何でもない無力な私だけど動物を救いたい
書こう書こうなんて言って、まだ1つしか投稿していないnote。
いつもはめんどくさがっていたが、今書かなければという気持ちに苛まれ、無性に書きたい気持ちから、2ヶ月ぶりに書く時がきた。
半分は自己満で、文章を丁寧に書くというよりは、今の気持ちをワーッと書き、
半分は、この投稿を少しでも多くの人に届けたいという気持ちで書いている。
きっかけは、昨日新聞で見た殺処分される犬の記事を見たことである。
犬の殺処分は前から知っていることだったが、こんなに長い間そのことについて考えたことはない。
記事の内容としては、ミュージシャンの大木トオルさんが、殺処分寸前の犬を保護し、セラピー犬へと育てている財団を立ち上げた話である。
彼が来日した時、日本の犬の現状に衝撃を受けたという。
私も長年犬を飼っていたことがあり、かなり犬に対して愛着があったので、いつだったかはっきり覚えていないが、捨てられる犬の多さ、そしてその犬はいつか殺されるという事実に泣いた記憶は確かにある。
人が当たり前のように死ぬ戦争が、日本の中で二度と起きてはいけないことという認識はあるだろうが、動物の場合どうだろう。
穏やかな毎日が続いている平和な日本の中、毎日犬が殺されている。
人間が殺されることはないので、本気でこの事について考える人が戦争に比べ、少ないのも当然である。
何年か前、殺処分のことを初めて知ってからは、動物愛護団体の街頭募金を見かけたら必ずお金を入れたり、チャリティーイベントに参加したりなどするようになった。
一匹でも多く救いたい、と思いお金を入れる。
もしかしたら今までは、それでやや満足していたのかもしれない。
もちろん普通に考えれば分かるが、それだけで全ての犬を救えたわけではない。
今、手元に新聞記事がないので要約だが、大木さんも言っていた。
保健所に行き何匹かの犬を救ったが、それと同時に、その場で選ばれず殺されてしまった犬もいる。そのことへの罪悪感はすごくある。
殺処分するガス室のボタンを押すことで生活し、家族に自分の仕事を言えないでいる人もいる。
たくさんの犬を救っている人でさえ、(だからこそかもしれないが)救えない犬がいる事に罪悪感を感じなければいけない。
ただ、私がその人の立場に立ったらそんな気持ちにもなるかもしれないと思った。
子どもの貧困支援や災害援助など数々支援に携わる人はいるが、その中で支援をしていながら罪悪感を感じている人というのは、いるのだろうか。
私は数年前から子どもの貧困を支援するボランティアをしているが、罪悪感を感じたことはなく、むしろ貢献しているという気持ちで楽しいと感じている。
そして、殺したくもないのに殺すことでお金をもらい、そんな自分を愛する家族がいつも家で待っている。一体どんな気持ちなんだろうか。
この記事を読み、こんなに暗く、その先の明るい展望が見えない社会問題もないのではないか。
私の読んだ記事は、読売新聞の朝刊に連載としてセラピー犬の活動をする大木さんのことが書かれている。
是非、多くの人に読んでほしい。
一人一人、どんな小さなことでも良い。
募金をする、ボランティアをする、動物を飼いたかったらペットショップでなく保護動物を飼う選択肢を考える、ペットの余ったシーツやフードなどグッズを保護団体へ送る、短期間犬の預け先(ホストファミリー的な)になる。
色々な選択肢がある。
こんなことを言っている私は今、まだ行動にうつせておらず、何をすべきか模索中であり、今社会問題にもなっている空き家なんかで犬を保護できる場所をつくれないかなどごちゃごちゃ考え、
今の時点で完全無力な私だが、一日でも早く何かしら行動に移したい。
そんな気持ちが溢れ、文章も下手なまま、とりあえず今行動できることとして、衝動的にこの記事を書くに至った。
本当に書きたいことがあるからこそ、書くという行動にうつったと実感している。
無力ながらも無謀ながらも、行動にうつすことは良くも悪くも私の強みなのだけど、
これからもっと必要なスキルを身につけ、守れるものをしっかり守りたい自分になりたいと思った。
まとまりはないが、衝動的に書きたいという気持ちがやはり強かった。
今のこの気持ち、忘れないようにしよう。
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