歩いていたそう。交通量の多い道ではないものの、この先の温泉やとなり町へ抜ける車両が通る。そんなとき彼がさりげなく体を支えてくれる。自覚はなかったけど、車に追い越されるときに車側へよろめくことがあるらしい。秋の終わりから四か月ほど寝たきりに近い療養生活をしていて、全身の筋力が、ことに脚の筋肉が落ちてしまっていて、歩いていると思いのほかふらつくのだった。

 バス停が近づいてきた。

「緑」

「うん」

「疲れた」

 彼は「よし」とつぶやいて、リハビリ記録をつけているワルクマンヒューマンを見た。「四十六分、二.二三キロ。きのうより停留所ひとつぶん進んだ」

「のど乾いた」と、俺。

 緑は俺のと色ちがいの手ぶくろを脱いで、リュックからみかんをひとつ取りだし、皮を手裏剣ふうの形にむいてくれた。

 俺はみかんの房をもいで口にはこぶ。手がとまらなくてむさぼるように食べ終えてしまう。

「うまい」

「シーズンさいごだよ」

 緑は俺を見守り、もうひとつ? と首をかしげた。リュックからまた取りだしてむさむさと皮をむいてくれる。

 俺はなんだかおかしくて、「それあと何個出てくるの?」

「あと一個まで」眼鏡を指の背で押しあげ、彼は真顔でいった。

「うまいよ。緑もお食べ」

「おれはいいよ」

「お食べって」

「…………」

 ひと房を口もとにもっていくと、緑は眼鏡の奥の細い目をひきつらせ、しかし口もとはしまらないという複雑な表情をして食べた。バス停に向かってくる人がいて恥ずかしかったらしい。彼は気がゆるんでいるときは人前でキスしてきたりもするんだけど、いまは俺の介護人、保護者モードだったので調子が狂ったのかもしれない。

 おない年の保護者は、俺の手からみかんの皮をつかんでごみ袋に収め、「帰ろう」といった。そこから引きかえして歩きだす。

 国道と道道と町道、それぞれの除雪は管轄がちがうという話を、気がつくと緑がしていた。国道は国土建設交通省未来北海道開発局、道道は開発管理振興局など、彼が熱っぽくうれしそうにいう単語たちが俺の耳を左から右へ抜けていく。

「そして市町村道の担当は市町村。ここも三年まえの豪雪のときには予算がつきて町道の排雪が一部できなかったらしい。除雪は車道の雪をわきにどけるだけだけど、排雪はその道路わきにたまった雪山をけずってもってくのね、排雪専用ロータリーなんて特殊車両やバックホーを駆使して電柱や街路樹のすきまなんかも器用に。そこで出た雪をダンプトラックで雪堆積タウンや融雪フィールドに運んでいく」

 おしゃべりスイッチの入った緑は立て板に水で、いつ息継ぎしているのだろうと思うくらい早口でよくしゃべる。俺は、ごめんよく聞いてなかったとはとてもいえず、「もの知りだね」

「こっち来てから時間だけはあるから」と、得意そうにしている彼の可憐さ。「夜なんておまえのおむつ替えるほかにすることもねえし、ずっと調べものしてた」

「そのせつはどうも」

「楽しかった」

 冬の力の弱まりを感じさせる陽ざし。耳をすませばぴりぴりと、周囲の雪のいっせいに解ける音が聞こえるようだ。

 こうして天気のよい日は、じゃくじゃくと半透明のシャーベットのような雪どけ道を歩く。思いがけない深みや、踏みつぶせそうに見えていがいに硬い雪塊に足をとられながらよろよろ歩いているうち、どこと回路がつながるのだろう――子どものころに、弟にセーターの穴をひろげられてけんかになった記憶が脳裏をよぎって、いつのまにか笑っていた。かと思えば、転校生の家に遊びにいき、綺麗な絨毯のうえでふたりでポテトチップスを食べていたらそこの親に叱られ、ヒヤリとした感覚が胸によみがえる。つづいて、いまうちの食器洗い洗剤が切れかかっていることがとうとつに思い出されたりする。脈絡のあるような、ないような。

 こうした、心をよぎるものや気分の変化は自分でコントロールできるんだろうか。気分が変わらないように変わらないように……と、ひとつの場面に集中しながら歩いてみても、ある瞬間にふっとべつの想いにとらわれてゆくのは抑えようがなかった。

「なに考えてる」緑がいう。

「気分が変わるのってとめられないんだなーと」

「え?」

 いま歩きながら考えていたことを伝えると、緑はふに落ちない表情で、「どっちかつうとおれは、おなじことをずっと考えつづけてしまう」

「へえ」

「一日じゅうおまえのことばかりとか……」

「あー、ああ……」俺は返答に詰まって、「集中力あるんだな」

「集中力っていわねえよ。するつもりなくてもそうなるんだから」

 と、彼がそこまでいえば、俺はもうつづくせりふが予測できてしまった。

「おまえはならねえの? おれのことが頭から離れないって……」

「いや、ならな」

「この」緑はいきなり俺の両わき腹をもうれつにくすぐってきた。

「アハハハ」彼の手から逃れようと体をよじって、俺は歩道の雪山にたおれた。「病みあがりなのに」

「憎たらしい。撮ってやる」

 緑は笑いながらワルクマンヒューマンをかざして、雪に半身埋もれた俺を撮影した。

 雪原が終わり、森が近づいてくる。

 「鶴寝峡入口」というさびた標識の立つバス停――きのうはここで疲れてしまって引き返していた――に、さしかかる。

 ここは未来北海道の十勝地方北部にある未来鹿嘗町。俺、荻原楯(おぎはらたて)と相棒の兼古緑(かねこみどり)の家は、その北端の鶴寝という地区にある。この一帯は大雪山国立公園内ということになるらしく、俺たちの古い家いがいに建物はすくなくて、ご近所と呼べるのはうちの奥にある変電所くらいだ。さらに奥には鶴寝峡のきかとら温泉があり、俺は療養中、緑の運転するジープに乗せられて湯治に通っていた。

 原因不明のむくみで体が腫れあがり、怪物のような外見になった俺と、法律事務所勤めを辞めて一時てきに無職になっていた緑の暮らしは――いまもその延長なわけだけど、とても楽しかった。病気になってよかったとすら思えた。降る雪を見て子どもっぽいひとりごとをいったり、音楽を聴いて体を揺らしていたり、心細そうになにごとかささやきながら、俺の動かない体をさすったり。彼が無意識にこぼしつづける表情を、俺は樹木のようにただ眺めることができた。

 緑がきちょうめんに雪かきをした駐車スペース、雪遊びをした痕跡のある庭、そして白樺の木々にかこまれて建つ、青い屋根に白い壁のわが家が見えてきた。草色のジープも留守番をしていた。通りすぎざまに「ただいま馬」と声をかける。馬と呼ばれたジープはライトをきらっとさせて返事した。ただ停まっているのではなくて彼なりに見張りをしているのである。ちなみに、馬というのは俺たちの高校時代の担任のあだ名だ。

 表札には荻原、兼古とふたりの苗字が併記してある。玄関を入ると廊下にはくだものの段ボールが積まれていて、緑はみかんをざるにひと抱え取りだすと、光を放つだいだい色をした彼らを居間へとつれていった。

「風呂? シャワー?」風呂場からたずねる声がする。

「シャワー」

「きょうの楯さまはシャワーをご所望……」と、つぶやきながら緑が、風呂場から寝室に向かう。クローゼットをひらく音がする。

「きょうの楯さま。皇室番組みたい」

「おれにとってはそんな感じよ。ステーションのプリンス、異常事態の王、湯の花の皇帝」

 寝室から出てきた緑は、居間のビューティフルチェアーに横たわる俺の顔の前に着替えをおいた。そして肩をぽんとたたく。「はい、行ってこい」

 シャワーを浴びたら、パジャマを着るのもだるいほど眠くなった。着替えながらもうろうとして首が座らない俺の髪をドライヤーで乾かし、着替えを完了させ、ベッドへはこび、枕もとに水分補給用のみかんをころがしてくれた相棒は、彼もまた気が張っていたんだろう、となりにたおれこんで眠ってしまった。



 激痛で目が覚めたとき、あたりはすっかり暗かった。

「いて……」

 左足のつま先がぴんと伸びきり、ふくらはぎの中心が固くひきつって痛む。すごく痛いけど、そこだけまるで自分の体じゃないみたいだと感心もする。足をさすって、こういうときどうするんだっけと思っていると、頼りになる奴が目を覚ました。

「どうした」

「足がつった」

 緑が照明ボールを呼び、点ける。枕もとに黄色くやわらかな光が灯った。

「こむら返りか」

 半身を起こした彼はいつのまにか裸で、俺は笑ってしまう。彼は俺と同居を始めてから全裸で寝るようになった。「恋人と同衾するのになにか着る意味がわからない」というのがその理由らしいけど、俺はそういうロマンチックな文化で育っていないので、ふとんから真っ裸の人が出てくるとなんだかおかしい。

「また笑う」と、緑も笑いながら、ふとんをめくって俺の左すねに手をかけた。「こっちね」

 そして、ふくらはぎの真ん中あたりを押さえ、指先をつかんでゆっくりと足首を起こしてアキレス腱を伸ばす。足のうらも伸びる。呪いが解けたようにたちまち楽になった。俺は深く息をつく。

「なつかしい。むかし水泳の夜に足がつったりしたよ」

 全裸男は小学生のころ、スイミングスクールに通っていた。足を伸ばすとまた起こるから、と、彼は俺の左ひざを曲げて、ひざのうらにクッションを入れた。

「しかしおまえはなんでおれの裸で笑うの?」

「ふとんをむいたら裸の人が出てくるのが、そういうシステムみたいでおかしい」

「システム……」緑は眉根をよせて、ほんとうにわからないという表情をする。「おまえの笑いの琴線のありかが不明」

「まじめな顔して素っ裸なのがとぼけている」

「冬の山小屋で、遭難したふたりが裸で温めあうシーンを子どものころに漫画で読んで……」

「あったなそういうの」

「あこがれなんだよ」

 緑の『恋人ができたらやってみたいシリーズ』は、彼が幼少期からあこがれをつのらせてきた、古典てきともいえるほどにベタな、恋人同士のデートやラブシーン、家族の団らんシーンのコレクションなのだった。

「あれ片方が服着てちゃ台なしだって知ってた? 全裸同士のときにいちばん温かいって。人体が最高の熱源だって話だよ」

「都市伝説ならぬ山岳伝説だ」

「つぎの冬は大雪山登ってみねえ?」

「登らない」俺は即答した。「おまえのやってみたいシリーズにはずいぶんつきあってきたけど」

「じゃあいまここが、吹雪の山小屋って設定で」

「またこんど」

「けちが……」

 抗議するように、愛の裸大使は俺の首筋に歯を立てた。彼は自分の体を見おろし、「おれってセクシーとちがうの? おまえを愛するために生まれたこの体だよ?」

「緑はセクシーすぎ」

「うそだ」

「なんでうそ?」

「楯は世辞をいう」

「世辞? いつ?」

「いつもなにもおまえのファンのばあちゃんたちにさんざッぱらいってたじゃねえか――きょうもお綺麗ですね、お会いしたいと思ってました、ごいっしょできて光栄ですとかなんとか」

 未来東京にいたころ勤めていた葬儀社には、俺と茶を飲むためにやってくる高齢女性たちがいた。彼女たちはほんの五分か十分、斎の船で出動するまえの俺とおしゃべりをするために、おめかしをして、おみやげを買ってきてくれるのだった。

「いうかも」

「あっさり認めた」

「心にもないこといってるわけじゃない。じっさいいじらしくて可愛い人たちなんだよ。孫の好物だからって、俺にもおなじものを買ってきてくれるとか」

「でもそれいわれる側は。おまえをすきになっちゃうでしょ、綺麗だとか会いたかったとかいわれたら」

「せっかく遊びにきてくれたんだから気分よくして帰ってほしいし、もう生前葬が始まってるんだよ」

「ひでえ」

「なにがひでえ? 俺に会いたいとか、お菓子をあげたいとかいう彼女たちの気持ちを、生きてるうちに受けとめてあげることが供養になる。死後に読経でなぐさめるよりいい」

「おれも生前葬してほしい」

「いうと思った」

「おれも生きてるあいだに気持ちを受けとめてほしい」

 生前葬希望者は熱い両腕で俺を抱きしめる。

「楯楯大すきだ。おまえと楽しく暮らしたい、おれほんとにそれだけ。ほかになんにもないんだよ」

「うん」

「すきなんだよ」

 緑は俺の頬を、皮膚が引っぱられるほどはげしく吸い立てながらいった。

「おれがどれだけおまえをすきか、はじめて会ったときのことから聞く?」

 ここで「聞かない」を選択すると、とてもめんどうなことになる。

「聞こう」

 緑とは高校の二、三年がおなじクラスだった。出席番号が前後で、そのときおたがいを認識したのがさいしょだと思う。俺は一年からよくつるんでいた奴に加え、新しいクラスで仲よくなった連中と遊ぶようになり、彼はだれとも気があわないようでいつもひとりで行動していた。

 三年の秋に、俺は水ぼうそうにかかって学校を長く休み、学級委員だった緑が連絡係として俺の家にやってきた。それがきっかけで親しくなるのだけど、彼はこの時期の話をするのが異様にすきで、年に何度かはこってりと聞かされている――たとえば、俺の家で出された食事の感想。クラスメイトや教師の人物評、通学路の風景について。彼の家族のこと、乗っていたバイクのこと。

 隅田川の堤防で見たらくがきの内容だとか、彼は俺にくらべればずっとずっと細かいことを憶えているんだけど、それでも時どき、このあいだいっていたこととはちょっとちがうなと感じる。記憶の中からとくにクローズアップされるポイントもそのつどちがって、過去とは、緑に思い出されるたび、いまのバージョンのそれが新しく生まれるんだなあと思いながら聞いている。

 失われたものを何度でもフレッシュに再生する緑の心が、俺はいじらしくてならない。彼とは知りあって十年になるし、同居して二年がたった。毎日顔をあわせる相手にこんなにもすきだすきだといいつづけられるのは、彼の胸には、俺にたいする印象も毎瞬新しく生れているからなんだろう。

 高校時代の緑の家では、両親がいつ離婚をしてもおかしくない状態で――じっさい秒読みといえる段階で、彼は心の安定を俺や俺の家族の人びとに求めた。それまでクラスでもっとも疎遠なひとりだった彼が、坂を転げるように俺の中に飛びこんできて、これはどういうことなんだろうと思いながら、彼の願いの強さにあらがうことができず――それどころか、俺が彼をつれていきたいような、いままで人にたいして覚えたことのない気持ちになった。たぶんまわりからはまったくそうとわからない魔法に、ふたりでかかっていた。

「それまでどちらかといえば緑は俺に冷たい記憶だった」

「そうするしかなかったんだもの」

「気になる子にいじわるしちゃう」

「自己防衛反応で」

「むだなのに」

「この野郎」

 自己防衛野郎は俺の頬をたたくそぶりを見せ、俺は宙でその手をとらえてわちゃわちゃと押しあう。

「緑は可愛いな、おにぎりみたいだ」

 俺は彼の乱れた前髪を、手ぐしでいつもの七三分けに整える。水に張った薄氷がとけるみたいに彼はにやけた。「髪は海苔?」

「そうね。おにぎりベーシックな魅力」

「おにぎりベーシック」

「緑は俺のソウルフード」

「食べてくれよ……食べちゃってくれよもう……」

 俺は後ろ手に、サイドテーブルにおいていた端末をつかみ、カメラを彼の顔にむける。

「なに?」

「いい顔撮ってやろう」

 しかしカメラはずっとピントを調節しつづけるばかりで、なかなか撮影しない。モニターを確認して俺は噴きだす。「ふは」

「どうした」

「か、陽炎感知……」

 カメラは緑の顔から陽炎が出ていると判断して、ゆらめく焦点をいつまでも合わせようとしつづけているのだった。

「なんそれ」彼もクスクス笑って。

「おもしろすぎる」

 俺は手動シャッターを押して、すこしぼやけている彼の顔をカメラに収めた。緑のにやけ顔は光すら曲げる。



 このごろ鶴寝峡のきかとら温泉で、平日でも家族づれを見かけると思ったら、学校は春休みに入っていたのだった。緑と俺はリハビリ散歩ごの昼風呂のあと、未来鹿嘗町の中心部にある農協スーパーに買い物に向かった。

 ジープを降りると、ロードヒーティングを施してある駐車場の地面から湯気が出ていた。カメラに陽炎感知された緑の顔を思い出して笑う。息が白い。二月の寒さに逆もどりするだろうと天気予報はいっていた。きょうは朝がもっとも気温が高くて、昼をすぎてどんどん寒くなっている。

 顔から陽炎男のあとについて店内に入る。

 入口のくだもの売り場で彼はみかんに立ち寄り、皮の触感やヘタの大きさ、実の形なんかを吟味している。

「きょうは皮の浮いたのがおおい」と、なにもとらずに去る。

「ぶかぶかみかんに恋してくれたー、こんな私に恋してくれたー」中学のころにはやった「ぶかぶかみかんの恋」を歌いながら緑のあとについて行くと、彼は小さく笑って、「シュリンプの『千両みかん』を思い出す」と、いった。

 瞬風亭シュリンプは俺たちのすきな噺家で、未来浅草に住んでいたころ寄席を見にいっていた。またふたりで演芸ホールに出かけることなんてあるんだろうか。緑もいまおなじことを思ったのが、その背中から伝わってきた。

「きょうはカレー……菜の花はもうさいご? 春菊も」

 野菜売り場を歩きながら彼はぶつぶつといい、春掘りの長いもはまだですか? なんて店員に話しかける。未来東京でスーツを着ていたときから、ショッピングカートを押すすがたがみょうににあう彼なのだった。

 ふたりでスーパーに来ると、食材を選び終えたあと、申しあわせたように菓子売り場やテナントの洋菓子屋、和菓子屋に足が向く。

「なににしよう」

 緑は洋菓子屋「初雪製菓」の前で立ちどまる。空港のみやげもの売り場でも見かける、未来北海道銘菓のメーカーだ。

「猫舌クッキがいい」と、俺はラングドシャクッキーにホワイトチョコレートを挟んだ菓子を指す。「みやげでこれもらうとうれしかった」といって五十枚入りの大きな缶に手をかけると、緑は「節度をもちなさいよ」とたしなめて、二十枚入りの箱をとった。

 こんやは楽しくなりそうだ。「猫舌クッキ」と、俺が笑うと、「猫舌クッキ」と、緑も確信に満ちた微笑をかえした。

 店を出ると、買い物していたほんの十五分ほどのあいだにも、さらに気温がさがっている。

 緑は車の前に立って建物の二階をあおいだ。

「うえのテナント、その窓のところ、先月あいたばかりだと」

 俺はふりむいて、「へえ」

「どうかなと思って」

「なにが?」

「事務所出すのにさ」

「復帰するの」

「なにもしない日がつづくと不安になってくる」

「なにもしてなくない。ずっと俺の世話してくれてる」

「それはそうなんだけど」

「生きてるだけで生存してるで賞だよ」

 うん、はは、と、緑は笑った。「まあでもこの移住で貯金もけっこう使ってしまい。そろそろ稼ぎたい」

「緑のすきなように」

「そう、おれのすきなように。これまでとおなじようには生きられん」

 彼は噛みしめるようにつぶやき、運転席のシートに荷物をおいて俺を見た。

「すぐ帰りたい?」

「え?」

「すこし歩かねえ?」

「いいよ」

 農協の駐車場にもうしばらくとめさせてもらうことにして、俺と緑は歩きだす。

 未来鹿嘗小学校の前にさしかかる。校舎三階の教室の窓には、「祝卒業・未来に羽ばたこう」という貼り紙が残っている。校門から玄関までつづく並木はどれも葉を落として黒く眠り、あるいは冬囲いのままで、桜の卒業式のイメージにはほど遠い。

 緑はフェンス越しに雪の校庭をながめて、「時どき未来東京の夢をみる」といった。

「どんな」

「夢で仕事してる。会議で発表する資料に、なぜかおまえのやばいムービーが混ざっててパニックになるとか」

「緑……」

「ないよ、もちろんそれ現実じゃやってねえよ」

「おまえのワルクマンヒューマンで俺、そうとうなことになってるんでしょう?」

「仕事のもんとはぜってえ混じんねえから!」

「…………」俺はうたがいの表情で見つめてやる。「まあいいよ、たかが人生……」

 大丈夫だいじょうぶと彼は笑って、「雪かきみたいな単純労働もけっこう罠だ、回想モードにはまって抜け出せなくて。依頼人に理不尽に面罵されたのとか思い出して――あ、胃にくる……」

 緑はジャンパーのうえから腹を押さえる。

「みど君、思い出さなくていいんだよ」

「仕事じゃ素晴らしい人にもたくさん出会えたのにな。よく思い出すのはこいつほんとに人間かよって連中のことばっかなのはなんでだ」

「雪かきからもどってきたらこわい顔してることあるよ」

「顔に出てんの、やだな」

 空は灰色で、雲が山の稜線をとろりとかくしている。フェンスを離れて歩きだした緑に俺はついていく。彼の中では未来東京時代の回想がとまらない。

「おれが毎日禿げる思いして働いてんのに、おまえは毎晩キラキラした顔で帰ってきてさ、仕事のあとの一杯なんてうまそうに飲んで」

「はは」

「疲れきってるおれ見て、辞めていいんだよ、楽になっていいんだよってかんたんにいうのが、うれしさ三割くやしさ七割」

「七割」

「おれはおまえからみたら苦しむ必要のないことで苦しんで、ばかみてえなんだろ。おまえは仕事でもなんでもつらかったらやめりゃあいいって考えだから。じゃあおれがやってることって意味ねえのか、必要としてくれる人を助けたくてがんばって、それでつらいのって無意味なのか。おまえはあっさり辞めろっていうがおれがいま聞きたいのはそんな言葉じゃねえって、ますます意固地になってた」

 そう話すあいだ、緑は足もとの泥まじりの雪を見つめて、俺の顔を見なかった。

「おまえが正しいんだろうけど、いまおれの胸にあるこの気持ちを軽んじないでくれよって思ってた」

 雪のかたまりを蹴りけり緑はゆく。彼の横を歩いているうち、気になるものが見えてきた。車道と歩道をへだてて胸の高さの雪山がつづいているのだけど、俺たちの十メートルほど先の一部分だけ、雪が真っ黒になっている。かき氷にチョコレートソースでもかけたみたいに。

 なにも見えていないのか、緑はずんずん歩く。「楯みたいにいつもハッピーでいられりゃ最高だけど、じゃあハッピーじゃねえのって悪なのかよ、生きる価値ねえのかよって……」

 向こうから大型トラックが地響きをさせながら近づいてきていて、俺はとっさに緑のジャンパーの袖をつかむ。

「さがれ」

「えっ」

 俺は彼を引っぱって雪山の黒ずみから離れる。トラックはその部分を通りすぎるときに大量の泥を跳ねあげてゆき、真新しいチョコレートソースが氷を濡らした。

「おうわ」緑はへんな声を出す。

「車道に大きな水たまりがあるんだ」と、俺。

「…………」

 なにを話してたんだっけ――と、その目が一瞬遠くなり、思い出して、彼はばつがわるそうにうつむく。

「俺の言葉で緑がよけいに傷ついてたなんて知らなかった」

「おれが幼稚なの」

「緑の感情を軽んじたわけじゃなかった。もっと寄り添えたらよかった」

 ニットキャップの頭をなでてやると、彼は目をうるませて、その眼鏡は曇る。

「正論いったつもりじゃないんだけど、傷に塩をすりこむまねしたのかな」

「いや、結果てきに、おまえのいったとおりにして、いま幸せなわけだから……なのにすぎたことを思い出してぐちゃぐちゃいうのがわるい」

「わるくないよ、だって思い出しちゃうんだろ? 緑が味わうすべての感情に価値があるし愛しいと思ってたけど、伝わってなかったか」

 俺が笑うと、緑も鼻を赤くして笑った。

「未来東京のときの俺の態度で、引っかかってることはまだある?」と、俺。

「わからん。あるかもしれんけどいまは」と、緑は首を横に振る。

「思い出したらいえ」

 農協の駐車場まで引きかえす。俺はジープに乗るとすぐ「寒いな馬、暖かくして」といった。賢い馬は「二十二度に設定します」と答え、狭い車内に見えない繭が張るように暖まりだす。車の人工知能に名前をつけるとき、馬という名を提案したのは緑だった。彼の中では高校時代の担任は、彼と俺との縁を取りもった恩人ということになっている。車を馬と呼ぶのはなんかいいなと思い、俺も同意したのだった。保険会社の人には笑われたけど。

 菜の花カレー(菜の花増量)を食べ終えると、緑は部屋を暗くし、プライベートシアターふうに大きくしたモニターで未来北海道の自然番組を流し始めた。テーブルには紅茶と、そしてもちろん猫舌クッキがスタンバイ。俺は彼の背後でビューティフルチェアーに横たわる。

 こんやはちょっと本気を出しているストーブが、離れていても体の芯にしみこむ熱を放射していて心地よい。焼きいもはこんな気持ちで焼かれていくのだろうか。番組は、オカリナと電子楽器による宇宙てき郷愁をかきたてるBGMにのせて、オホーツク海に接岸する流氷のようすを映している。

 未来北海道の旅や自然の番組では、爽やかすぎて寂しいくらいの音楽が多用される。緑がこの手の番組がすきで、つきあいで俺も観ることになるけど、曲を聴きつづけていると手足の感覚がなくなって心だけがゼリーのようにただよい、よるべない気持ちになる。

 冷たそうな灰色の海のうえには、まじめな顔つきで浮かんでいる一羽のカモメ。「おまるみたい」と、俺はつぶやく。

「鳥がおまるみたいというか、そもそもおまるが鳥を模している」と、緑が画面の中のカモメさながらまじめに答えた。「それにおまるのモデルはカモメじゃなくて白鳥」

 青白い光にちかちか照らされる中で、俺は床に座る緑のうしろすがたを見ている。

 ほんとうにこのまま体が空気中に溶けても、彼は俺の意識を探してステーションにやってくるだろう。そして、いまの彼では来られないステーション上下に展開するさまざまな階へ、その想いの強さでいつか乗りこんでくるのかもしれない。彼の体外離脱技術が進歩してというよりは、彼の訴えの強さとしつこさに高次の意識体が折れて、しょうがないからそのようにしてやろうという感じで。

 そんな場面を思い浮かべて笑いながら、猫舌クッキを包装から出してひとくちかじったときだった。スイッチが切れたように――いや、入ったのか? 頭が一瞬真っ白になって、俺は思わずビューティフルチェアーから体を起こしかけた。

「え……」

 その感覚をどう説明すればいいんだろう。自分になにが起こったのかと、あたりを見まわし、胸のうえにあった手をモニターの光にかざしてみた。見なれた室内と見なれた形の自分の指があるばかり――だけど、なにかが数秒まえと決定てきにちがっていた。

 そうだったのか、と、俺は口の中だけでつぶやいた。

 そうだったのか、そうだったのか。

 生まれてこのかた無数に抱いてきた問い――どうして自分はこんな体質に生まれたんだろう? どうして自分がこんな目に遭うんだろう? どうして自分はこの人の気持ちに応えられないんだろう? どうして自分は未来北海道に来てしまったんだろう? どうして、どうして――そんな、大いなるものに向かって問いかけてきたことの、答えがきゅうにわかった。あらゆる現象の理由は、この世界や宇宙を作ったおおもとの生命がそれを望んだということ以外にない。それがすべて。

 いまや俺はあまりにもシンプルな法則で動く世界にいて、はじめての感覚にしずかに感動していた。緑の背中とモニターを流れる氷、未来東京からもってきたりこの地で新しく買い足したりした家具たち、テーブルのうえの銘菓の箱。この視界に入っているものたちは、宇宙始まってからのすべての流れの結果としてここにそろっている。それは奇跡だった。

「可愛い……」そうつぶやく緑の頭の向こうには、氷のうえに寝そべるゴマフアザラシ。

 ストーブの暖かさ。ビューティフルチェアーが申しぶんない快適さで体を支え、目の前で彼がお気に入りの番組を見ているおだやかな空気の中に、俺の意識は溶けていた。

「ことしはほとんど終わってるのか……」彼はぼそっとつぶやき、ふり向いていう。「楯、来年は流氷観に行こう」

「…………」

「行こう? 興味ない?」

 俺はこのときなにも考えていなくて――考えられなくて、緑のいうことの意味はわかるのだけど、すぐには言葉を返せなかった。

「おーい寝てるの? ほんと目え離すとすぐ寝る、まったくおまえは寝てるか美しいかのどっちかだな」と、われながらうまいことをいったぞというように彼は小鼻をふくらませたあと、「寝顔もきれいだよ」と、いいそえた。

 言葉は出ないけど、緑のいっていることはすべて理解して、俺は笑った。

「笑った。なんだ起きてるの。寝るならベッドに行きましょう」

 緑はモニターを消し、ストーブを消火し、テーブルのうえを片づける。彼の腕がワイパーのようにすいすいと動いて、台ふきんがテーブルを行き来するのがおもしろくて目で追ってしまう。一日に何度となく見てきたはずの彼の動作が、いまはじめて目にするものに感じられたのだった。

 彼は俺をビューティフルチェアーから起こして寝室へつれてゆく。すべてが満たされて言葉のいらない感覚がつづいていて、俺はそれを味わいながらのろのろと着替えた。彼が脱ぎっぷりよくいつものようにすっぽんぽんになるのでまた笑った。

「なんでさっきからずっと、なんもいわんで笑ってるの?」

 俺は首を横に振って笑った。体じゅうの細胞がくすぐったくて、ひとりでに笑顔になり笑い声が出てしまう。

「どうしたんだろう楯は」緑もつられるようにすこし笑う。

 ふとんのしたで抱きあっていると、いつのまにか静寂に包まれている。

「しずかだ」と、緑。

「しずか」と、俺はやっといった。まるで数週間ぶりに言葉がもどってきたかのような新鮮さだった。

「雪かな」

「降ってるかも」

「雪って消音効果がすごい。雪降るようになってからごみカーの音楽が聞こえねえ」

 このあたりのごみ収集車は、平成歌謡のオルゴール曲を流しながらやってくる。

「庭に積もってる雪も音を吸う……」といった、おそらくその口の形のままに息を大きくいちど吸い、緑はそのままなにもいわなくなった。息を引きとるとはこんな感じかしらと思うようなおだやかな寝入りだった。

 俺は彼の頭をなでつつ、照明ボールの明かりを落とす。

 遠くでカーテンをひらく音がして目覚めた。

 緑のいないベッドを抜け出してゆくと、居間の、カーテンを全開にした窓の前で彼が固まったように立っているのが見えた。俺はまっすぐキッチンに向かう。

 新しい水をくんだやかんを火にかけると、「おはよう」と、居間から彼がいった。

「おはよう」

「見てあれ、除雪がうちの前にごっそりおいてった」

 除雪車は車道を使えるようにスペースをあけるだけの役目で、通過ごの沿道には雪が残されてしまう。

「三月にこんなに降るとは」

「積もったね」キッチンの窓からも、十センチはかさを増した雪が見える。

「雪をやらんと町にも出れんー」

 緑のぼやきを聞きながら湯がわくのを待つ。さいきんうちでは、雪かきをすることを雪をやるとか雪をするとかいっていた。

「みど、白湯は」

「いただこう」

 ふたりでならんで、窓を眺めながら白湯をすする。

 緑はマグに唇をつけてつぶやく。「はやく手つづきせんと」

「え?」

「事務所。この町じゃいちばんいい場所だし、押さえとくだけでも」

 彼は防寒つなぎの上下を着て、外に出ていった。

 晴れた日は散歩をし、雪が降ったら雪かきをする。俺と緑の三月は、彼いわく「こわいくらいなにも起こらない」日々だ。ものごころついてからずっと、つねに目標を立ててそれに向けて行動する習性のあった彼は、変わりばえのしない毎日が落ちつかないようで、「はやくあれをしなくちゃ」と、よく口にする。

 俺も準備をして外に出ていく。玄関フードの前に立って空を見あげると、すきまなくおおう灰色の雲からその分身が周囲に降りつづけている。水分のおおい重たい雪で、これは帽子に積もる奴。頭を振っても落ちなくて、手で払うと毛糸の編み目にしみこんで濡れてしまう奴。こまった春の雪。この冬雪質の自由研究をしていた緑がいっていたとおりだ。

 ジープに積もった雪をブラシで落としながら、緑が声を張って得意げになにかいっている。俺は吸いよせられるように長靴で庭のまんなかまで進む。彼は雪をショベルですくっては庭に放りあげて、俺はそれをパンチで砕いて遊んだ。

 彼はじれったそうにいう。「ねえ、わかるかって」

「え?」

「聞いてないんかい」

「ごめん」

「ショベルとスコップのちがいだよ」

「それがショベルじゃないの?」

「いや、これはスコップ。なで肩がスコップ。ショベルは肩が角ばってて足をかけて押せるほう」

「へえ」

 俺にたいせつなことを教えることができて緑は満足し、雪かきに専念し始める。俺は彼が放ってよこす雪の届かない、庭の奥までいって雪のうえに倒れた。

 いま・いま・いま・いま……というように、顔に雪の粒がつぎつぎに落ちてくる。目に水が入って、手ぶくろの甲でぬぐう。

 いま・いま・いま・いま――

 いま・いま・いま・いま――

 わけのわからないうれしさがこみあげて、俺は声を出して笑った。

 未来浅草で生れて、楯と名づけられて育ち、だれを愛しだれに愛され、どんなふうに働いてどんな暮らしをしてきたか。俺が自分自身だと思っていたイメージや、自分の歴史だと思っていたものが、周囲の雪の中へ溶けだしてしまう。すべてに溶けて自分が不在になる感覚は、ステーションの上階などでは味わうこともできたけど、この現実で起こるのははじめてだった。どこまでが俺でどこからが俺じゃないとか、そういう境界が、もう視野のどこにも見つからない。たとえていうならいまの俺は、未来北海道の三月としかいいようのないものだった。

 それは、そこにいて歌いながら雪かきしている緑もそう。彼は自分が不和な両親のもとに生れ育ち、高校で俺に恋をして、愛と正しさを求めて社会に出て、努力や時間の自己投資のすえ弁護士という職につき、俺と再会して結ばれたと思っている――そんな自分の歴史イメージでぱんぱんかもしれないけど、そんな彼もただ、未来北海道の三月でしかないのだ。

 幼いころから病気がちで幽体離脱をしやすい体質になったとか、両親が不仲だったから愛のある家庭を求めたとか――。こんなにもおしみなくすべてが目の前にあるし、これまでだってずっとあったのに、自分にとって意味があると思いたいできごとだけを任意につなげた物語――因果関係の星座を作りあげていた。それはいつしか自分の骨格であるかように大切になりすぎて、それがなければ生きていけなくて、それが自分を動かしているかのように錯覚していた。人が作られたのは生命がそれを望んだから、ただそれだけなのに、いつのまにそれ以上の生きる意味や理由や目的をほしがるようになったんだろう。

 俺は自分で思っていたようなものではなくて、荻原楯なんかではなくて、降る雪を顔に受けている、ただそれだけのなにかだ。そして緑も、この世界のだれもが、人から思われたり自分で認めているようなものではない、いまそこでそうあるだけのものだ。

 正気をなくしたわけじゃないと思うけど――自信がなくて俺はにやにやしてしまう。人から見れば俺は、荻原楯というひとつづきの人格として認識されることはわかるし、これからもそう呼ばれるだろう。俺も返事をするだろう。でもそれはそれとして、俺はそういうものじゃないということが、とうとつに明らかになってしまった。

 俺をこれまで形作って動かしてきたのは、俺自身の努力でも意思でもなんでもなかった。俺は自分の胸をよぎる記憶や感情すらコントロールできないし、自分がなにを愛しなにを愛せないか、いつだって選択の余地もない。かつて俺に向けられた好意に、応えてあげられたらどんなにいいだろうと思ったことがある。愛してなかったわけじゃない、愛していたけど、その人の望む愛しかたではなかった。どんなに近づいても俺からその人に触れることはできず、動こうとしない体を自分ではどうにもできないのだった。俺は俺の主人なんかじゃなかった。俺をそうさせているのは天体の運行や季節の流れやこの世のいっさいを動かしているその力、生命なのだから。それは俺が因果律の中でこうなるだろうと予測する未来のイメージなんかはおかまいなしに、俺をなるようにならせていくんだろう。

 未来の失敗をおそれ、過去を思い出しては苦しむ緑に、なにも心配することはないとよくいい聞かせてきた。それは、俺みたいに病弱で親が神仏にすがって育てた子どもでさえ、寿命がくるまでは死のうとしたって死なないことが体感としてわかっていたし、ステーションやその上階を旅するうちに、魂は何度も生まれながら学ぶことをくり返していることを知り、肉体を失ったらつぎへ行くだけでなにも問題はないとわかっていたからだった。

 いま感じている豊かな力は、それらの経験や知識からくるものともまたちがった。生命は空気のようにすでにすきまなくこの世をおおいつくしていて、目に映るものすべてがそうなのだから探すこともできない――目の前に見えているマグカップを、探すことはできないみたいに。心配というのはいつも、自分いがいのものにかこまれる中で自分を維持できるかが心配なのであって、自分が溶けて消えてしまうと維持する対象もまた消え、心配のしようもない。

 いま俺が味わっているこの感覚を、緑にわかるように説明できる自信はまったくなかった。でも、なにも心配していない俺がそばにいることで、心配性な彼の緊張がほぐれることはあるかもしれない。じっさい未来北海道でふたりきりになってからの彼は、顔から陽炎が出ていることがおおい。

「きょうの楯さまは手伝ってくれねえ」

 言葉とはうらはらに、跳ねるように緑がやってくる。

 彼は車のあたりを指さしてなにかいう。見ろ、きれいになっただろ、がんばっただろというようなことをいっているのが、誇らしげな語調から伝わってくる。

「なあおれいま雪やってて思ったけど、事務所はさ、いまだってひらめいたとき契約に行くことにした。だれかに取られんじゃねえかってあせってた」

 俺はたぶん微笑していた。彼は賛同を得たと思ったのか、ほっとしたように俺のかたえに膝をつく。帽子をいちど脱いで雪を払い落とし、白い息の中でかぶりなおす。

「な、それがいいよな」

「…………」

「先に取られたら、そのときはそのときで、縁がなかったってことで」

 農協スーパー二階の物件によほど心ひかれているらしい、彼の横顔を見あげる。

「…………」

「ね?」

「…………」

「きょうの楯さまはどうしてしゃべってくんねえの? 人の話聞いてんだか聞いてねえんだか」

「それでいいと思う」俺は雪の入ってきた目をこする。「それがいいよ」

 うん、といって緑は正座したひざのあいだに両手を入れてあたりを眺め、「まあよく降るわ」とつぶやいた。庭の木々は細い枝にまでびっしりと雪の睫毛をつけて、みんな目を伏せていた。

「ていうかこんなとこに寝ちゃ冷えんだろ。もう終わったよ。入ろう」

「雪が降ってるのかな、俺が昇ってるのかな」

「え?」

「こんなところまで来たんだなー緑は」

「こんなところ?」彼は俺の真意をはかりかねるように、「……未来北海道のこと? いまさら」

「俺のいるところ」

 俺は胸にわいてきた気持ちをそのまま声にのせていた。

「なんだろうこれ、愛しいな。おまえこんなきれいな顔してたっけ」

「……夜からちょっとおかしいね。熱ある?」

 俺はどうしてか緑の顔をもっとよく見たくて、どうしてかそうしたくて、手ぶくろを脱いで彼の頬にふれた。皮膚の表面の冷たさ、そのすぐしたに迫る熱い血。そしてまた、どうしてかそうしたくて、寝たままで緑の首に腕をからめて抱きよせた。この宇宙始まっていらいおなじものの存在しない、ただひとりの緑は信じがたいほど美しかった。彼はこの状況を飲みこめず、でもどこかわくわくしている表情で俺と見つめあっている。神秘としかいいようのない力でいま生かされているその黒い小さな瞳。

 星を動かし波を起こし花を咲かせ雪を降らす力とおなじ力が、生まれてこのかた俺たちを動かしている。俺たちの心が変わるのも体が動いてしまうのも、俺たちに起きることも起こらないこともすべて生命がそうあるように望むから。どうしようもないんだよ、それって素晴らしいことだと思わないか緑。

 厚い黒髪のしたでは眼鏡のレンズに水滴が。

「緑、ふたりで春になろう」

 俺と緑は三月の水っぽい雪を浴びながら、ずっと抱きあっていた。



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猫舌クッキ割れて三月

雪舟えま!

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地球滞在を楽しみます~💗🤗💗

🦐🦐🦐わーいわーい🦐🦐🦐
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雪舟えま!

ひとくち小説集

甘くめでたい短篇・ショートショートです。

コメント3件

皆さんありがとう〜!!
いま、読み終えてとても夢心地です。購入させていただきました。大切なものがまた一つ増えました!笑
ありがとうございます! 彼らのシリーズはちまちまとたくさんありますので、長く楽しんでいただけると思います!
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