合計18回引越しをした私の半生を、引越しごとに振り返りつつ自己紹介
はじめまして。おだのんです。
このnoteは、おだのんが書きたいことを書くために立ち上げました。
エッセイを書いたり、おすすめグッズ紹介をしたりしたいと思っています。
その前に、おだのんってこんなやつというイメージを共有します。
まず今回は、略歴を紹介します。
先に言うと、次回は好きな○○で自己紹介します。
人生で18回も引越ししていました
転勤族でもないのに、です。
その内いくつかの引越しが今の私を形成する重要な契機になりました。
人生を引っ越しとともに振り返っていきます。
自転車で大爆走する子ども
1~3回目(2歳、3歳、4歳)
1990年に宮城県で生まれました。
2歳から4歳まで県内を転々としていたそうです。引越しの思い出はさすがにありません。
とにかくセーラームーンが大好きな子どもでした。
セーラームーンの補助輪付き自転車がお気に入りで、ハンドルについている必殺技が鳴るボタンを押しては、近所中を爆走していました。
中国・上海へ
4回目(5歳)
父の仕事の都合で家族4人で上海へ引っ越すことに。
引越しのことは覚えていません。
5回目、6回目(6歳、7歳)
上海には3年間住みましたが、その間にも1年に1度は引越しをして、計3ヶ所のマンションに居住しました。
地元の幼稚園に通い、中国語がペラペラになりました。
今はほぼしゃべれませんが中国人のお友達には発音がいいと褒められます。
中国での生活のおかげで、海外生活への躊躇がなくなり、後に海外留学を選択するきっかけになったと思います。
あと、中華料理じゃなくて中国料理(ガチ中華)の方が好みの舌が形成されました。
帰国~大自然~反抗期
7回目(8歳)
父が上海での任期を終え、帰国しました。
小学2年生、初めて日本の学校に入学です。
この時、母の実家の田舎に引っ越しました。
同級生の訛りが強く、はじめ何を言っているか理解できませんでしが、中国語を忘れる代わりに、宮城の訛りや方言を会得しました。
8回目(9歳)
母方の祖母の家に一時的に引っ越すことになりました。
祖母の家は家屋も庭もとても広く、周りには自然があふれていました。
遊びに来た同級生には「トトロが出そう」と言われたことも。
庭の草花を押し花にしたり、
裏の川の土手でヨモギを摘んで草餅を作ったり、
田んぼのあぜ道でマラソン大会の練習をしたり。
とにかく祖母の家周辺の自然の中でのびのび過ごしました。
そんな経験が、手芸が趣味の私に、今でも多くのイマジネーションを与えてくれています。
9回目(14歳)
両親がマイホームを建て、引越しをしました。
中学3年生の時です。反抗期真っ只中でした。
黒歴史なので、ほぼ記憶にありません。
時々思い出すのは、お洒落な美容室に行かせてもらえず、じゃあ自分で切ってやると言ってやってみたら、翌日学校で男子に「きのこじゃん」と言われてブチ切れたことです。
一人暮らし開始~海外留学
10回目(18歳)
大学入学と同時に一人暮らしを開始しました。
1年生のとき、現在の夫と出会いました。
11回目(20歳)
イギリス留学のため、現地の大学の女子寮に引っ越しました。
クリーム色のレンガの古めかしい建物で、まるで映画の中にいるような感覚になり気分が上がりました。
イギリス留学は間違いなく私の人生のシンボリックな出来事です。
英語が少し得意だったので、いずれ仕事に活かしたいと思いましたが、それはあまり叶っていません。
しかし現地のマーケットや博物館を見学し、イギリスのハンドメイドの豊かさを見聞き出来たのは素晴らしい経験でした。手芸という趣味を生きた文化として体感できて楽しかったです。
また、現地で気の合った日本人留学生仲間が生涯の友人になりました。国内外にばらばらに居住する友人たちですが、帰国後も何度も会っていて、私にとってかけがえのない存在です。
12~13回目(21歳、22歳)
12回目の引越しはイギリスからの帰国です。
欧米文化にかぶれてしまって、やたら「すみません」という日本人の態度が気になる時期がありました。
後に「すみません」には、謝罪、感謝、呼びかけ等の複数意味が含まれると気づき、日本人は言葉の使い方がなんて繊細なんだ、と考えを改めました。
13回目は大学院に進学した時です。
学部生時代よりも部屋が狭くて、町の中心部に近いマンションに移りました。院生感出したくてイキっていたかもしれません。
専攻は英文学でした。ビクトリア小説が大好きです。修論はシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』で書きました。
院生時代に図書館司書の資格も取得しました。
東京の大学で2ヶ月弱、司書資格の集中講義を受けました。束の間の東京生活、楽しかったです。
社会人開始~社畜の引越し
14回目(24歳)
社会人になり、名古屋の企業に勤めはじめました。
縁もゆかりもない土地だったので、友人も親戚もおらずはじめはさみしかったですが、会社の先輩と同期に恵まれ、なんとか過ごせました。
この時に出会った先輩とは今でも月1で電話をする仲です。
怒涛の社会人生活の中で覚えている名古屋の印象は、
矢場とん美味しい
夏は暑すぎてドロドロになる
中心地より郊外に楽しいスポットがある
好きなアーティストが仙台よりも来てくれる
ということです。
15回目(25歳)
激務 OF 激務の時代でした。
早朝に出勤し、深夜まで残業の生活が続きました。
心配してくれた部長が会社のすぐ隣のアパートに引っ越すように手配してくれました。
「ありがてぇ~」と思い引っ越しましたが、今思うと狂っていました。
家じゃなくて激務をなんとかせぇ。
先輩には引越しの理由が社畜すぎる、と心配されました。
Uターン~結婚~マイホーム
16回目(26歳)
地元宮城の企業に転職が決まり、Uターンしました。
大学時代からずっと付き合っていた彼が失業中で、少し体調も心配だったので
あたいが食わせてやらぁ
と、同棲を開始しました。
家賃の安い古めのアパートだったので、激寒でした。
お金はなかったですが、2人で乗り越えている気がして、幸せに暮らせました。
17回目(28歳)
無事に就職した彼と結婚し、ちゃんとした家に引っ越しました。
2重ガラスで南向きの温かいメゾネットアパートでした。さらに幸せな日々でした。
この時私は2回目の転職をして、貿易系の仕事に就くことができ、少しだけ英語を生かして働くことができました。
18回目(31歳)
田舎に土地を買い、夫とマイホームを建てました。
同時に私は出産をし、新しいお家で新しい生活をはじめました
ここで定住かどうかは分かりません。
山奥の小屋生活や、海外移住も気になっています。
「転がる石」人生
半生を振り返ってました。
こんなに移動しているなんてびっくりです!
それぞれの場所で象徴的なイベントがあり、今の私を形成しているのだと感じました。
今後もコロコロ転がりながら歩んでいより良い人生を歩んでいきたいです。
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