発達障害BAR@エデン(第二回)振り返り

昨日は1回目に引き続きくらげさん、あおさん主催の第二回、発達障害BARのバーテンをさせてもらいました。

1回目の振り返りはくらげさんの記事をご覧ください↓

第一回くらげ&あお発達障害バー@エデン開催報告と今後の展開についてってお話 https://kurage-official.com/2018/02/25/post-2997/

タイトルからしてちょっとギョ!とさ●なクンみたいな声を出してしまいそうな集まり、と思われる方も多いでしょう。ええ、そう思うのが普通です。でもやってみて、実際に目で見て聞くと違うってこともあります。もし「意外だった」「今まで気がつかなかった」「新しい見方ができた」と感じることがあるなら、それは人生にとって(と言うと大げさに聞こえるけど)とても良いことだと思うし、そしてそんなことは頻繁には起こりません。

私は発達障害の自覚も手帳もありませんが、くらげさん曰く

「手帳ないのに生きづらい代表ww」

と言うことでカウンターに立たせてもらっていますw光栄ですなぁ。

そんなわけで今回の発達障害BAR、2回目も私にとって「意外」であり、気づきの多い時間になりました。

発達障害BARのヌシについて

くらげさんとはシェアハウスのイベントで知り合って、その後仲良くさせてもらっています。私はパラレルな作業(お客さんと話ながらお通しを作り、お酒を作り、お勘定をし、気を配り)が割と好きで、自分主催でスナックまなみ(学園祭のノリのスナック。主に私の可愛い友達にドレスを着せるだけの会)、こじらせ童貞BAR、メンヘラビッチBAR、捨て犬広いBAR、あと覚えてないけどそんなニッチな会をやってきました。新宿ゴールデン街でも毎週ひとりでお店に立ってましたしね。私が裏方をやれば主催のくらげさん、あおさんがたくさん喋れるのでお誘いいただいている、と言うわけなんです。

くらげさんといえば、聴覚障害からの発達障害持ちで「ボクの彼女は発達障害」という本も出版されています。テレビにも出演されている業界の有名人。先日ご結婚されたパートナーのあおさんも可愛らしい方で、なんでしょう……こう……夫婦漫才が面白いふたり……と言いますか、見ていてほっこりしちゃうんですよ。

勉強しないこと

私は仕事(一応ライター)としても、趣味としても日々生きづらさを抱える人と接し、ああでもないこうでもないとない頭を働かせているわけですが、くらげさんにとても共感することがあります。それは「発達障害の人が集まるとどうしても、空気が当事者研究をする感じになってしまう。それはそれで良いことなんだけど、今日は勉強会ではなく、自分のコンプレックスや抱えているものを意識しないで飲める場にしたいので、リラックスしてほしい」というくらげさんの考えです。

当事者研究、すなわち自己分析も絶対どこかで必要だし、地図があれば無秩序な社会でも楽に生きていけます。でも私もよく経験があるんです。例えば同じメンヘラ同士が集まると、「私の場合は〜」「こう言う場合は〜」と分析が始まるんです。で、だんだん細かい言葉尻に苛立ってきたり、他人と比べて落ち込んだりして余計にダウンしていく。一番良くないのはメンヘラマウンティングが始まって、「俺の方がメンヘラだ」「いや俺が真のメンヘラだ」みたいになるんですよ。ギャグならいいんですが、アイデンティティをメンヘラに置いていると、本気でこう言う喧嘩が始まるんです。

勉強しないこと、しすぎないこと、というのも常にコンプレックスを通して自分を見つめすぎている人にとっては重要。一瞬でも自分についてあれこれ考えるのをやめ、人の話を聞くのに集中してみる。自分を手放してみる。いずれ抱えているものが「空気のような存在」になり、コンプレックスと自分、障害と幸せは実は関係のないものだと気がつくために必要なことではないでしょうか。

自覚と無自覚の間にあるもの

BARでたくさんの方とお話させてもらうと、

(障害と言う言葉が先走っているだけで皆さん割と「普通」だよな。よっぽど変わっている人は他にもいるし……。)と感じます。健常者も障害者もグラデーション。完璧な誰かと不完全な誰かがいるわけではないんですよね。当たり前なんだけど。そう考えると、自分の抱えているものに自覚的な彼らの方が、優しかったり、気を遣ってくれたり、寛容だったりします。無自覚な人ほど他人を攻撃したり、孤独になりがちです。自分を見つめ、受け入れることも才能の一つではないでしょうか。障害があるだけで「私なんか私なんか」と全てのことに遠慮する方も多いのですが、勿体無い!胸を張ってほしいなぁと思います。

そう言う私も、自分の弱さやかっこ悪さをどうしても受け入れられず、見栄を貼ったり、嘘をつかないまでも虚勢を張ったりしてしまいます。シャアアズナブルだってキザな言葉と仮面の下はロクでもない人間。(いや、私の本命ですけど)まぁ、人間だから多少は仕方ないかもしれませんが、自分に自覚的で、他人にも素直に生きるのは「助けてもらえる」道。自分を受け入れる……(もちろん長所も短所も)結構きつい作業だなぁ……。

障害がマイノリティで無くなる日

障害は「その社会において、生産的であるかどうか」という基準において判断されることがあります。一般企業で働けないから障害。(もしくは働けないと勝手に健常者が思っている)その考えの乱暴さに、多くの人が気がついてきています。健常者だって、組織に必死で適応しようとし、心身の不調を訴える人は数え切れません。また、結果を出していると思われる方でも部下に平気で心無い言葉をぶつけたりと、人間的で、組織に適合しているかと言われればYESと言えないと言う場合もありますよね。

企業に勤めてお給料をもらう。それができないのはなんらかの障害、と言う現在の考えでなら割とみんな病気、もしくは予備軍じゃね?と言う話になります。「私は大丈夫」と確信する人でさえ、ポキンと心が折れて精神科通いということはザラです。常識が作り上げた幻想の社会に適応するか否かで障害と決めつけてしまうのは、誰トクなのか。無理して頑張って会社に勤め、それができない人を責める図では誰も幸せになりませんね。当然ですが、マイノリティもマジョリティの数を上回ればマジョリティになります。そしてマジョリティの考えは常識になります。無理しないで他人も責めない。それだけでこの状況は変わっていくと思います。

「普通」じゃなくて当たり前。みんなが違うのが普通。そういう時代が来るのは遠い未来ではない気がしています。普通だと思っていたことが普通じゃなくなる日。普通に甘んじていた人が次は困る番になります。障害がマイノリティではなく、ただのヒトのグラデーションになる時、それが叶うのは多くの人の寛容さの上だけではないでしょうか。私にとって寛容さとは優しく何かを施すと言うより、あえて干渉しないことや、ただただ受け入れる、というイメージが湧いてきます。皆さんはどう考えますか?

発達障害BAR議事録:「平等とは何か?」

平等ってなんなんでしょう?

人間は生まれつき平等ではありませんが、だからと言ってそれを責めたりすることは間違っていますし、能力がずば抜けていても本質的に優遇されるべき人がいるというわけではありません。

くらげさんは「ここに壁があるとしたら、同じ高さで物が見れることが平等じゃないか。見ることができる高さはそれぞれだけど、下のものしか見ることができない人に社会が踏み台を作ってくれると、みんなと同じ高さに近づけるようになる。」と言っていました。なるほど。

能力値の異なるメンツとパーティーを組んで冒険に出る。今までだと「あるべきパーティー像」があり、そこに必要な能力値を振っていく考えでした。これからは「あるべきパーティー像」が明確にあるわけではなく、パーティーが楽しく旅できるように能力を活かしていく、方向になる……でしょうか。なるといいな。

障害だけでなく、男女平等という概念も今の人には難しいらしく、「女性専用車両は男女不平等だ!」とか言う人も発生しちゃうんですよね……。いや、そこ平等の概念持ち込むとこじゃねえから。逆に哲学的なことを考えすぎると、「命とは」「愛とは」と広がりすぎていってしまいます。「平等とは何か」と言う問いに、今の私はシンプルに人間的生活を送る上で差が開きすぎないこと、と考えるようにしていますが、平等、うーん難しい。

はい、そんなわけで色々考えさせられたBARでした。最後雑かよ。

みなさま、またお会いしましょ〜〜!第三回もあるのかな?あるはずなので、ご興味ある方はご連絡くださいませ^^



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