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『「心に埋めたものが流れ出す」小説だからできること』

編集スタッフをしている「monokaki」最新の特集「物書きの隣人」は『82年生まれ、キム・ジヨン』など多くの韓国小説を翻訳されている斎藤真理子さんにお話を伺いました。フェミニズムということ、時代が大きく変化している時には当然ながら価値観も変わりだす。しかし、それが許せない人も当然いる。これはフェミニズムだけでなく、差別主義者が台頭していることも関係している。僕自身も小説や映画や自分が好きな文化で植え付けられたもの、そして変わっていくものに触れながら考えることが増えている。


現在、アップリンクで公開中の『シスターフッド』もフェミニズムというものを考えるきっかけのひとつだった。


シアターフォーラムで公開中の『金子文子と朴烈』もだった。この二作品はぜひ映画館で観て欲しいと思う。


公開は終わったが、『蜘蛛の巣を払う女』は世界でも売れに売れた『ミレニアム』シリーズの第4作の映画化。

第1部の原題 "Män som hatar kvinnor" は直訳すると「女を憎む男達」であり、シリーズ全篇を通して、女性に対する蔑視および暴力(ミソジニー)がテーマとなっている。これは著者が15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃していながら、何もせずその場を逃げ去ったことに由来する。著者はその翌日、被害者の女性に許しを請うが拒絶される。その時以降、自らの臆病さに対する罪悪感と女性暴力に対する怒りが著者を生涯つきまとうようになった。その被害者の女性の名前は「リスベット」で、これと同じ名前が本作の第二の主人公に与えられている。(wikiより)

原作者であるスティーグ・ラーソンのこういう思いがあり、同時に彼は反人種差別・反極右を掲げていたジャーナリストだった。それらがこの『ミレニアム』シリーズには全面的に出ている。


ここからは連載させてもらっているメルマガ『水道橋博士のメルマ旬報』で去年の終わりぐらいから日記に書いていた関連するものを。


12月10日

チョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』読了。
小説という形を取りながらノンフィクションのように、82年に生まれた女性にキム・ジヨンという名前がいちばん多いらしくこのタイトルみたい。キム・ジヨンが生まれてから、同時に祖母や母が生きてきた中での女性に起きていた問題や男性の無理解や家父長社会における扱いについて、困難について書かれている。
日本でも似たような、近いことはあって、読んでいて男性として居心地が悪く思う部分も多々ある。ただ、知らないといけないと思うのは自分が充分に無理解の側にいる可能性が高いからだ。知ればまだ無意識でやったり言ってしまっていたことについても意識できるし、考えることができる可能性はある。きっと日本でも多くの人に読まれると思う。
『獣になれない私たち』最新話で恒星が「性別関係なく人間同士でいられる相手がいるとしたら貴重じゃないですか?」という台詞みたいなことに通じてる部分もこの本にはあると思う。


1月9日

仕事から帰ってきて、買ったままで読んでいなかった韓国の作家ハン・ガン著『すべての、白いものたちの』を読み始めた。それぞれが1ページぐらいの短いもので連なっている作品だが、言葉遣いがまるで詩のように感じられた。
詩篇であり紙片、ふうっと息を吐けばひらひらと舞うかのような、真っ白なわたあめが水にふわりと溶けていくように、読める。エッセイのようでもある。
「白い」ものたちが連なって再生してく一作。紙も何ページか毎に違う色合いになっていて、時折挿入される写真も装丁の写真のようになにも言わないのにとても雄弁に思える。


1月13日

柳澤健さんの『1964年のジャイアント馬場』文庫版を木曜日に大盛堂書店で買っていたのを少しずつ読む。BGM代わりにAmazonプライムで『有田と週刊プロレスと』を流していたら、博士さんがゲストの回があった。僕はプロレスものではないのだが、柳澤さんの著書などをいくつか読んでいるのは、メルマ旬報界隈でプロレスや格闘技好きな人がいてその影響だったりする。ジャンルを越えて届くものは当然ながらおもしろい、それは間違いない。ジャイアント馬場のこと全然知らなかったけど、アメリカで活躍したことや契約とかしっかりしていたことを知った。
なんで日本の出版業界とか創作にかかわる業界って契約書とかきちんと作んないで、口約束で話が進むんだろうかといつも思う。結局、会社でサラリーマンやってる人が大多数で、フリーランスやってる人たちの個人の権利とかについてきちんと考えられてないからなのかなあ。だって、契約書もなくて連載してるとかって、いつでも首切られるし、保証もされない。会社には有利だけど個人にはきつい。まあ、原稿依頼の最初のメールとかで原稿料書いてない人は絶対に信用しないけど、でも、そういうやつ多いんだよね出版界。
 
『1964年のジャイアント馬場』の中で、アメリカにおいて全盛期(1950年頃)だったプロレスについて書かれている部分があって、そこで「プロレスは女性たちの欲求不満を解消した」という段落がある。プロレスをテレビで見ていたのは主に女性だった。また、戦時中のアメリカ女性は自由を手に入れていた。なぜならアメリカは戦地になることはなく、男たちは戦争に忙しかったので、女性たちが外に出て働くことを推奨されていた。しかし、本来、アメリカという国は保守的な国であり、戦争が終わると女性たちは再びに家庭に押し戻されて、専業主婦として家事をすることを求められた。以下引用。
 
「(メディア研究家チャド・)デルの見解によれば、女性の自己表現を抑えつけようとする社会的圧力が強まってきた時、プロレス会場へ出かけたり、テレビでプロレスを観るという行為は、アメリカ女性にとって、自分は自由であり、女であり、自己主張する権利を持っている、ということを示す手段になったという。」
 
へえ、アメリカでも昔はそういう感じだったんだと思いつつ、プ女子なんて言葉が聞かれるほど、周りでもプロレスに行く知り合いの女性がこの数年でかなり身近でも増えている。メルマ旬報連載陣でもある棚橋さんだったり、アメリカで活躍している中邑さんたちがプロレス冬の時代からずっと支え続けてきたからこそ、今の人気に復活に繋がっているというのは門外漢な僕でも知っている。
最近のフェミニズムや#me tooなどのことSNSだけではなく、従来の価値観による時代錯誤な発言や表現が問題視されているが、アメリカの戦後の女性たちが求めていた自由の体現の一種、エンタメとしてのプロレスがあったように、日本でももしかするとそういう要素が無意識にプロレスに求められていて、それが人気に後押ししたということはないのだろうか? と思った。
フェミニズムとプロレスの関係性みたいな研究してる人いるのかなあ。どうなんだろう。たぶん、日本だと女性の自由さみたいなものを求める表現活動の1つが70年代の「花の24年組」の漫画家たちが表現したものにあったんだと思う。
 
文庫版で追加収録された終章「ショーヘイ・ババとシンスケ・ナカムラ」を読んでいるとメインはWWEで活躍している中邑選手であるのだが、危機的な状況にあった日本のプロレスを救ったのは、意外な人物だった。とあり、その人物が棚橋さんであり、その流れを読んでいると自然と涙が出てしまった。
なにかを引き継いでいくこと、新しく時代を作ること、陽の当たらない時代を支えること、歴史の光と陰、喜びと苦しみ、どんなジャンルにも世界にもきっとある人間のドラマを描き切ったこの文庫は、僕みたいなプロレスに詳しくない人が読む方が知らないことを知れるということもあって、より響くのかもしれない。


1月18日

仕事終わってから下北沢のB&Bで翻訳家・斎藤真理子さんと書評家・倉本さおりさんのトーク「『82年生まれ、キム・ジヨン』ベストセラーが示唆すること」を聞きに。
日本でも重版がかかり、ヒットになっている『82年生まれ、キム・ジヨン』をメインにフェミニズムにおける日韓の違いや、男女間にあるもの、韓国でどう受けとけられていたのか、韓国でのフェミニストたちが今どう思われているのか、言語の違いによる日韓の差だけではなく、韓国の男性によるこの作品の嫌悪の理由や徴兵制というものについて。また、日本で発売になった際に最初にアマゾンジャパンに書き込んだのは韓国のこの作品を否定している人(韓国にはアマゾンないらしい)で、さらにこの作品を肯定する女性がそれに対してコメントをというように日本人がまだ読んでないうちにコメント欄で韓国の人たちが書いていたなど、大きな広がりを持つことになった作品についての話だった。
「男性が生きづらい世の中」になったという声も聞くけど、それは違っていて、今まで女性が抑圧されていたこと、声を出せなかったこと、男性社会で当たり前にされていたけど嫌だったことについて当事者から声が出て可視化されてきたということの意味をきちんと考えていかないといけない。


2月10日

昼前に起きて洗濯したり、もろもろ買い物に行ったりしてから読みかけていた橋本治著『思いつきで世界は進む』の続きを。最後に書かれている「自己承認欲求と平等地獄」で最近思っていることに通じることが書かれていた。以下引用。
 
“ 世の中って、そんなに人のことを認めてなんかくれないよ。「あ、俺のこと認めてくれる人なんかいないんだ」と気がついたのは、もう三十年以上前のことだけど、気がついて、「認められようと認められまいと、自分なりの人生を構築してくしかないな」と思って、「人生ってそんなもんだな」と思った。取っかかりがない、風の吹く広野を一人行くとか。引いた「凶」のおみくじにはそう書いてあった。そう思ってしまうと、自己承認欲求というのは、不幸な子供が求めるもので、大人が求めるようなものではないと思うのだが、今や大人は、みんな「不幸な子供」なんだろうか?
そうかもしれない。「自分はもう一人前の大人なんだ」という明確な自覚を持てなかったら、それはもう「不幸な子供」になってしまうだろう。
自己承認欲求というのは、今や当たり前のように広がっているらしい。ということは、「自分はその存在を誰かから認められてもいいはずだ」という願望を持つ人が当たり前に存在しているということで、しかもその「認められてもいいはずだ」で提出するものが。どうってことのないものだったりする。つまるところ、誰もが皆、「私は認められてしかるべきだ」と思う根拠を勝手に持っているということで、人間の平等はそのような形で達成されちゃったらしい。” 


BOOKSTANDに書いたレビュー(多少は関係があると思う)



 

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