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僕のポルシェは世界限定80本のF1ジルヴィルヌーヴ仕様のハンドル 保坂兄弟の911S



こんにちは
保坂学です


今回は前noteの続編になので、ポルシェって知ってるけどどんなクルマ?ってマニアックになりますが、興味あれば暇つぶしに読んでみてね。

前のブログ読むの大変な人へあらすじ

前回のブログ投稿は、空冷ポルシェの歴史や911のスペックなどについて語り、なぜコードが901から911になったのか?1976年の911Sが、ポルシェジャパンが設立されて、初めてのポルシェなどのおはなし。


今回の投稿テーマは、僕のポルシェ911Sのステアリングを変えた理由、MOMOというブランド、ジルヴィルヌーヴはどんなF1レーサーだったのか?などを書きました。



愛車のポルシェ911Sは、1976年に生産されていて40数年の時を刻んでいるスポーツカーなので、MOMOが70年代〜80年代前半くらいまでの同じ時代に生産していた、MOMO Gilles Villeneuve Steering Wheel Limited Edition 12/80のステアリングを新しく装備しました。(昔を思い出すミニ四駆感覚で交換)




イタリアで生まれのMOMOは、1964年にジャンピエロ モレッティが設立しました。

社名のモモは、モレッティとモンツァから付けられたのが由来だそうで、momoの設立当初は、レースやサーキット製品だけを製造していましたが、1970年からは市販車向けのステアリングホイール販売に着手しました。

僕のハンドルは、F1ドライバーシグネチャーシリーズのジル ヴィルヌーヴ モデルです。

その時代で、最高の讃美を得たドライバーが選ばれデザインします。(僕の好きな伝説のF1ドライバー ジル ヴィルヌーヴ)

僕はフェラーリの赤い閃光と呼ばれた、ジル ヴィルヌーヴが、最後にデザインした、世界で80本だけ限定で生産された、ステアリングを選びました。(限定って人と被らないし価値が上がるから好き)

真円で細身のハンドルは、革張りになっており、グリップ部は指がフィットするように、内側の裏側だけデコボコしていて、これがヴィルヌーヴの走る握り手の感覚なんだと、ハンドルに指をフィットさせながら、嬉しくなりました。(憧れてます)

僕がヴィルヌーヴを憧れ好きになり、そのモデルを選んだかは、彼の走りの心構えに魅了されたからです。

彼の走りで伝説となっているのは、タイアがバーストして、肩輪が動かない深刻な形勢であっても、カウンターステアが動くならば、三輪走行をしてでも完走するスタイルなんです。(カッコ良すぎる)

不動になるまで、絶対にレースを諦めない姿勢が、不屈のドライバーとして、世界中の人々に愛され尊敬されていました。

ジルヴィルヌーヴのF1伝説の三輪走行

1977年7月17日の第10戦イギリスGPにて、マクラーレンのサードドライバーとしてF1デビュー。
このデビューレースでの走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、チームとの確執から離脱したニキ・ラウダに代わり、第16戦カナダGPからフェラーリに加入した。

最終戦、富士スピードウェイで行われた日本GPで、序盤にティレルのロニー・ピーターソンに追突してしまう。

ヴィルヌーブのフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下。

マシンは大破したにもかかわらずヴィルヌーブは無傷だったが、観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す結果となってしまった。

この惨事は進入禁止エリアで観客が観戦し、警備員が再三の撤退を促していた中で起きたものである。

しかし当時の日本は、モータースポーツへの理解が低く、ヴィルヌーヴは業務上過失致死の容疑で書類送検され、事実上日本から永久追放処分となりました。

このジル ヴィルヌーヴの事故を最後に、日本におけるF1開催は10年間にわたり中断されることになる。

ヴィルヌーヴは日本を主軸に、各国のマスコミの餌食となり、激しい非難と誹謗中傷をに晒されたが、そのメディア等に対して、F1業界やドライバー達が、怒りを覚え反論の意を唱え、その際にエンツォ フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」とF1業界と共に、ヴィルヌーヴを擁護する声明を出し、全てのメディアを一蹴しました。(その通り!)

ミスターフェラーリのエンツォ フェラーリは数多くのドライバーの死を目の当たりにしたが、ヴィルヌーヴを失ったショックは計り知れなかったという。


1982年第4戦サンマリノGPでは、ヴィルヌーヴがトップ、ディディエ ピローニが2位と、2台のフェラーリが、周囲を大きく引き離しレースが進んだ。

終盤は、燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるようにとピットからSLOWサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。

しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越した。

その後トップを奪い返したが、裏切りに気付いたヴィルヌーヴは、ペースを上げてピローニを追ったが、結局2位に終わってしまった。

表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。

ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶した。
彼は、もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わないと断言し、両者の関係は修復不可能なほど悪化しました。

続く1982年5月8日の第5戦ベルギーGPの予選2日目、ヴィルヌーヴはピローニが自身の予選タイムを上回ったと聞くと再び予選アタックへと飛び出していった。

ピローニのタイムを更新するためにタイムアタックを続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン マスのマシンに遭遇し、マスはサイドミラーから赤い閃光が見え、ヴィルヌーヴの接近に気付きレコードラインを譲ろうとしたが、ヴィルヌーヴも同じ方向に動いてしまった。

マシンの速度は推定時速230km/hに達していて、ヴィルヌーヴのマシンの左フロントタイヤが、マスのマシンの右リアタイヤに乗り上げ、ヴィルヌーヴマシンは宙に舞い上がった。

前部から路面に激突して大破しながら、150mほど転がり、この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれ、ヴィルヌーヴの身体はマシンから放り出され、フェンスに叩きつけられた。

ヴィルヌーヴは、F1の歴史における名声を残すバトルを幾度も繰り広げ、フェラーリの赤い閃光と呼ばれた天才は、1982年ベルギーGPの最中、若干32歳の若さで儚くも散りました。

この衝撃的な事故は、映像として現存していています。

F1レースの中で、最も驚嘆な事故として、1983年のウィニング ラン、1987年グッバイ ヒーローなど、映画にもなり放映されました。


伝説のF1ドライバー、ジル ヴィルヌーヴが、背負ったカーナンバー27は、名門フェラーリが、27番を付けるのは、厄運の象徴となってしまい、初頭は皆がそのナンバーを拒みました。

しかし、時代の寵児であった、ヴィルヌーヴの鬼神の様な活躍と逝去は伝説になり、偉大な番号として愛され、象徴である27番は、誰もが望むフェラーリのエースドライバーを象徴する数奇なことになりました。

番号を背負ったドライバー全員が数々の伝説的なドライバーであり、その名は錚々たるメンバーとなった。

パトリック タンベイ、ミケーレ アルボレート、ナイジェル マンセル、アイルトン セナ、アラン プロスト、ジャン アレジらは、偉大な27番を自ら受け継いでF1レースを闘い抜きました。

その著名なドライバーの中でも、セナやアレジはヴィルヌーヴへの崇拝していて、アレジが幼少の頃には、自分の部屋にヴィルヌーヴの等身大ポスターが貼ってあったと言います。

没後は、偉業を讃えて、彼が初勝利したイル ノートルダム サーキットは、ジル ヴィルヌーヴ サーキットと改名され、今もなおF1カナダGPの舞台となっている。


僕は、前もステアリングはMOMOを使っていて、使い易く964ならベストマッチだと思いますが、80年代後半の様な少しだけ、ポテっとした感覚になり、このクルマのビジュアル的に、クラシック感を持っていたかったので、1976年の911Sのクラシック感を壊さず、自分のフィーリングに合うような、アイテムを探していた時に、不意に友人が持っていて、遂に見つけることが出来ました!

この時代のクルマの脱着は、特殊工具も必要なく、六角レンチがあれば、大抵はボルトオンになっていて、配線もクラクション部の接続だけなので、モノがあれば、自分で簡単に出来るカスタムです。

カスタムの注意点と言えば、買った部品が型番と同じなのに合わないことで、旧車あるあるなんですが、昔は設計はありながらも、年式の1年の違いですが、前年と今年が、手作業で合わさって作られていることが多く、元の設計と違ったりするんです。


僕がこのステアリングをどうして選んだかは、言うならば、僕の生き様になります。

F1レースは、どんな最高なレーサーであっても、死と隣り合わせの危険な競技であることが、周知の事実にも関わらず、理不尽なメディアは誹謗中傷をしていました。

その誹謗中傷を物ともせず、闘い抜いた男達の姿に、心を撃ち抜かれたからです。

現代では携帯電話を使い、悪気も無く誹謗中傷や嘘までを、ブログやSNSに簡単にぶち撒きけている狂った世の中です。

やっている方は気付かないような、軽い言葉でたくさんの人が傷付いています。

貶めたり辱めたりしていたのが、手負の虎って気付かず、逆に自分が後で喰われてしまう世の中だと、何が正義なのかを学ばせるべきですね。(静粛)

世の中ネットでIP開示などはすぐに確認でき、ディープウェブなどの闇サイトはすぐに使えますから、自分が何もしないで、何が何だかわからないままに、仕返しされちゃいますからね。

それもこんな世の中ってことですから。

僕と弟の保坂耕司は、己の中に道徳があり、人に誹謗中傷などしてるやつは人間のゴミだと思っていて、人間として生き方に、恥じる事は無い様です。

やはり生き方でカルマがあり、人に酷いことをしたら返ってくるので、誠意ある仕事が出来る様にと、株式会社PLUSでも話をしています。

みなさん清らかな心で幸せに生きて下さいね。



I changed my porsche steering signature series designed by F1 driver Gilles Villeneuve. It's his last design. This is the Steering was selling MOMO from the 70's and 80's.  Due to accident racing legends of F1 drivers, F1 race in Japan over 10 years were suspended.  Villeneuve was exposed to fierce criticism from media outlets around the world, but Enzo Ferrari defend him, he say there were lot to accident. This is the world of formula 1 racing.  He did the unthinkable in normal goal. He was from an accident driving on three wheels. His car runs out, never give up racing. Captures the hearts of people around the world fight for him, fought with the name battle in F1 history. He was killed in an accident at the age of 32.  This story remains as a video. Most distressing and shocking accident footage in F1, in 1983 winning run, 1987 goodbye Heroes have been featured film in.  Prestigious Ferrari is hated as a symbol of Villeneuve's car No.27.  No.27 was loved as a great number of Villeneuve and tragic death. And became to symbolize the Ferrari ACE driver.  Inherited the No. 27 by Patrick tambay, Michele alboreto, Nigel Mansell, Ayrton Senna, Alain Prost, Jean Alesi, who fought.  Senna, Alesi respected Villeneuve. Said Alesi was put childhood Villeneuve poster in his room.

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