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『画廊劇 焚書都市譚(三月版)』

LOKO GALLERYにて開催中の『、譚 近藤恵介・古川日出男』展。先週の23日には公開制作とオープニングレセプションがあり、参加した。3月30日『画廊劇 焚書都市譚(三月版)』を観に行く。小雨ですらないような、水滴が時折降り、雨雲の色合いの空を見ながらLOKO GALLERYを目指して歩いた。

LOKO GALLERYの入り口で受付をする。50名の予約は満席で、それぞれ10人ずつが一グループとなって「序破急」の「序」にあたる部分を行動すると言われた。

『画廊劇 焚書都市譚(三月版)』[出演]
古川日出男(小説家)、近藤恵介(画家)、北村恵(俳優 / from ワワフラミンゴ)、 河合宏樹(映像作家)、宮下和秀(ギャラリスト / from LOKO GALLERY, MUG)、 田中耕太郎(ギャラリスト, 音楽担当 / from LOKO GALLERY, しゃしくえ)

出演者のうち古川さん以外の出演者たち5人がグループのリーダー兼班長になって、グループを引きつれてこの画廊全体を巡るという趣旨になっていた。

この画廊劇は(四月版)も上演されるので、もし、行く人がいたら内容がわかってしまうので、下の部分は見ないことをオススメする。ひとつ言えることはこの『画廊劇 焚書都市譚』とはLOKO GALLERYという空間すべてを使うことによって、観客と出演者が、そして、いくつかの芸術がまざりあいリミックスされる。ハイブリッドされた芸術空間になっていたということ。

↑僕は北村グループだった。二番目に画廊に入っていく。すべてのグループがそれぞれの場所へ誘導される。古川さんの声がスピーカーで聞こえてくる。アナウンス係のように、リーダーたちと状況確認していく。僕たちはまず、一階部分ではなく二階に行くことになった。床にはカタカナで書かれた文字がプリントされた紙が床にバラまかれている。壁に映し出されている映像は一階の展示スペースで行われている。古川さんと第一グループの宮下さんによる会話による劇が始まる。獣にまつわる話、ジビエ、イノシシ、ウリ坊、眠れない男にとって、いやいつからが明日で昨日なのか。

↑古川さんと宮下さんによる劇が終わるとグループは移動することになる。僕ら北村グループはエレベーターを使って地下一階に降りる。そこには一階の状況が映っているスクリーン、その前に古川さんがいる。ここで指示を出していたのかがわかった。近藤さんや田中さんの自己紹介と今回の展示についての説明がある。だから、これは美術館で学芸員に説明を受けるようなものすらも取り入れられている。最初にワンドリンクを頼んでから移動をしている。焚書ブレンドというホットコーヒーを僕は飲んでいた。だから、匂いがある、喉が動いて胃に落ちていく。古川さんと近藤さんによって作られた美術がある。それを見る。この画廊という空間を含めて、見て体感する。スピーカーからは先ほどの劇に出てきたウリ坊たちの鳴き声やサンプリングした音、ギタリストによる音の響きがある。耳で聞く。グループで動くことで知っている人、知らない人が近くにいる。触れなくてもそこには椅子に座って見るのではないから距離が変わり続ける。触覚に似たものが、センサーが常に意識される。それらの感覚がこのLOKO GALLERYの中にあった。

↑地下一階から一階へ移動する。いくつかのグループが同じ部屋(空間)にいることも起きてくる。古川さんが上がってきて近藤さんと北村さんと『すばる』に掲載された小説『焚書都市譚』の朗読が始まる。映像作家の河合さんもいつもは撮る側であるのだが、撮られる側になる。古川さん以外の出演者は『焚書都市譚』を朗読していた。しかし、記憶とは曖昧だ。宮下さんと北村さんはしただろうか、いや、していない? 二人は古川さんと演じたから、いや、北村さんはのちに朗読をしていた。一人ではしていないだけか。

地下一階、ドリンクを出していた普段はカフェスペースの珈琲小学校(という名前だったはず)、一階、二階、とありグループで移動していく間は個人での移動は基本的に禁止されている。だから、観れない部分が出てくる。つまり観たいものが観れない時間帯や場所も存在しうる。

この考え方は古川さんに一貫しているように思われる。選ぶということは選ばないということ。福島の郡山で開催されていた『ただようまなびや』において、参加申し込みをする時にタイムスケジュールを見て、自分が受講したいと思う先生の講座あるいは授業を選ぶことになっていた。同じ時間にいくつもの講座がある。体はひとつしかないから、受けたいものが重なってしまうとどれか一つを選ばないといけなかった。取捨選択をすること、それも学ぶということだった。意識的に自分で選ぶこと、だから、選べなかったことについてもイメージや心残りはある。選びたくても選べないものもある。選んだものが自分にとって合うか合わないかもわからない。それでも、個人の意志で決めることが大事なのだと。

画廊劇の「序」にあたる部分では自由は効かない。グループ移動をする。必修科目のようだ。最初に渡された紙にカタカナで和製英語を書いてリーダーに渡すと、そこからは「破」「急」になっていく。グループは解散されて、各自が観たいと思う場所に勝手に移動して、画廊劇を観劇する。だから、ここでも選んだ場所によっては自分の目では観れない、あるいはスクリーンに映ったもの、スピーカーによる音で、いくつかのパターンがそれぞれに起きてくる。

↑僕はとりあえず一階のドア付近にいた。出演者を捉えるカメラのレンズに入らないような場所で目の前で起こる、進むものを見ていた。

地下では近藤さんによる制作が進められていたようだった。それも一階にいたら見えない。わからなかった。さきほど集められた紙は一冊に閉じられて本になった。GALLERYの入り口に本は持っていかれて、焼かれる。

焚書される。書かれた言葉は室内にいた時に近藤さんによって読まれた。言葉は、音になって、刻まれて、たとえ本が燃やされても書かれた事実は残る。

外で燃える僕たちの言葉の本。GALLERY内に本が燃える、紙が燃やされた焦げた匂いが届いてくる。灰になっていくもの、一階では古川さんが小説『焚書都市譚』ラストシーンを朗読している、朗読であり舞台に立つように声だけでなく、全身で物語を読んでいく、語ると共に動く。

空気はかき回されて、届いてくるのは燃える匂い。観客の視線は一定せず、それぞれが観たいもの、気になるもの、に向けられている。スマホやカメラでこの瞬間を撮る。巻き込まれている。この空間の中で出演者と共に観客もこの五感を動かされる画廊劇の一員になって、終わる。

古川さんの作品には時間と空間というものが大きな指針というか、受け手に感じさせるものとなっていると思う。そこには記憶と記録が結びついていく。

永遠は刹那の中にあり、刹那は永遠の中に、記憶と記録はピッタリと重なり合うことはない、ズレる、スライドではなく、ただ差異がある。差異がこの個人だけのものであり、歴史の破片だ。そのいくつもが重なるものが空間であり、また大きな歴史という時間だ。

画廊劇は参加型の演劇、演劇空間だと言える。あらゆる芸術がミックスされていく、誰もが当事者になっていく。言葉について考えるきっかけになる要素がいくつもあった。言葉によって思考し、思考がその人を形作る。創作することは自分と世界が、自分と他者がいかに関われるのか、関われないのか、その境界を手探りしていく行為なのかもしれない。

LOKO GALLERYでの『画廊劇 焚書都市譚(三月版)』を観劇、参加してそんなことを感じた。古川さんたちに挨拶をして外に出る。

雨が、雨粒は大きくなっていて世界を濡らしていた。今降っていてよかった。本を燃やした時にも降っていたのかもしれないが、炎は大きく空に向かっていた。雨に降られながら家に向かって歩く、一階の屋内から見た赤い炎が思い起こされる。雨、最後の「学べよ」という朗読が、残っていた。

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