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『ウィーアーリトルゾンビーズ』

そうして私たちはプールに金魚を、」が第33回サンダンス映画祭ショートフィルム部門でグランプリを受賞した新鋭・長久允監督の長編デビュー作。音楽を通して成長していく子どもたちの物語を、ギミック満載の映像表現や独特のセリフ回しで描く。火葬場で出会ったヒカリ、イシ、タケムラ、イクコは、両親を亡くしても泣けなかった。ゾンビのように感情を失った彼らは自分たちの心を取り戻すため、もう誰もいなくなってしまったそれぞれの家を巡りはじめる。やがて彼らは、冒険の途中でたどり着いたゴミ捨て場で「LITTLE ZOMBIES」というバンドを結成。そこで撮影した映像が話題を呼び社会現象まで巻き起こす大ヒットとなるが、4人は思いがけない運命に翻弄されていく。「そして父になる」の二宮慶多、「クソ野郎と美しき世界」の中島セナらが主人公の子どもたちを演じ、佐々木蔵之介、永瀬正敏、菊地凛子、池松壮亮、村上淳ら豪華キャストが脇を固める。第69回ベルリン国際映画祭ジェネレーション(14plus)部門でスペシャル・メンション賞(準グランプリ)、第35回サンダンス映画祭ワールドシネマ・ドラマティック・コンペティション部門で審査員特別賞オリジナリティ賞を受賞。(映画.comより)
 まるでゲーム画面のようなポップでカラフルな映像や音楽の長久允監督『ウィーアーリトルゾンビーズ』(6月14日)。
「これはあの伝説の4人組の物語だ」と予告編の最初に字幕が出ます。ヒカリ、タケムラ、イシ、イクコの4人の中学生の共通点は両親が亡くなっているということのようです。「おい眼鏡、バンドやるぞ」とイクコが言い、4人はポップなバンドを組む事になるようです。また、警察官(池松壮亮)が、「いつだって、時代は子供が変えるんですよ。キッズ・アー・オールライトですよ」と熱く語っています。
 ここからは妄想です。「このバンドはさ、僕らが、ゾンビが感情を手に入れるための冒険なのかもしれない」とヒカリが予告内で言っています。新世紀に入ってから9.11、リーマン・ショック、そして東日本大震災が起きました。
 ゼロ年代に入った時、僕は個人的には世紀末の暗さを吹っ飛ばすようなポップでカラフルな時代がくると思っていましたが、逆に世界はどんどん色を失っていきました。「平成」が終わり、20年代が来ます。この映画のように子供たちが世界を色づかせてくれるのなら、僕ら大人は見守りながらも、陰ながら手助けができればと思うのです。彼や彼女たちの感情が色鮮やかに咲き誇るのを見たいと思いませんか?

↑は『週刊ポスト』6月14日号に掲載された「予告編妄想かわら版」に書いたものです。映画の予告編を見て内容やオチを妄想するというもので、2年ぐらいやっています。今日、シネクイントで『ウィーアーリトルゾンビーズ』を観て思いっきり勘違いしていることに気づきました。「警察官(池松壮亮)」と書いていますが、彼はバンドマネージャー役でした。予告編だけ見て書いているので間違っていました。


雨降りの中、渋谷まで歩いていく。映画公開前から友人知人と様々な人がこの作品について推していて気になっていた。また、タイトルにある「ゾンビ」というワードにも興味があった。公式サイトに書かれている物語のあらすじはこんなものだ。

両親が死んだ。悲しいはずなのに泣けなかった、4人の13歳。
彼らはとびきりのバンドを組むと決めた。こころを取り戻すために—
出会いは偶然だった。よく晴れたある日、火葬場で出会った4人。ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコ。
みんな、両親を亡くしたばかりだった。
ヒカリの両親はバス事故で事故死、イシの親はガス爆発で焼死、
タケムラの親は借金苦で自殺、イクコの親は変質者に殺された。
なのにこれっぽっちも泣けなかった。まるで感情がないゾンビみたいに。
「つーか私たちゾンビだし、何やったっていいんだよね」
夢も未来も歩く気力もなくなった小さなゾンビたちはゴミ捨て場の片隅に集まって、バンドを結成する。
その名も、“LITTLE ZOMBIES”。
やがて社会現象になったバンドは、予想もしない運命に翻弄されていく。
嵐のような日々を超えて、旅のエンディングで4人が見つけたものとは―

↑に「全世界的に「死に損ないの欠陥」が存在し続けるメタファとしてゾンビ映画やゾンビを題材としたものが作られてヒットしたのだと思った。」と書いている。「ゾンビ」という存在が今の世界を言い当ててしまっているようにこのところ考えていたのは、このマーク・フィッシャーの著作を読んでいたからだった。彼は鬱病で自ら命を絶っている。主人公たちが名乗る「リトルゾンビーズ」はこの時代を生きる十代を主役にした作品として、非常にうまく言い当てているように思えた。


また、最近出版された星海社新書の木澤佐登志著『ニック・ランドと新反動主義』を読んでいると出てくるのが「ヴェイパーウェイヴ」や、マーク・フィッシャーの「憑在論」とか彼の著書『わが人生の幽霊たち』などであり、長久允監督『ウィーアーリトルゾンビーズ』の予告編などを見て、僕の中ではどこか繋がっているように感じられていた。

『ニック・ランドと新反動主義』からの文章やマーク・フィッシャーの著書を読んだ感想として、新自由主義の成れの果てとしての死ねないゾンビ、ミレニアル世代が幼少期を過ごした80年代としてのノスタルジアを喚起させるものとしての80年代を舞台とした『ストレンジャー・シングス』や『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』という作品とそのヒットがあるのだろうと思った。それは未来ではなく過去へユートピアを求める心生に根ざしているように思われる。

以下新書からの引用。

ベリアルのロンドンは、ふたたび見られた過去の夢であり、放棄されたジャンルの遺物を、夢幻的なモンタージュのなかで凝縮したものである。彼の生み出す音は、メランコリーよりも喪の作業によってできているのものだ。なぜなら、彼はいまだに失われたものを熱望しているからであり、いまだにそれが戻ってくる希望を放棄することを拒んでいるからである
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち』
ヴェイパーウェイヴの作り手の多くは80年代〜90年代前半生まれのミレニアル世代に属している。ビデオゲーム、ダイヤルアップ接続のインターネット、深夜のTVコマーシャル、きらびやかなショッピングモール等々、ヴェイパーウェイヴが参照するのは彼らが幼少時代に触れていた在りし日の失われた消費文化だ。
社会学者のジグムント・バウマンは著書『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』の中で、ほとんどのミレニアル世代は将来生活条件が悪化すると予想しており、親世代が手にした社会的地位を高めるどころか、失うことを恐れている最初の戦後世代であると述べている。拡大する不平等、福祉の削減、増加する移民、深刻な気候変動、AIが雇用を奪うのではないかといった恐れ等々・・・。米国人の上位10%がアメリカの富の86%を保有しているのに対して、その他の90%の人々が保有しているのは国富のたった14%にすぎない。ミレニアル世代にとって、「未来」はもはや「喪失」に他ならないのだ。こうした社会不安と比例するかのように、人々の間で過去への憧憬やノスタルジアが広がっているとバウマンは指摘する。レトロピアは、未来ではなく過去へユートピアを求める心生に根ざしている。
多くのアメリカ国民、特に消滅しつつある中産階級は、もっと安定してもっと豊かだった時代と繋がるためにノスタルジーを欲求している。昔のいい思い出だけを集めて、いっしょくたに混ぜ合わせて、奇妙なノスタルジックのハイブリッドを作るんだ。フランケンシュタインみたいに、消費者のフェティシズムとアメリカのノスタルジアを混ぜ合わせた総体。その前面に現れるのが国民意識だ。
「ジェームス・フェラーロとショッピング モールの美学」

アメリカの反リベラル運動に「ゲーム」が利用されていることの意味
↑こちらも木澤さんにより記事。

「ゾンビ」と「幽霊」の時代に加えて、「NPC(non-player characters:ノンプレイヤーキャラクター・人間が操作しないキャラクターのこと)」というのはどこかしらリアリティがないだろうか。

例えば、自分の真後ろの世界は真っ暗で振り向くと横スクロールのアクションゲームのように現出し、自分が進む方向がその度に現れては消えるというような。スクロールされ通り過ぎた場所には戻れない、ファミコン時代のアクションゲームなどはそういうものが多かった。この記事の中にある「NPC」と輪廻転生について、こんなに人口が増えたら、魂のない人間、まさしく「NPC」が増えていると言われるとなるほどなというイメージが沸くことも理解できなくはない。
日本やアメリカにおいて安倍政権やトランプ政権を支持するのは、もう未来というものにはなにも希望が存在しなく、みんな過去の輝かしい未来を夢見た昔にしか、レトロピアにしか希望を持てないというのは、『ニック・ランドと新反動主義』を読んですっとわかったことだった。


ああ、もう絶望しかないからみんな後ろ向きの希望にしか目を向けないし、ほんとうのことを言ったって聞かねえわ。だって、いいことないし、背負うものや負荷ばっかりだから。ここで「成熟」とか大人になるとかの問題が出てくるんだろうけど、まあ、無理だよね。戦後から逃げ続けてきてそのツケを人口の減った若い世代が最終的には払わされることになる。これは芸術の問題でもあるのだろう。それらが描き出すはずの未来への希望や夢すらも資本主義の中にあり、オルタナティブなものやアヴァンギャルドという領域がほぼ失われたたからこそ、後ろ向きの希望にしかみんな目を向けれないという面が間違いなくあるのではないだろうか。


「アメリカ・ファースト」と思っていなくても大声で言われれば、みんなかつての夢を再び見ようとする。それにどんなに正しい世界の現状を嘆いてもリベラルは勝てない。

二度目の東京オリンピックや二度目の大阪万博など当然ながら不要でやる必要がないと僕は思っているが、後ろ向きの希望しかないのだからまかり通る。終わった後には「祭りのあとにさすらいの日々」すらも残されていない可能性が高い。

国を挙げての大きなイベントの波及効果として、これから先の国やシステムなどのグランドデザインや先進性のあるアイデアが形になって、生活にも及ぶようなポジティブなものがわずかでもあれば、なにかが変わるかもしれない。しかしどうだろう、この国の政治家や政府の現状、ジャーナリズムの弱さに国民の無関心を見ていれば期待のしようもない。だって、もう明るい未来がどう考えてもやってこないことがわかっているのだから。

やはり、過去の栄光に後ろ向きの希望を見出すしかない、これはたぶん、教育と芸術が新自由主義とグローバリズムによって完膚なきまでに負けたということのような気もする。違うかもしれないけど、たぶん、そう。
そして、ゾンビと幽霊。


今、アメリカで日本の90年代ポップスなどの音楽の再評価が高まっている理由としては、90年代の日本はバブルだった、景気がよかったけれどアメリカは大不況だった。同じ時代にありえたかもしれない可能性としての日本の好景気にあふれ流れていた音楽たちに彼らは夢を見ている、見たいからだ。80年代を舞台にしたドラマや映画をレトロピアとして懐かしがりながら2020年代が来るというのに楽しんでいる。リバイバルのリバイバルの繰り返しのように、ショッピングモールが輝かしかったあのころ、現在はもはや廃墟と化した残骸がアメリカ中にある。
しかし、そこには不況になっていなかったかもしれない輝かしい90年代の夢として音楽の、可能性として日本のあの頃の音楽が鳴っている。


あるいは海外で日本のサブカルチャーにおけるキャラクターのコスプレをすることでマイノリティ(移民や少数民族、その国でのマイノリティ)が自身のアイデンティティをわずかな期間でも架空の存在にゆだねることで、また、親たちの祖国や失われた国などに自分たちのアイデンティティを見出しづらい人たちがいる。彼はライナスの毛布のように日本のサブカルチャーを纏うことでその時期を乗り越えている。という話を一部では聞く。
もしかしたら、90年代の日本のポップミュージックを今のアメリカで受容し聴かれているという背景と海外における日本のサブカルチャーのコスプレはどこか重なっているのかもしれない。


まず、これらのことをマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑在論、失われた未来』や木澤佐登志著『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』『ニック・ランドと新反動主義』なんかを読んでいて、新反動主義や加速主義という単語なんかに興味を持ち始めていた。

『ウィーアーリトルゾンビーズ』を観終わって思ったのは前述の書籍などに書かれていたことが理論なら、この映画は実践というか映画版と言えるだろうということだった。この映画を評価する人がそれらを読むと腑に落ちるはずだ。
新自由主義の成れの果て、インターネット、レトロピア、ヴェイパーウェイヴ、8ビット。

未来に希望なんてない世界に、リバイバルのリバイバルのリバイバル、オリジナルがない世代、メタ化してネタ化した時代。ゾンビと幽霊と躍り続けるゴミの中で生まれてしまった呪いを祝いに変えるための、監督の十代をそれらで現在の十代の肉体で再構成した物語なのではないだろうか。次に長久監督どんな作品を撮るのだろうか。なんとなく映像作家版アラーキーみたいになりそうな気が。長久監督とアラーキーの共通項は電通ってとこぐらいだけど、なんとなく。


こちらの長久監督と燃え殻さんの対談もすごくよかった。


劇中で流れたゴダイゴ『憩いのひととき』は長谷川和彦監督『青春の殺人者』のエンディング曲。リトルゾンビーズのメンバーが線路を歩くのは世代的には野島伸司脚本『未成年』かなと思うが、やはり『スタンド・バイ・ミー』だろうか。他にもたくさんのオマージュやインスピレーション元があるはずだ。僕はそういうあんまり調べない人なんで、この映画を観た誰かに教えてもらおうと思っている。


妄想PことミスiDやっている小林さんがツイートされていたことは映画見て、「うん、納得」でした。中島セナさんはこの映画を観た人たちから多種多様なオファーを受けそうだ。きっと、この作品を機により多くの人に支持される存在になるだろう。


長久監督が影響を受けたものももちろんある世代についてはレトロな風景や記憶と直結するものではある。同時に8ビットやファミコンなどのゲームミュージックや音楽はもう当たり前にそばにあったものだ。この作品が海外でも通じるのはもちろん、ファミコン以降の世代にとって原風景としてあるということが大きいのだろう。

海外でもサブカルチャーとしては充分共有体験としてある。『MOTHER』が日本だけではなく海外にも多くのファンがいるように、僕が去年ではベストだった『アンダー・ザ・シルバーレイク』で物語の謎を解く鍵のひとつとして「ニンテンドウパワー マガジン」が出てくる。

外で遊ぶけど、家の中でゲームもしていた連中、それからポケモンが発売になって、というように、80、90年代に少年少女だった人たちには懐かしいものだ。だからこそ、この作品は海外の観客にも届く、原風景として、また、この現在の社会に対して感じていること、それらが詰まっている。

そして、ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコの四人がたどり着いたのはゴミ捨て場だった。そこにはホームレスたちもいた。ホームがない人たちは果たして自己責任のせいだけでホームを失ったのだろうか? 

リトルゾンビーズたちはそこからゴミ捨て場から音楽を鳴らしだす。かつてあった夢の島のような場所から始める。これは確かに「このバンドはさ、僕らが、ゾンビが感情を手に入れるための冒険」だっただろう。

人が真面目に自分の仕事をすればするほどに不幸になっていくというシステム、そこに取り込まれていく世界。そこでは感情は容易に削り取られていく、感情をなくさないと生きていけないが、感情をなくした人間は「ゾンビ」かもしれないし、「NPC」かもしれない。だからこそ、四人は感情を取り戻す冒険の旅に出た。

叫ぶことが、彷徨し咆哮すれば大地が震える、空に響く、それはやがて雨を降らしてすべてを濡らしていく。恵みの雨であり、すべてを流してしまうようなノアの洪水なのかもしれない。だが、それでも叫ばないといけない時がある。僕らが人間らしく、せめて人間らしく生きたいと願うのならば。四人は美しい緑の中を進んでいく。そこは生命力に溢れた場所だ。

先に何があるのかはわからない、だけど、たぶん、感情を取り戻せたのなら前に前に進める。

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