見出し画像

「本を語る」100日100冊チャレンジ 第58日「それでも生きていく」


❶[1BOOK]
「それでも生きていく」不安社会を読み解く知のことば
姜尚中 集英社  2022年1月22日

❷[3POINT +1]
◎「はじめに」
本書はどんなに心が折れそうな不運や幸運があっても、それでも「新たな探求」をやめない、「それでも生きていく」ことの意味を確かめる心の旅の記録でもあります。

①ジェンダーをめぐる攻防
☆「わきまえない女」のススメ〜2021年4月掲載
多様性を重視するオリンピック精神にも反する女性蔑視発言によって、辞任に追い込まれた東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗氏。この発言が生まれた背景を探る。
→マッチョイズム、家父長制、ナショナリズム。その3点セットをベースとした男同士のホモソーシャル的な関係性の中で、組織が動かされるようになっていった近代日本。それが今でも社会を動かし、女性活躍の壁となっています。

②対談・上野千鶴子さんと語るこれからの生き方
☆2021年11月談
同世代で、同時期に、ともに東京大学で教鞭をとっていたふたり。女性学と政治学と専門こそ違っていたものの、舌鋒鋭い論客として、シンポジウムや講演会で、たびたび顔を合わせてきた旧知の間柄だ。東大を退官してからは、なかなか会えずにいたが、「久しぶりに上野さんにお会いしたい」という姜さんの希望で対談が実現。2021年秋の衆院選の総括や老境に入った今の暮らしぶりを語った。
→つらいこと、悲しいこと、いろいろありましたけれど、不幸なことも含めて抱きしめて生きていくという感じです。(姜)
機嫌よくおいて、機嫌よく要介護になって、機嫌よくぼけて、ある日死んでいた、といいんです。(上野)

③コロナ禍を生きる
☆人間は身体的な存在である〜2021年1月掲載
東京五輪に日本中がわいていたはずだった2020年。しかし新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期に。混乱する政治。低迷する経済。科学万能の時代に、コロナ禍が教えてくれたものとは。
→身体の存在を忘れた時、人間は歯止めのきかない存在となり、過剰な欲望を生み出します。グローバルな資本主義の欲望が青天井になっていることからもそれはよくわかります。コロナ危機は、そうした人間の身体性の喪失に警鐘をならしているのかもしれません。

❸[1ACTION]
[実行すること=自分との約束]
「それでも生きていく」覚悟を改めて持つ。

[思いついたこと]
この本は、女性雑誌『マリソル』に掲載されたエッセイをもとに作られています。雑誌をほとんど買わない、読まない私にとっては???ですが、その内容は結構「硬派」です。著者の姜尚中(かんさんじゅん)さんは、よくテレビにも出ている方ですが、物腰も話し方も穏やかで紳士的で、控えめな印象がありました。でも真の強さを感じさせるところがあり、以前から注目し、何冊か著書も読ませてもらっています。「悩む力」という本では、自分で「考える」ことの大切さを教えてもらいました。

この本の中では、「二度生まれ」という言葉が印象的です。息子さんの死に直面したことがきっかけのようですが、私もまた、弟の死によって、「二度生まれ」したような気がします。両親をはじめ、すでにたくさんの人を見送ってきた私ですが、「死にゆく姿」を目の当たりにしたショックは大きく、その後の「片付け」の中で、彼の生き様をより深く知り、自分の人生の転換点のひとつになったことは事実です。

[そして]
ここで突如浮かび上がったひとつの言葉ー「違和感」。著者が在日であることを受け入れた時の話(これは以前の著書で読みました)や、ジェンダー問題を語る時の優しい眼差しを思い出すと、自分自身がこれまで感じてきた感情が蘇ります。私は、人と協調するのが苦手で、どちらかというと一人で行動することが多く、考え方も周囲の人とは「少し違う」ようで、とくに「女性だから」という単語には、違和感を超えて拒絶反応を起こしていたこともあります。

今でこそ、あからさまな態度を取ることは無くなりましたが、どこの職場でも「気の合う人」は少なく、あるいは単独での行動をとりがちで、「ひとりぼっち」で可哀想だと思われていたかもしれません。「お昼休み」はその象徴です。でも本人は、無用な気遣いから解放されるので、内心、しめしめと思っていたのです。こういう状態を、「孤独」ではなく「孤高」と表現します。ネガティブでマイナスな感情で溢れる環境から、自分を守るには、それしかないからです。おかげで、他人の意見に右往左往しない自分自身を、確立することができました。どんな状況になっても、「それでも生きていく」覚悟を持てるのも。

❹[1episode]
☆「二度生まれ」の幸福論
「二度生まれ」について、私自身が深く考えるようになったのは、2010年に息子を亡くしたことがきっかけでした。息子の死は、まさに私の足もとに大きな亀裂を生じさせました。また年齢的なこともありました。60歳という人生の晩秋期にさしかかり、これまでとは違う生き方を模索していた時でした。そこに3月11日が重なりました。
結局、自分は幸せになろうと思ってもなれなかった。当初はそんな思いに打ちのめされました。でも、苦しみと向き合う中で、やがて幸せでなくても生きがいのある人生、意味のある人生はあるのではないかーそう思うようになりました。
では、苦悩を引き受けることで何が変わるのか。僕の場合、ひとつは以前より人間が恋しくなったような気がします。恋しいというのは、シンパシーがもてるようになったという意味です。「そうか。人間はみんな等しく死に向かって生きているんだ」という死にゆく者としての共感です。これは無常観とは違って、もっと強さにつながってゆくものです。
不幸な人を見た時、「ああ、自分はあんなふうになりたくない」と思ってしまう社会。しかしそれでは思考停止です。そうならないためには、まずは個人が苦悩や苦痛から逃げずに向き合ってみる。「二度生まれ」の経験は、きっとあなたの人生をより深く、豊かなものにしてくれるはずです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?