草野ずん子 と 津児

草野ずん子 と 津児


「ひじ、穴あいてるよ」

 津児(つじ)にいわれるまま、カーディガンの左ひじに触れると、ぼろりと大きく毛糸がほつれていた。

 白いニットの穴からのぞく、中に着ている赤いシャツが、ご飯に埋まった梅干しみたいだった。津児はペンを指先でくるくる回して、笑って、「つぎを当てないとね」

 わたしはひじの穴をいじり、「よりによって赤……」

「可愛いかわいい」と、津児は目を細めて、「君みたいな子めずらしいよね」

「そうですか」

「なかなかいないよ、穴あいた服でここ来る子」

 わたしは唇を噛みしめる。

 津児という男にはときどき馬鹿にされている気がする。でも、子どものころ通っていた、わたしの純子という名をいつも「ずん子さん、ずん子さん」と呼んで笑わせてくれた、大すきだった歯医者の先生に似ている。

 事務所の高い天井を風がめぐっている。フロアでは、いちばん近い席でも声が届かないだけの間隔をしっかりととってテーブルが配置されていた。向かいあって話している二人組はどれも、わたしと津児とおなじようにオペレーターとその上司だ。

 津児は、さて、といって一枚の指示書をファイルからつるりと引き出した。

「つぎのお仕事はこれ」

 差し出された冊子を手もとに寄せて見る。指示書は未開封であることをしめすフィルムでおおわれている。

 表紙の、右上にならんだチェックボックスのうち、「調査」「即納」の枠にぴん・ぴんとチェックがついているのがフィルム越しに見える。そして、自分の名前が赤い字で書かれているのを。

「指名ですか」

「おめでとう。気に入られたらしいよ」

 津児はやわらかな音を立てて拍手した。わたしはじっと指示書の表紙を見つめる。

「どうしたの」

「この人、またすきな人ができたんですか?」

「あんまあ、そうね」

「すぐにうちを頼るんですね」

「お得意さまだよ」

「この人のためにならない気がするんです」

「うーん……」津児は困ったようにあごひげをかきながら、「それはね、僕らが決めることではない」

「でもね津児さん、この人が本気で望んで努力すれば運命なんていくらでも変えられるのにって、思うんです」

「そんなこといったら、うちはつぶれちゃう」

 ちょっとめんどうくさそうな表情。でもこの依頼人についてはまえまえから感じていたことだし、さいごまでいわせてほしい。

「恋を、楽して叶えることに加担するのはいやなんです」

「どんな手を使ってでも手に入れたい相手というのはいるのさ」

「この人の依頼から、そこまで追いこまれた心情は見えてこないし」

「草野、辞めてもかまわないんだよ」

 しっとりと刃物を下ろすように津児はいった。

「ねえ、君だったらこれから指名も増えてくる。穴あきの服なんてもう着ることないさ。それに」

 津児は咳払いをひとつして、いおうかいうまいか迷うようすを見せたあと、いった。

「いわせてもらえば、君に恋のなにがわかってるんだっていう」


 いつものスーパーでグリースを一週間ぶん買って帰る。長いマフラーを耳が隠れるくらい高く巻いている。すこしずつ日が長くなって、風もぬるくなってきているけど、夜はまだ真冬の格好でちょうどいい。

 空には、風に揺れる電線のあいだに三日月が浮かんでいた。見あげると耳たぶをぴりりと引っぱられて、手をやる。ピアスの金具がマフラーの毛をしょっちゅう噛むのだった。耳にあてがった手のひらの中で、ごうごうと風の音がした。

 仕事はけっきょく引き受けた。あの気まずいやりとりのあとわたしたちは二人ともだまりこみ、やがて津児が口をひらいて「やる? やらない?」といった。わたしの頭には津児にいわれたことがぐるぐる回っていて、返事もできずにコーヒーの紙コップを見つめて固まっていると、津児は「やる」という意味にかってに解釈して、書類の表紙をめくって依頼内容の詳細を示した。書類をおおっていたフィルムが、すらっと乾いた音を立てて消えた。

 君に恋のなにがわかってるんだっていう

 君に恋のなにがわかってるんだっていう

 蛤荘の二階のわが家を見あげると、明かりがついていた。ミッキーが先に帰っている。

 ぼろぼろに錆びて、いつ抜け落ちるか賭けのような気分でいつものぼりおりしている階段をきょうもぶじにのぼると、二階に五つならぶドアの真ん中がぱくっとあいて、ミッキーが顔を出した。

「ずんちゃん」

「はーいただいま」

「待ってたよ」

 階段をのぼりきったわたしをミッキーは笑顔で出迎える。

 彼女はうすい紫のパジャマのうえに、パステルグリーンとピンクのしましまのカーディガンを羽織って。茶色のくりんくりんのロングヘアを首に巻きつけて。そして買いものぶくろの中を、おみやげを待っていた子どもみたいにのぞきこみ、「またこんな、ロウソクみたいなもの買って」

「夜食だよ、急ぎの仕事が入ったの」

「こんなのばっかり食べて、体おかしくするよ」

「おかしくなったっていいの」

「まーたーそんなー」

 ミッキーはほんとうに悲しそうな顔をする。

「うそうそごめんね、はいちょっと通してよ」

 靴同士をこすりあわせて脱ぎ、ミッキーのわきをすりぬけて狭い玄関にあがる。ミッキーからはシャンプーの香り。

 グリースをふくろごと冷蔵庫の中段につっこんで、コートを着たままで鍋からお椀に豚汁をよそった。流し台にお尻でもたれかかって豚汁をすする。

「おいしい?」

「うん。ミッキーの豚汁は最高」

「でしょう。コート脱いで、ちゃんと着替えてから食べたらもっとおいしいよ」

 ミッキーはわたしのコートを脱がせ、ハンガーにかけて鴨居につるす。となりの六畳間からパジャマをもってきてくれる。ほんといい奥さんになれるよこの子は、と思いながらわたしはされるがままでいる。

「きょうはどっちが先にブース使おっか?」

「そおねえ」わたしは冷蔵庫の中を、いいものはないかと探しながら、「ミッキー先で」

「いいの? 急ぎじゃないの?」

「うん。急ぎだけどまあ……二時間もやればピックアップはできるかな」

「二時間! さすがだね。ずんちゃん進化してない?」ミッキーは蛍光灯をあおいで、「ああ、あたしもずんちゃんみたいに才能あったらなあ」


 わたしとミッキーの仕事部屋は、たたみ一畳ぶんほどの真っ白な防音室。アパートの、四畳半の部屋の一角に作った。市から補助金をもらって。

 この独房めいた空間には、白い壁によせて椅子を一脚おいてあるきりで、ほかになにもない。椅子は、ミッキーが小学校入学時から使っているという、学習机とペアのピンクのビニール張りのものだ。背もたれの白猫のイラストがすりきれている。

 ブースは事務所にも十ほどあるけど、営業日はほぼ終日埋まっている。事務所のブースはなんだか落ちつかない。まえの使用者の香水のにおいが残っていたりするし、仕事を終えたあとは能力を全開にしていた頭を切り替え、ふつうの人になって電車に乗って家まで帰らなくちゃいけないし。

 わたしは、風呂あがりにパジャマで入れて、終わったらそのままふとんにもぐりこめばいい家のブースで、ほとんどの仕事をする。ミッキーの古い椅子がお尻になじんでやたらと座り心地がいい。ミッキーは、仕事は事務所ですませてプライベートとは区別したいみたいだけど、ノルマが終わらなくて月末は仕事をもち帰りがちだ。

 ミッキーが仕事を終えるころを見計らって風呂からあがる。ドライヤーに時間がかかるようになった。もう半年は美容室に行ってないよ。寝室をのぞくとミッキーがカバのぬいぐるみを抱いて寝ていた。

 ネックウォーマーをかぶり、ストールを羽織ってブースの椅子に腰をおろすと、壁のスイッチを押して天井のライトを消した。暗闇の中で、右肩と頭を壁にあずけて目をとじる。この姿勢でわたしは仕事をする。この世で起こるすべてのできごとを記録している異次元の倉庫に、想念の触手を伸ばす。

 わたしをリピート指名した、寝村たまき。

 いちど接触したことのある人生には、ふたたびつながりやすい。わたしがまえに触れた痕跡、においのようなものがついて、ゼロから探すよりはずっとかんたんだ。

 寝村たまきの人生コードは荒あらしい作業痕だらけだった。痛ましいと思う。整形手術をくり返してすっかりふしぜんになってしまった顔を見ているよう。

 オペレーターの中にはやっつけ仕事をした者もいたらしく、「いまの人生」から「希望する人生」につなげたあとの、捨てられた側の人生の断面がぼさぼさに毛羽立っていた。いくら本人から要らないとされた人生とはいえ、こんな断ち切られかたでは……どんなめちゃくちゃな最期だったろうと思うと、背筋が凍る。

 わたしは、倉庫の中から任意の人物の人生コードをピックアップしてもどってくる試験では、精度の高さと速さで、訓練校でいちばんの成績だった。どうしてそんなことができるのか自分でもよくわからないけど、その人物のすがたを強くイメージして、ぱっと目をひらいた瞬間に、視界の中にうずまく無数の人生コードからターゲットのコードを見つけてしまう。

 教官によれば、わたしは十年にひとりの逸材、この仕事のために生まれたような人間なんだという。

 クライアントの、いまのうだつのあがらない人生と、「こうなりたい」自分を謳歌している人生の両方のコードを倉庫から見つけだして、オペレーターに渡す。さいしょ、ピッカーとして入社したわたしの仕事はそこまでのはずだったのに、わたしときたら手先がやたら器用だった。それで、ひとりでピックアップから切断、接着、養生までこなせるスーパー新人として、こんなわざにまで手を染めることになった。

 なんといっても、コードを探すだけと実作業こみでは報酬がぜんぜんちがって──金額をちらつかされたらもう断れなかった。新しい服を買わなくなって……もう三年くらい?

 で、その、寝村たまきの新しい想い人は、いまをときめく人気歌手のクリャン・ティティ、だった。

「ありえねー!」

 昼に事務所で、自分が指示書の二ページめを見るなりそう叫んだことを、ブースの壁にもたれながら私は思い出していた。あのときはさすがに津児も、唇に「シー」と指をあてながらも同意というようにうなずいた。

「このひと、際限なく高望みになってく!」

「まあ……、んー、その……」

「いくらわたしだって見つけられません、寝村たまきとクリャン・ティティが結婚してる人生なんか。ファンでいるだけじゃどうしてだめなんだこの女は」

「だまれって」津児はきびしい表情で、わたしの額をこづいて、「クライアントのことは決して、決してそんなふうにいっちゃいけない」

「津児さんだっておかしいと思ってるんでしょ、皆がみんなこんな自分勝手なことばっかしていたら、人生っていったいなんなんですか。買い物のひとつだよ、って?」

「草野」

 津児はいまいましそうに低くうめいて、すごい目でにらんだ。フロアには十五組ほどのオペレーターとマネージャーがいたけど、どのテーブルでも楽しげに仕事の話を進めているように見えた。こんなに険悪なムードなのはわたしたちだけだった。

「草野、あのね」

「おかわりしよっと」

 わたしは紙コップをもってさっと席を立ち、テーブルに背を向けてドリンクサーバーのならぶカウンターへ歩いた。コップをコーヒーの受け口におく。予想していたよりもはやく、このときがきてしまったと思いながら。

 補助金をもらって増設したばかりの、アパートのブース――もったいないけど、ミッキーが使いつづければ、よし。

 田舎の親への仕送り――期待させちゃってもうしわけないし、わたしがこの先こんな高給の仕事に就けるはずもないけど、また職業訓練受けながらがんばると手紙のひとつも書けば、よし。

 コーヒーが七分目まで注がれたコップをつかんだとき、気持ちが決まった。

「わたし、この案件終わったら辞めます」

 ほんとはここでいますぐ辞めてしまいたい。けど、指示書を見てしまってから任務放棄すると莫大な違約金を取られてしまう。

「これでさいごにします」

「さいごもなにも、研修終わったばっかじゃねえか」

「すみませんでした、研修のうちに気づかなくて。自分にはとことん向いてないってことが」

「また穴あきカーディガンの世界に舞いもどるのか」

「これをきっちり仕上げますから。そしたら、カーディガンなんか千枚だって買ってやる」

 寝村たまきの金でな! と、いいそうになるのをやっとこらえた。津児はもういやになったようにそっぽを向いて、「おー買え買え」

 ずっと津児は、わたしに手を焼いていたんだと思う。めんどうくさい新人の担当になっちまったと悔いてたと思う。

 売り言葉に買い言葉で、これがわたしの短いオペレーター歴さいごの仕事になった。


 寝村たまきからの依頼は、研修中に二本、研修あけのひとり立ち初仕事に一本と、つづけて三本わたしが担当していた。ぐうぜんではなく津児が仕組んだことだろう。わたしの実力を試すために。

 その放埒な依頼内容から、寝村たまきはうちと長いつきあいなのかと思ったら、わたしが入社するすこしまえにはじめての依頼があったばかりだったという。

 そのときの担当者は中堅のオペレーターだったけど、成果を出せなかったらしい。ほかのベテランたちはすでに固定客がついていて、新たに寝村の案件を受け入れる余裕はなかった。そこであてがわれたのが、鳴りもの入りのわたし──というふうなことじゃないかなあ――それにしても、仮定の話でも、自分のことを期待の新人と呼ばわるのはばかみたいだ。


 寝村たまきとクリャン・ティティが出会い、恋におち、結婚しているという人生を見つけるのは、わかっていたことだけどやはり難航した。

 この宇宙には倉庫のような場所があり、そこにはありとあらゆるバージョンの地球が用意されていて、人が想像しうるすべての経験ができる、ことに、理論上ではなっている。

 これはわたしが小学校を卒業するくらいのころにいわれ始めた理論で、それからいくつかの学校で、頭のやわらかい十代前半までの子どもを中心に、ほかの地球での人生コードのありかを五感のいずれかで感じとる能力を開発する、瞑想メソッドが政府主導で作られた。

 メソッドが正式に教科に組みこまれたころには、私はもうハイティーンで、成人ご、職業訓練校に入ってはじめてその手の教育を受けた。むかしならオカルトとか魔術のように思われていた技術が、いつしか国をあげての産業のひとつになりつつあることにおどろきながら。

 人に欲望があるかぎり、よりよい人生に移りたいという需要は減らない。うちの事務所をはじめ、たくさんの人が人生コード編集ビジネスでご飯を食べている。いまでは土を耕して野菜を育てるのとおなじくらい、とてもたしかで手堅い仕事だと思われて。

 理屈では、どんな人生にも乗り換えることができる。

 でもやはりいまの現実からの距離というものはあって、一般人が大スターと結ばれる人生コードは、すぐとなりにあったりはしない。寝村たまきが一般人とちがうのは、とんでもない大金持ちだということくらい。クリャン・ティティのパトロンや事務所の株主になったり、後援会パーティーを開催したりして、クリャン本人に近づく……という路線なら、探っていけるかもしれない。

「へえ、見つけられなかった」

 津児はわたしの顔をまじまじ見て、ほんとうにおどろいたようにいった。

「徹夜で探したんですけど……」

「まったく手ごたえなし?」

「寝村たまきが、芸能界に影響力をもつシナリオを探ってみたんですけど」

「…………」

 津児は腕を組み、だまりこむ。

 わたしはコーヒーをすすり、事務所をゆきかう人びと、テーブルで談笑する人びとを眺めた。これまでの人生で徹夜なんてほとんどしたことがなかったから、自分が睡眠不足にこんなに弱いと知らなかった。コードが見つからなくてしょっちゅう徹夜してるらしいミッキーは、すごいんだな……とぼんやり思う。頭がふわふわして一か所をじっと見ることができない。

「ほんとに、がんばってくれたみたいだね」

 めずらしく津児がいたわるようなことをいう。うわあ、気持ちわるい、とゆっくり思う。

「目のした、すごいクマ」

「いやなら見ないでください」

「コーヒーもっと飲む?」

「いいです。飲みすぎて胃がおかしいんで」

「ちょっと待ってね」

 津児が立ちあがる。背を向けて二、三歩歩きだしたと思ったら、ふり向いて、「そこにいるんだよ」

「いますよそりゃあ」

 上司にたいして、こんなにもぞんざいな口調でものがいえるんだな。立ちあがる気力もない。

 ふと、はっきりした香りが鼻先をかすめたと思ったら、テーブルの脇をさっそうと、バニラ色のスーツの同僚が通りすぎた。香水の、お菓子みたいな甘い香り。

 あの子はどんな仕事をもらってるんだろう。

 オペレーター同士はクライアント名や案件について話題にしてはならず、わたしとミッキーも、おたがいがどんな仕事を抱えているか知らない。

 わたしは体をひねり、いすの背もたれをわきで挟んで、背後に広がる空間を眺めた。光さすエントランスホール。ゆきかう人びとの影が、ぴかぴかの真珠色の床のうえでひゅっ、ひゅっとすれちがい、走る人の影が流れ星のように横切った。笑い声が聞こえる。皆おなじ仕事をしていて幸福そうなのに……わたしの心は狭いんだろうか。

 寝村たまきの欲望なんて、可愛いものなのかもしれない。

 もっと傲慢な要求をしてきたり、破滅てきな世界を望んでいるクライアントだっているだろう。絶対いる。それを引き受けるかどうかは別として(専門に請け負う闇会社もあるらしいし)。

 津児からみれば、このくらいでがたがたいうわたしは聞きわけのない子どもだと思えるだろうな。

 周囲の壁には、ギリシャ神話のモイライのレリーフがいちめんに彫られている。人間たちの寿命の長さをつかさどる三女神――クロートーは運命の糸をつむぎ、ラケシスは糸の長さを決め、アトロポスが鋏で糸を断ち切る。三人の女神の手から手へ、長い糸が銀河の流れのように渡されている。

 わたしにも、人びとの人生コードはこんなふうに、輝く糸をないあわせたきらめく繊維の束として見える。それが、浴槽くらいの大きさの宝箱の中で水炊きのしらたきのように揺れている。宝箱は、初夏の牧場の牛のいない牛舎の片すみ、干し草の山の中にある。

 訓練校でのさいしょのレッスンが、「宇宙の倉庫につながる、自分だけの場所をつくること」だった。人類の歴史がすべて記録され、納められている宇宙の倉庫。それは決まったすがたをもたず、各オペレーターが自由にイメージしてよい。わたしたち訓練生は、いつでも接続しやすく、安定して維持できる自分だけのイメージをもつように指導される。わたしの場合は、小学校の遠足で行った牛舎の奥の宝箱。宝箱は、わたしの創作だけど。

 子どものころの思い出の場所を仕事場にしている人はわりといて、あるオペレーターは、家族で出かけた森の中の湖にゆくそうだ。人びとの人生コードはそこで泳ぐ魚の群れとして見え、魚釣りのようにのんびりとターゲットを探るという。

 またあるオペレーターは、巨大なビデオショップに行く。人生コードは無数のテープとして整然と陳列されている。これは「図書館型」と呼ばれるいちばんおおい倉庫イメージの派生種だ。図書館型は個人の思い出とはあまり関係なく、人類共通の「情報の蓄積場所」のイメージとしてひろく使われている。

 ミッキーは旧時代の石造りの図書館に、本のかたちをした人生コードを探しにいく(ミッキーは人生コードを「本」と呼んでいる)。この図書館がまた、外見どおりシステムまでも旧式で意識による検索ができず、「本」は紙のインデックスで探さなければならないという。ミッキーの仕事がおそい原因はこのあたりにあるみたい。

 わたしは仕事のたびに、ブースの中でひとり目をとじ、五月の牧場のイメージの中に入ってゆく。牛たちを放牧したあとの牛舎。けっこう強烈な排泄物のにおい。発酵しかけの草のにおい。その奥の暗がりに、きらめく蜜を内側になみなみとたたえた宝箱がある。その中には人生コードの群れがしずかに泳いでいる。

 いま、この業界でピッカーやオペレーターとして働いているのは、五年まえにライフコード編集法が整備され、全国に作られた国営の訓練校や民間の養成所を卒業した、エメラルドチルドレン第一世代だ。じつはそのまえに、調査員によってスカウトされ非公式にトレーニングを受けた能力者たちが、実験てきにこの仕事をしてきた歴史がある。

 皆、同世代の平均年収の十倍以上という高給をものすることができるこの仕事に誇りをもっている。でも、じっさいになってみればわかるけど、これは心身のコンディションがあまりにも仕事の成果に直結しすぎていて――他人の欲望に振りまわされたり、心の闇を見すぎたり、人生コードのあつかいに失敗してクライアントの人生に事故を起こして、意欲をなくすオペレーターもおおく、安定した職業とはとてもいえない。

「草野」

 いきなり、エントランスホールの人びとの中から津児があらわれた。彼が出かけていたということも忘れていた。

「これでも飲んで」

 津児はテーブルに、金色に輝く、親指ほどのアンプルをおいた。なにか書いてある。

「まむしエッセンスシロップ」

「それ効くから。飲んでごらん。つかれ吹き飛ぶから。おれもたまに飲むの」

「薬は苦手なんです」

「薬じゃないよ、まむしエキス」

「はやく帰って寝たい。寝れば元気になります」

「いいから飲んでごらんって。とりあえずきょうのところは。あと、もう徹夜しなくていいから。見つからなきゃてきとうに切りあげて、つぎの日またトライするっていうふうにして」

「すみません、自己管理できなくて」

「はじめてだよなあ、君がひと晩かけて見つけられないのって」

「無茶なんですよ、ほんと、依頼が……」

「まあいいからそれ飲んでよ」

「いただきます」

 アンプルの首をぱきっと折って、中身をちゅっと吸った。アニス酒みたいな味。舌の裏側から、なにかがすばやく血管に吸収された、と感じた。まむしのエキスが血流に乗って全身をまわる。

「あのねえ、おれねえ、いま外歩きながら考えてたんだけど」

「はい」

「そっちの方面じゃ、見つかりにくいかもしれんね……」

「え」

「寝村たまきの希望の人生さ」

「でも、お金持ちが芸能人に近づくのに、いちばん可能性のある方向だと思うんですけど」

「うーんとね」

 津児はいいにくそうに。

「津児さん、なにかご存知なんですね」

「このひとの依頼を、おれがぜんぶもらってくるのはね、この──寝村たまきってひとは」

 わたしはうなずく。

「コードの中に入ってるとき、おまえはクライアントの背後から世界を見てる視点だから、見えてないだろうけど」

「なにをですか」

「顔を。寝村たまきの顔を」

「たしかに見えないけど」

 仕事のしかたはオペレーターによってさまざまだけど、わたしの場合はだいたいこれかな、と当たりをつけたコードの中に入ってみることから始まる。宝箱に腕をさし入れてゆっくりかきまぜ、ゆらゆら泳ぐ繊維の中から一本つかんで握りしめる。目をとじてリラックスすると、意識がそのコードに吸いこまれるように入ってゆく。

 コードに入る、というのは、クライアントを主人公とする映画の中にダイブするような感じ。その映画が主人公の希望をちゃんと実現した世界かどうか、主人公目線で状況を点検しなければならない。

 たいてい、オペレーターはクライアントの背後霊みたいな位置から、クライアントに見えているものを確認する。オペレーターは映画の中で、背後霊以外のポジションをとることができず──クライアントから見えないものはオペレーターにも見ることができない。都合よくその映像の中で鏡でも見ないかぎり、クライアントの顔を見ることはできないのだった。

 そういえば、寝村たまきの後ろに立っているあいだ、鏡を見たことがなかった。

 すくなくとも彼女の家の中には鏡がなかった。窓は昼もレースでおおわれていた。家具も、ガラスを用いたものはおいてなかった。家の中に、彼女の顔が映るようなものはなかった。

「彼女の顔が、なにか?」

「うーんと」

 津児は頭を抱えた。ほんとうに、いいたくないことらしい。

「大きな傷があるとか……?」

「おれも、本人に会ったのは初回の面談だけで、あとはメッセンジャを立ててやりとりしてるんだけど」

「はあ」

 津児はこちらに横顔を向けて頬杖をつき、考えにふけりだす。頬に沿っている指が、いがいと長いと思った。

「あ、わたし」いきなり口をついて出た。

 津児がちらっと、目だけこちらに向けた。

「元気になってる、頭すっきりしてる」

 津児は頬杖のまま、「だろ? 効くんだよ」

「すごい! まむしすごい」

「そうそう」

「で、寝村たまきの顔がどうなんです?」

「醜い」

 あっさり津児はいった。

「醜い?」

「そう……」

「ちょっと不細工、くらいじゃなく?」

「言葉に気をつけろ」

「なにを叱られてるのかわかんないです」

「このご時世だし、地球人じゃないのかもしれないと真剣に思った。彼女の絶望は、想像もつかないような深さなんだよ。聖なる感じさえする。ちょっと不細工とか、ほんとつつしめよおまえ」

「寝村たまきに会ったのは津児さんだけなんだから、わかんなくてとうぜんでしょ」

 いちどきりの面談は、寝村邸で行われたという。ひとりで出かけていった津児は、そこで、仕事観が変わるほどの出会いをした。

 応接間の豪華なソファにぽつりと腰掛けた寝村たまきは、黒いベールを顔にかけていた。契約についての説明をひととおり聞いたあと、寝村たまきはベールをあげて津児に顔を見せた。

「いやほんとたまげた。ぜんぜん心の準備してなかったから」

 津児は眼前にありありと、そのおどろくべき容貌を思い浮かべているようだった。

「ずっと見ていると、よくいままで生きてきたものだと、しみじみと、称えたいような気持ちになってきた。これまでの彼女の人生を想うと、おれはその場で涙をこらえるのがやっとだった。この仕事は彼女のためにあると思った」

「…………」

「これまでの二回で、希望する人生に接続してきたけれど、やはり金にものをいわせてのことでは、男の愛を得られないと彼女は気づいた。だからね、こんどのクリャン・ティティにかんしては、可能性があるとしたら逆の方向なんじゃないかと」

「それをもっとはやくいってもらわないと……」

「わるかったよ」

 津児は小さく頭をさげた。ほんとうにそう思っているようだった。

「じゃあ、寝村たまきが、お金持ちじゃなくて」

「むしろ貧乏なほうがいいくらいだ」

「貧乏で……醜くて……そんな女性が、クリャン・ティティと出会う?」

「寝村たまきが貧しい世界なら、クリャン・ティティもまだ駆けだしの歌手かもしれない」

「あ」

 わたしは思わず手を打つ。

「すこし見えてきたかもしれません。ここのブースって、いま入れますか?」

「どうかな、見てみないと」

 津児はテーブルにおいていた端末でブースの利用状況をチェックした。顔を輝かせて、

「たったいま、ひとつ空いた」

「入ります」

 久しぶりに事務所のブースで仕事をした。

 貧しい家庭に生まれ育った、ティーンエイジャーの寝村たまき。体が弱くで、病室で一日じゅう新人歌手クリャン・ティテイの歌を聴き、彼に詩を書き送るだけが生きがいの日々を送っていた。詩はすばらしいものだった。

 クリャン・ティティは寝村たまきの詩にメロディをつけ、その曲は彼を一躍有名にした。歌手と娘はそのごも共同で美しい曲を作りつづけ、作品は世界じゅうで愛されることになる。ふたりはやがて結婚した。クリャン・ティティにとって、寝村たまきの容貌に傷はひとつも見あたらないものだった。彼が少女をひと目見るなり、ゆいいつ無二の美しさを感じたことが伝わってきた。

 わたしは幸福そうなふたりのすがたに、号泣しながら、人生コードをつなぐ作業をした。

 すでに作業痕だらけの、痛いたしい寝村たまきのコードをエネルギーコーティングし、しみこませるように刃をゆっくりと下ろした。いま、彼女は心安らぐ場所で、眠るように意識を失ったはず。肉体はそのまま細かな粒子となって、空気に溶ける。そして、貧しい家庭の病身の少女である人生にそそぎこまれ、幸せなバージョンの自分の魂と合流する。

 わたしが想像しうる、もっとも美しい終わりかたにできたと感じた。研修あけの初仕事としては、満点に近い出来だと思っていた……。

 あるものを見つけてしまうまでは。

 寝村たまきの背後霊になって結婚式を見届けていたそのとき、おなじ式場のべつの部屋で式を挙げていた、すれちがいざまに会釈した新郎新婦が──わたしと津児だったのだ。

 わたしと津児が結婚している地球がある!?

 理屈では、そういう地球があるのもわかるけど、まさか仕事中にそんなものと出くわすなんて。

 寝村たまきの人生コードの後始末に、万が一、乱れがあったとしら、このときの動揺のせいだ。

 翌月、わたしの口座にはじめての、ひとり立ちしたオペレーターとしての報酬が振りこまれていた。通帳の数字を見て、わたしはよろけた。工場でびびたる賃金で働き、爪に火をともすようにしてわたしを育ててくれた両親のことを思うと、人間の価値ってなんなのか、吐き気がするようなすさまじいゼロの行列だった。寝村たまきの三度目の案件が終わったら辞める、と啖呵をきったけど、ほんとうにここでやめなければ、人として、わたしはおかしくなってしまう。

 寝村たまきは、お試し期間がすぎたあとも向こうの世界にいつづけた。三度目にしてはじめてのこと。彼女の人生コードは新しいコードと融合してなじんでしまい、こっちに戻ってくることはできない。クリャン・ティティと支え会って生きていくことを選んで。

「本がめっかたよー、本がめっかったよー」

 蛤荘の壊れそうな階段をのぼっていると、いつものように足音を聞きつけたミッキーが、転がり出てくるようにドアをあけて叫んだ。

「わっびっくりした。よかったね、見つかったんだ」

「どこにあったと思お?」

「え? 本でしょ、本棚のどっか奥のほう?」

「ちがーう、貸出カウンターのしたにおっこってたんだよー」

 ミッキーは菜の花色の半纏に包んだモンキチョウのような体をくねらせて、笑いながら訴えた。「棚いくら探してもないはずだよー」

 ミッキーのいう本とは、人生コードのこと。そんなところに落ちていた人生のもち主というのは、どんなクライアントだったんだろう。

「わたしもきょう、ひとつ片づけてきたよ」

「事務所で? めずらしいね」

「うん。ちょっとひらめいて、すぐやりたくなって」

「あ、そだ、苺のまるケーキ買ったんだ、食べよ、二人ともお祝いになってよかった」

 ミッキーがパッとノブから手を離して、薄い扉はキキーと軽い音を立ててわたしの鼻の先をかすめ、とじた。

 この仕事をこれで辞めるっていたら、ミッキーどんな顔するかな。もういちどドアをひらくと、ミッキーがこたつの前に膝立ちになって、ケーキの箱をすぽんと引きあげるところだった。


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あとがき

このお話は『タラチネ・ドリーム・マイン』の中の、「草野ずん子」のパラレルストーリーです。

2012年5月に、コピーしてホチキスでとめた簡易な冊子として作成し、文学フリマで販売しました。

そのせつは、お買い上げくださった皆さま、ありがとうございます!

あれから3年たち、加筆修正しまして、無料公開することにしました。

本書を読まれたかた、未読でしたらぜひタラチネもお手に取ってみてくださいね。

あちらのずん子はシニアで、部屋を片付けるのは苦手ですが仕事はできる女性です。やはり特殊能力を職業にしています。

2015年12月26日 クリスマス明けのしずかな小樽にて 雪舟えま

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雪舟えま!

ひとくち小説集

甘くめでたい短篇・ショートショートです。

コメント1件

ずん津児コピー本の販売が2012年5月の文フリということは、タラチネ本体より半年はやくできたのね。原稿は納品し終えて、装幀を待ちながら、収録作のパラレルワールドを想像していた時期だっかのかな。ほんの3年まえのことなのに、なにもかもなつかしい。文フリでお買い上げくださったかた、ありがとうございます。すごく励みになっているんです。
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