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-なんで言葉にするんだろう。


「言葉にできないものがあるんです。」

「言葉にしないと伝わらないよ。」

会社に入ってすぐ、私は先輩とぶつかった。
尊敬してやまない先輩。同じ美大で勉強してきたはずなのに、理知的で筋が通ってて、全部が正しいことのように聞こえた。(実際そうだった。)
だからこそ。これは小魚の骨みたいに、つっかえたまま残っていた。
(言葉を通さずにビジュアルにした方が、柔らかいままでいられるんじゃないの。)

言葉としてすくい取ると、
指の隙間から砂のように抜け落ちてしまう。
形にした瞬間に崩れるような、
そんな気持ちがあると思っていた。


       ・


映画を見終わったり、美術館を出たあとの
反芻している時間が好きだ。
思考がこんがらがってまとまらない。

あの高ぶりは何。

とりあえず深く息を吸い込む、酸素が脳にいく、吐き出すと気持ちよくて、でも頭が追いつかない。
深呼吸1。深呼吸2。芳醇な内省。

この気持ちは言葉にできないとずっと思っていた。

いや。感動したとき、言葉にするのが怖かった。言葉にすると「ふーん」で終わってしまう気がして。
心の奥の奥の柔らかいところ。それってすごくナイーブだから、大事に扱って、簡単に言葉にしない方がいいと思っていた。(熟れた桃とか、新玉ねぎの芯とかそういうイメージ。)

       ・


言葉にできない気持ちってなんだろう。
-なんで言葉にするんだろう。

余談1:言葉になったものと、ならなかったもの


今年、金沢21世紀美術館で開催された
現代アーティスト・内藤礼さんの個展。

小さなひと、糸やリボン、水滴…見落としてしまうような繊細なモチーフ。

残念ながらコロナ渦でひそやかに終わってしまったが
自然光に満たされた空間で、見える/見えないを行き来する
静かに揺さぶられる展示だった。


その中の一つに、小指の爪ほどのガラス玉が
天井からすだれ状に無数に連なった部屋があった。
ただ、驚くべきは全く見えないのだ。

ふわりとした光に満たされた展示室は
ガラス玉の存在をみとめない。
自分が動き、光の角度を変えることで、ようやく少しだけ見えてくる。

立ち止まると、途端に見えなくなるガラス玉。
教室ふたつ分くらいの部屋に、百以上連なっているであろうそれらは、
文字通り光を当てないと見えてこない。

あんなに無数にあるのに
見ようとしても見えない。
かと思えば、少し体を傾けるときらっと見えるものもある。
(ひとつだけぶら下がった鈴だった。)

美術手帖webより


角度によって在りようを変えるガラス玉。
見えているものだけが全てじゃない。見えなくてもそこに在る。

他者と自分。言葉になったものとならなかったもの。
言葉にならなかった感情も確かに存在し、複雑に関わり合って生きている。

静かでやわらかな心地よい空間で
勝手に意味を結びつけて考えてしまう。
(作者の意図は違うみたいだけど、まあ別にいいでしょう。)

そして思う、
隣にいる人はなにを感じているんだろうか。
聞いてみたい。

ガラス玉の部屋は7:33から(映像だと少し見えるけど、肉眼だと本当に消えるんです。)


余談2:笑う川と、水の中の月

今年8月に竹芝にオープンしたダイアログ・ミュージアム「対話の森」。

ダイアログ・イン・ザ・ダーク、ダイアログ・サイレンスと称して、
暗闇の世界、音がない世界での体験を提供している。(コロナ渦中は、ダークは“ライト”として対話をメインに非接触を保って運営されています。)

全盲の方や、ろう者の方が、それぞれの世界をアテンドしてくれる。
その中で教えてもらった印象的な話。


       ・

水の中の月

ネパールから来日した全盲のニノさん。信仰として満月の夜にお祈りをする文化があった。
「どうして月にお祈りするの?」幼いニノさんは母親に尋ねる。
「月はきれいだから」「きれいってなに?見えないからわからない」「…」

次のお祈りの時。ニノさんは母親に庭に連れていかれる。
そして教えてもらったのだ。
水を張った、おおきな丸い桶に手を入れられ「これが月だよ」。
桶は丸かった。(月は丸いんだな)
桶は底が深かった。(月は遠くにいるんだな)
水はひんやりと冷たかった。(月もきっと冷たくひやりとしているんだろう)
そうしてニノさんは月を知ったのだそうだ。

「見えなくても、月はきれいだということがわかりました。」

笑う川

もうひとつ。ろう者の方から、教えてもらった。
せせらいでいる川は笑っている。
台風で荒れている川は怒っている。
そんなイメージだそうだ。(確かに…と思った。)


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知らない世界。感じられない世界。
言葉を通じて見せてもらった気がした。

心が震える体験を教えてもらったのだ。


余談3:感じたことは、体が覚えてる


つい先日、生まれ育った街を歩いてみた。
転勤で越してきた山形の田舎町。
住んだのは小5までだから、通学路を歩くのは18年ぶり。(月日、ハクタイの過客すぎてやばい。)
ずっと忘れていた感触が蘇る。

春。田植えの時、足の指と指の間に
にゅるりと入り込んでくる土のぬるい感触。

夏。給食の牛乳瓶にかいた汗。
冷たいものがそれしかなかったから、心待ちにしてた。

冬。雪の冷たさ、かじかんで動かない手。
遊びながら登校すると、1時間目のノートがミミズになること。

そして秋。

無性に切なく嬉しくなる、こうべを垂れた稲穂の匂い。

風が吹く。金色の一面が揺れる。稲のさざなみ。

嬉しい、嬉しい、切ない。


あ〜、こうだったな。
こんなこと感じてたな。なんだ、思い出せるじゃん。

これは夏。秋はもっと金色。

-なんで言葉にするんだろう。

言葉は強い。
その時々に意味を与え、都合よく、優しく、お守りのように寄り添ってくれる。


でも、じゃあ。

言葉にしないと、ないことになるんだろうか。
なかったことになってしまうのだろうか。

そんなことはない。
ただちょっと、忘れやすくなるだけ。

「一度あったことは忘れないものさ…思い出せないだけで。」

千と千尋の銭婆の台詞。今になって響いてきた。


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言葉にすることで、消えてしまう
“ことばにならなかったものたち”が居るようで恐ろしかった。

ずっと、こぼれてしまう気持ちにばかり目がいっていたが、
言葉にするというのは
その時々で大切なものを見つけ、
他者に、そして自分に伝えるということなのかもしれない。


どこをすくい取るか、自分にとって大事な部分を見つけるすべ。

       ・

伝えたいし聞いてほしい。
見える世界が、感じる世界が違うこと。

その時、言葉から気持ちが
ちょっとくらい溢れても、
感じたことはなくならない。

言葉にすることを、怖がらずに生きていきたい。
そんなことを思った。




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