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コロナからどんな影響を受けたか?

 特に価値観や考え方が大きく揺すぶられるということは無いけれど、ただ、以前気になっていたこと、考えるのをすっかり止めていた疑問が再浮上してきたという感じだ。その一つがドイツの児童文学者「ミヒャエル・エンデ」が残した「エンデの遺言」だった。「お金ってなに?」

この間の私の暮らしは、ぼんやりとした、とりとめのない思考と、現実の世界が両輪のように同時進行している。

 畑に種をまき、苗を植え、日に何度も成長の変化を見に行く。老犬と散歩する。かつては、あんなに筋肉質で飛ぶように走っていたのに、今は坂道を懸命に歩いている。合間を見ては、瞬く間に大きくなってしまう草を刈る。草とは毎年繰り返される追いかけっこだ。今年こそとは思うが、ほとんど勝ったことがない。いつまでこういうことができるのやら? もうこれ以上機械はいらない、それにたかがこんな小さな畑でと拒否して来たけれど、体力的にもきつくて友人と共同で家庭菜園用の耕運機を買うことにした。また周りでは野菜作りに目覚め「にわか百姓」を名乗る人も出て来た。みんなで使えば一台くらいあってもいいよね。

 犬との散歩の道すがら、時間とお金について考える。「タイム イズ マネー」「時は金なり」。この言葉を大人になって初めて聞いた時、「そうだったの?」と感心したものだ。子ども時代には無縁な言葉だったからだ。

時間て何? お金って何? 一番最初に浮かぶのは、「時間だけは等しく万人に訪れるもの。どんなに富や権力を手に入れようと永遠の命を手に入れることは出来ない。」時間はお金のように、貯めて置くことが出来ない。一方お金は、貯めて置くことが出来る。またそれは貯めて置くだけで、利子がついて自己増殖していく。人の労働とは無縁に。

労働に費やした時間の対価としてお金を得るので、「時は金なり」に違いないけれど、それが生きるための中心になりすぎている。かえって、労働に励んでいないと、不安になってしまう。だから「忙しいことはいいことだ。暇ですなんて恥ずかしい。」になってしまう。

 時間ってもっと自由自在で豊かなものなのではないか? カチカチ時計の音に追い立てられるように働いて、対価として手に入れたお金の代わりに私たちが失っていくものは?

 亡くなる前年の、1994年、エンデは自ら企画をNHKに提案、それが「現代の貨幣システムを問う」をテーマにした「エンデの遺言」という番組だった。当時私は、働き盛りで、日々の仕事に疲れ切っていた。でも「この仕事に費やす時間」は「充実」でもあって、もしこの時間が無くなれば、見たくないものに直面してしまうような怖さもあった。何のために? 心の奥底には、ある漠然とした「空虚感」があって、ごまかしているだけとも思っていた。

新コロナウィルスが、世界のお金の流れを止めた。みんなが幸せに生きるためには「どんなお金」が必要なんだろう? 「お金の在り方」を問い直す、そんな転機をコロナウィルスが運んできてくれたように思う。また、そうあってほしい。





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