しずえと岸朗2016



しずえと岸朗2016



 しずえ。小さな主婦。

 身長も、行動範囲も、使ってる茶碗も。

 いろんなものが小さい。きげんがいいときの夫に「ちび子」と呼ばれ暮らす。


 朝、パン工場に出かける夫の岸朗を見送る。パジャマはキッズ用「150」。デザインによっては「140」でもいける。冬はニットのアームカバーをしてたけど、けさの陽気ならもういらないかもしれない。

「いーってらっしゃいいいー」

 歌いながら、両手をグーパーして元気よく岸朗を見送ると、しずえはふたたびベッドにもぐりこんだ。まだ体温ののこる寝具にばふっと包まれるとき、至福感にサーッと鳥肌がさざめく。いまのわたしをゆるしてくれたら、ほかになんにもいりません。

 しずえは一日十五時間くらい寝る。

 睡眠は、十二歳からしずえの趣味で、その趣味は実益をかねた。

 苦しいことがあって、眠ってるうちに解決したらいいのにと願う。そんな甘っちょろいこといちども起こらなければよかったのに、困ったことにじっさいに、眠ってやりすごせてしまったことが人生でいくつかあり、そうなるともう、やりすごすための眠りを眠ることもある。

 十代のとき何度か病院に連れてゆかれたが、しずえの場合はとにかく家で寝まくるだけで、学校で居眠りするわけでもなく、家で勉強しないにもかかわらず成績も中ほどを保って、生活上の支障もこれといってないのなら治療のしようもない、病気ではないと診断されていた。

 病院に連れていったのは、継母の、のり代。

「生活に支障ないったって、家に帰ったら寝てばかりでお手伝いもぜんぜんしないし」

 しずえはのり代が医者に訴えるのを横で聞きながら、

(ようするにわたしを、ぐうたらがかかる病気だっていいたいんだ)

 と、病院名の入った茶色いスリッパの、ビニールはがれ部分をじっと見おろしていた。

 医者はぴしゃりと、

「お嬢さんの場合はたしかにロングスリーパーとは呼べそうです。内気で繊細なタイプの女性に見られます。思春期に生活が大きく変わったり強いストレスがあると、現実を拒否するように睡眠が長くなるということは、あるかもしれませんね。これは私の個人的な考えですが」

 のり代は、なにかいいかけてごにょごにょと口ごもった。

「傾向としては、しずえさんくらいの年ごろに長時間睡眠が始まると、一生つづくことがおおいとされてます。そんなことになったらほんとに困るでしょ。いまは眠らせないようにするより、環境をととのえて心の負荷を軽くしてあげることが先だと思いますね」

 寝ることを忘れていれば起きていられたから、岸朗とのデートや旅行ではふつうの恋人同士のようにすごせた。ふたりの時間は楽しくて、目はずっとはっきりひらいていられる。そして会わない日に有休をとり、一日じゅう眠ったりして、どこかで睡眠時間の埋めあわせをした。

 あるとき、勇気を出して長時間睡眠のことを打ちあけた。岸朗の態度は変わらなかった。

「ちび子が安心して寝てられるように、おれの奥さんになったらいいよ」

 二十五歳の誕生日に、岸朗がそんな言葉をくれた。

「おれがんばるからね。おれがいちばんうれしいのは、ちび子が幸せそうにしてることだから」

 やせっぽちで背ばかりひょろりと高い岸朗が、そのときとても頼もしくみ見えた。

 友だちに岸朗のことをいうとき、照れくささからつい「なんか、もやしっ子って感じのひとで」と口走っていたが、その日からそういうのをきっぱりやめた。

 ◎朝、岸朗に弁当をつくって、送りだす。

 ◎夕方、岸朗が帰ってくるまえには起きて夕食をつくり、待ってる。

 妻として、このふたつだけは守ろう、と、しずえは心に決めて結婚した。

 主婦二年めにして、四十点くらい。

 ほうっておけば岸朗が仕事から帰る時間まで眠ってしまう。夕飯がまにあわず、あわてて冷凍うどんをゆがくこともよくある。そのときはヒヤヒヤして(これからは起きてちゃんとしとこう)と思うのに、また寝てしまう。

 いつ離婚されてもおかしくないな、と、壁のつる草もようを見ながら思う。



「わたし、もっかい病院行ってみようかな」

 夕食のあと、しずえは病院の資料をそっとテーブルに出してみた。精神科、神経科、心療内科、睡眠外来……睡眠専門クリニック。

「むかし行って病気じゃないっていわれてるんだろ?」

 濃いグリーンの分厚いバスタオルで、伸びた天然パーマの髪をがしゃがしゃ拭きながら岸朗はいう。

「しずえにとって、眠りすぎるのって治したいもの? 眠るのすきだっていってたよね」

「うん、すごくすき。眠るのすごくすき」

「じゃ、問題ないじゃない」

 しずえはうつむき、「なんか、人生にちゃんと参加してない気が」

 岸朗は笑った。

「ちび子が不安なら、行ってもいいさ」

 岸朗は鷹揚にいい、缶ビールをびびびと飲む。「でも」と、しずえはいいかけた言葉を飲む。でも、岸朗あなたはどう思ってるの?

 恋人同士だったころは、会えるのはハレの時間で、結婚してからは岸朗がいることは日常になってしまい、眠りに歯止めがかけられなくなっていた。セックスも、結婚してからほとんどなくなった。

 この一年ほど、岸朗の携帯電話に見たことのない新しいストラップがついてたり、つきあい始めたころにしずえがプレゼントした革の定期入れが、いつのまにかべつの新しいものになってたりした。岸朗は、職場の人にもらったんだよ、というようなことをいった気がする。

 毎晩きっちり決まった時間に帰ってくるけど、わたしが寝てるまに、いくらでもほかの女の人と会えるんだ。寝てばかりの妻じゃなく、岸朗の話を聞き、岸朗のために時間をかけた料理をつくり、岸朗の求めにこたえられる女の人と。

 だいたい岸朗は、いったいわたしのどこがすきなんだろう? なぜいちども、眠りすぎることをとがめないの?

 岸朗は休みの日、ほとんど外に出ない。ときどきしずえが目覚めてとなりの部屋を見にいくと、岸朗は散らかった中でテレビのボリュームを小さくしてゲームしている。その背中を見て、安心するしずえがいる。



 ある夜、岸朗は帰らなかった。

 正確にいうと、しずえが起きていられる時間に帰らなかった。

 ついに浮気された、ついに寝とられた。

 ああ、こうなるんだったら、なにがどうしたって起きているべきだった。家のことちゃんとやる。完璧じゃなくても、がんばるすがたを見せるだけでもちがったはずなのに。

 人はよく、「不安で眠れない」などという。しずえは、不安なときは起きていることができない。不安はしずえの眠りをいっそう強く長くする。

 いつのまにか眠って真夜中、しずえは目をさました。居間のソファーで寝ていたはずが、ベッドにいた。となりで岸朗が寝息を立てている。

「帰ってたんだね」

 しずえは岸朗の髪のにおいをかいだ。きっちり一日風呂に入らなかった日のにおいがした。これにより、女とは会わなかったらしいということと、帰宅して風呂に入れないほど疲れていたらしいというふたつの情報を得る。

 とりあえずほっとする、が、いえない用事じゃないならきちんと妻に告げておくべきじゃないか。のんきな寝顔を見ているとなんだか腹が立ってきた。

「岸朗ッ! 岸朗ッ! キシロー!!」

 しずえは枕で岸朗の頭をたたいた。

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