noteアイキャッチ蓮

(#招福ハレルヤ Piapi 記)

好奇心旺盛な私は

50歳を過ぎてもその好奇心は留まることなく

年々興味にも幅が拡がりやりたいことがたくさんありすぎて

眠る時間がもったいなくて

寝落ち寸前まで起きていて

いつも手にスマホを握りしめた状態で眠るほど・・・

ふと

子供の頃「パパとママが死にませんように」と

お祈りをしてから眠っていたことを思い出す。


眠るとパパとママが消えてしまうのじゃないか?

私にとってそれが一番恐ろしいことだった。

頭の中に日曜学校で見た天国と地獄の絵が思い出される。

死ぬということを意識したのは幼稚園の頃だった。


そんなパパとママは
この7年の間に
既に他界しあちらの世界へと旅立った。


私はこの世で一番恐ろしいことを経験してしまったから

もう、恐ろしいことが何もなくなってしまった。

恐怖というものは超えてしまうと

案外ケロっとするものだと思った。


私は幸い父も母も看取ることができた。


人は生まれてくるときにはオギャーと泣いて息を吐く。

死ぬときには「息を引き取る」というように

息をスッと引き取ってあちらの世界にいく。


母のときも父のときも

死んでいくんだということに気づかれてはいけないと思ってしまって

最期の言葉のようなものを

息を引き取る瞬間にしか言えなかった。


ちゃんと伝わっているのだろうか?

聴こえているんだろうか?と

そんなことを自分の外側から言っている冷静な自分がいた。


そして息を吸い

呼吸が止まった瞬間に

ふわーーーーっと何か大きなものに包まれるような感覚になった。

なんともいえず温かいものに包まれている感覚。

これは羊水の中にいるような感じなんだろうか?

「ああ、ここにいてるんだ」と変な安心感があった。



その何か大きな存在は

いまだにずっと私を包んでいてくれて

変な話、私はその大きな存在にとても甘えさせてもらっている。

寂しくて泣きたくなるときに

その存在をもっと大きく感じるように

家の中で一番孤立している場所「トイレ」にこもって

しばし感覚を拡げる。


そうすると頭の中に

きらびやかな光が瞬速で流れ込んでくる。

眩しいくらいの光に満たされて

心にエネルギーを充電したかのような気分になる。


そうして私が何の不自由もなく排泄できることや

歩けることや見たり聴いたり食べたりできることに感謝する。





他の人にはないかもしれないけれど

私のそばには確実に「存在(元両親)」が存在する。


物理的に両親の肉体に会えないことは寂しいけれど

圧倒的に私は強くなった。

不思議なもので私自身の魂の芯みたいなものが

強く太くなったように思える。

今、この瞬間もその存在はここにいる。

とても穏やかなエネルギーとして存在している。


あんなに崩壊寸前だった我が家だったのに

脳裏には楽しかったことだけが映画のように再生される。

きっと私が死ぬときには

この映像が頭の中に流れるのだろう。


人は死んでも

家族だったり友達だったり身近な人が思い出すことで

生き続ける。

3次元的な考えだと

一人に対して一人かもしれないけれど

あちらの世界では同時に何人もの前に存在することも

常識なのかもしれないな。



そんなことを思う夕刻16時23分。

さて 晩ごはんの支度をしよう。


:*+:*+:*+:*+*:+*:+*:+*:+:*+:*+:*+*:+*:+*:+*::*+:*+:*+:*    

#招福ハレルヤのCDとiTunesです




大変大変感謝申し上げます