『愛がなんだ』

仕事終わってすぐに会社を出た。新宿3丁目まで副都心線に乗って伊勢丹から地上に出る。靖国通り沿いのテアトル新宿に今泉力哉監督『愛がなんだ』を観に来た。公開初日でずっとたのしみにしていた映画だった。まず予告編をはじめて劇場で観た時に今作が今泉監督作品ということも知っていたけど、これは観たいと思っちゃうよと思った。

僕は『週刊ポスト』というわりと高齢の男性読者がターゲットな週刊誌の映画コーナーの片隅で、「予告編妄想かわら版」という極めて謎な連載をしている。予告編(たいてい1分半ぐらい)を観てオチだったり終わり方なんかを妄想するコラムみたいなものだ。雑誌は毎週月曜日発売で、たいていその週の週末公開の作品について取り上げている。今週はもちろん『愛がなんだ』について書いた。

 角田光代の原作小説を今泉力哉監督が映像化した『愛がなんだ』(4月19日)。予告編では、山田(岸井ゆきの)とタナカマモル(成田凌)がベッドで「おはよ」と言い合ったり、お風呂で髪の毛を洗いっこしたり、焼き芋を食べながら歩いているシーンがあります。しかし、山田は未だにマモルの恋人ではないことが明かされます。
 彼に呼び出されれば、夜中でもいつでもすぐに行ってしまう彼女。そしてマモルから、彼が好きなスミレさんという女性を紹介される始末。「幸せになりたいっすね」と言う知人男性に、「うるせえバ〜カ!」といらだちをぶつける山田の姿も予告編で見ることができます。
 ここからは妄想です。予告編の最後にベッドに裸でいる二人の足が見えます。なんだかその無防備さが二人だけの距離や温度をうまく表しているように見えます。一方は付き合っていると思っていても、相手はそうは思っていなかったりすること、これは恋愛でも友情でもあります。僕たちの人間関係ってそうそう両思いにはならないですよね。それもあって安易に「好き」とは言えないのかもしれません。だからこそ、僕たちはいくつになっても「恋愛映画」を観ているのかも、「好き」って言う勇気をもらうために。ああ、恋がしたいっすね〜。春の出会いどこですか〜。

予告編というのは、たまに例外はあるが基本的には映画本編の映像を使っている。予告編でおもしろいと思えないもので、本編がおもしろいということはほぼなく、皆無に近い。ある意味では映像のリミックスでもある。予告編を編集する人の腕やセンスも出るとしても、映画本編の見所だったり登場人物への興味を持たせる内容になっていて、その素材が興味そそらない時点で本編がおもしろいというのはあまりない。

予告編でも見れるテルコ(岸井ゆきの)とナカハラ(若葉竜也)の「幸せになりたいっすね」「うるせえバ〜カ!」というやりとりは、本編を観て観客が受ける印象はだいぶ違うものになっていた。かなり突き刺さるシーンになっている。

というわけで映画の感想(多少のネタバレを含む)を。

直木賞作家・角田光代の同名恋愛小説を、「パンとバスと2度目のハツコイ」「知らない、ふたり」の今泉力哉監督で映画化。「おじいちゃん、死んじゃったって。」の岸井ゆきの、「キセキ あの日のソビト」「ニワトリ★スター」の成田凌の共演でアラサー女性の片思い恋愛ドラマが展開する。28歳のOL山田テルコ。マモルに一目ぼれした5カ月前から、テルコの生活はマモル中心となってしまった。仕事中、真夜中と、どんな状況でもマモルが最優先。仕事を失いかけても、友だちから冷ややかな目で見られても、とにかくマモル一筋の毎日を送っていた。しかし、そんなテルコの熱い思いとは裏腹に、マモルはテルコにまったく恋愛感情がなく、マモルにとってテルコは単なる都合のいい女でしかなかった。テルコがマモルの部屋に泊まったことをきっかけに、2人は急接近したかに思えたが、ある日を境にマモルからの連絡が突然途絶えてしまう。(映画.comより)

主人公のテルコを演じている岸井ゆきのさん。山内ケンジ監督『友だちのパパが好き』で劇場で初めて観たのかな、たぶん。その時の印象は顔の感じが市川実日子さんにちょっと似てるかも、同性から支持を受けていくのかなと思った気がする。その後、テアトル新宿で公開された森ガキ侑大監督で岸井さん初主演だった『おじいちゃん、死んじゃったって。』を観たんだと思う。葬式における家族のバラバラさと気持ちのズレをコメディぽく描いた作品で、コメディエンヌ的な女優さんにもなりそうだなと感じた。今作『愛がなんだ』で岸井さんが気になった人はこの二作品観てみるといいかも。

テルコがマモル(成田凌)の言動や行動に対して投げかける視線や反応するしぐさがかわいいというのがこの映画の強さのひとつ。恋をしている人の視野狭窄というと言い過ぎかもしれないが、その人しか見えない、ある意味でブレない直球な気持ちというのは強いし重い。この作品ではテルコは一貫として変わらない。テルコがマモルに対しての気持ちの部分がこの映画の長所であり、同時に短所になっている。テルコは基本的には変化しない。周りは変化したり、それぞれの気持ちによって行動や選択をしていくのだが、彼女だけはまっすぐなままマモルだけを見ている。今泉監督作品にある日常にある空気や会話のやりとりのおける心地いいリズム、登場人物たちのズレやおもしろさがポップなリズムを生んでいるのでテルコの強い想いは痛いとか重いという感じはかなり和らいで見える。


主人公のテルコはもちろんマモルとの関係性において、出会ってすぐの頃からとは時間も経っているのでまったく変化がないとは言えないかもしれないが、物語として主人公が最初と最後で成長したり、失っていたものを取り戻すというような構造にはなっていない。だから、テルコとマモルの関係性においては大きなカタルシスはない。その部分はナカハラ(若葉竜也)が担っていると言える。ナカハラがテルコの友達でもある葉子(深川麻衣)との関係性において、後半で決断することがこの作品の中でも観客の気持ちが揺れ動くポイントになる。そのシーンの時には笑いも起きていたが、涙ぐんで鼻をすする音も聞こえた。「幸せになりたいっすね」「うるせえバ〜カ!」という予告編で見えるやりとりは本編ではもっと切実なものとして響く。

テルコとマモル、ナカハラと葉子という二つの関係性はどちらもマモル/葉子に呼び出されれば、テルコ/ナカハラはすぐにでもやってくる。どちらも体の関係もあるが、彼らは恋人でもないし、彼氏彼女の関係性でもない。テルコもナカハラもただそばに居たいだけだから。互いがその気持ちをわかっていたりいなかったりしながらも、悪く言えば利用している。主従関係とまでいかないとしても、SMのSとMの関係に近いような、命令をする人、従う人、というのは普通に見れば命令する人が立場が上で支配しているように見えるが、従う人がいなければその関係は成立しない。支配されているように見える人が実はその関係性を支配している、成立させてる所がある。

マモルが連絡をテルコにしばらくしなくなって、急に呼び出された際に自分が好きな女性としてテルコに紹介するのがスミレ(江口のりこ)という女性だ。テルコとマモル、ナカハラと葉子という二組の関係性を理解できない存在としてのスミレ。スミレに対してのマモルは、マモルに対してのテルコといった関係性であり、テルコはスミレに声をかけられたらマモルを呼ぶ、3人で会うというパターンができてくる。スミレに対してなんでも許せる、好きという感情を出しているマモルに苛立ちのようなものを感じるが、彼女はスミレという女性をどこか嫌いになれない。

スミレ←マモル、マモル←テルコ、という好きという感情のベクトルが向かっているので、スミレ←テルコという式もありえるからだ。そして、スミレはテルコにマモルのことが好きではないという意思を伝えている。このことでテルコは安心しているというのも大きい。嫉妬心が働かないから、好きな人が好きな人でおさまっている。

スミレの存在はそれまで続いていた二組の関係性を綻ばす。河口湖のコテージに行くことになる際に葉子を誘ったテルコだったが、葉子はいかずにナカハラ行きなよと言われ、ナカハラが参加することになる。テルコとマモルとスミレとナカハラの四人で河口湖にいくことになる。そこでのスミレとの話の中でナカハラは葉子との関係性において考える、見直すきっかけになる。一番常識的ではないような雰囲気を持っているスミレが一番社会的な常識みたいな価値観であることでナカハラは揺らぐ。


スミレを演じている江口のりこさん、今作ではテルコとマモルが動物園で象を見ている印象的なシーンがあって、これなんか近いものを知っているような、と思って帰り道でなんだっけなと思い出そうとしていた。どこかはすっぱな感じを与えるスミレ(≒江口のりこ)、動物園、ああ、『ジョゼと虎と魚たち』だ。江口さんも出ていたし、動物園に恒夫とジョゼ行っていたという記憶が重なったんだ。

『ジョゼと虎と魚たち』は大好きな作品。シネクイントで公開された時に劇場で観た。その頃は恋愛もしたことないのに、最後の恒夫の嗚咽に感情移入していた。まだ現実では出会ったことのない感情を映画を観たことで味わったし、疑似体験した。恒夫とジョゼの痛み、は観ていた自分にも届いてしまった。

『愛がなんだ』は劇的なドラマがあるという話ではないが、例えば恋愛をしたことない人が観ても、テルコやナカハラの気持ちに同調したり、マモルや葉子のような振る舞いも理解したりできると思う。もちろん、まったく理解できない人もいるはずだ。スミレが言うことも同じだ。ただ、この映画に出ている彼や彼女たちにまた会いたいな、と思う。そのぐらいに登場人物たちが生きている、現実の世界にはたぶんいてもおかしくない、というか同じような人はたくさんいるはずだ。


物語の主人公はテルコだが、もう一人の主人公にもなっているのはナカハラである。彼はテルコと同じような立場でありながら、葉子に対しての自分の立場やあり方をスミレと話したことがきっかけになって悩んで決断をする。そのことをテルコに伝えることになる。テルコが苛立つのは自分と近い距離感で好きな人の側にいることを選んでいたナカハラが自分とは違う考えになり行動を起こしたからだ。そこでマモルへの想いも揺らいでしまうという恐怖があったはずだ。だからこそ、テルコはあのシーンではものすごく感情的になる。ナカハラに賛同してしまえば、自分のマモルへの気持ちも揺らいでしまうことが本能的にわかっているから。ナカハラが弱いというわけではない、だが、多くの人はナカハラのほうに共感するのだと思う。

どんなに好きになっても、その想いがすべて成就することはない。誰もが恋をしてもほとんど場合は両想いにはならない。人を好きになったり、自分よりも大切だと思える存在がいるという気持ちだけで同じような日々が鮮やかに感じられることもある。好きだった人を諦めたり、想いを告げても付き合えないことのほうが残念ながら多い。その気持ちは残っていく。さびしいという気持ち。葉子の孤独やさびしさについて後半に出てくるが、人それぞれに孤独やさびしさは違う。どんなに一人でも大丈夫という顔をしている人だからといって、家に一人でいる時にそのさびしさに耐えきれなくなっていないとは限らない。僕たちはそれぞれにかつて誰かに向けた想いをなんとか見えないように地下に隠したり、見ないフリができるようになっていく。だけど、こういう映画を観ると自分が隠したり見ないようにしていた感情が顔を出してくる。あっ、孤独だ、と。さびしいと思って誰か側にいてほしいと思えば思うほどに、今そばに居てほしい人やかつて居た人のことを思い出してしまう。

ナカハラの決断に感情をあらわにしたテルコ、その二人どちらともわかる、という気持ちになった。人間というは極めて個人的なものであって、他者という第三者はどうにもできない。自分の気持ちや感情だって制御できるものでもない、ただむきだしになった自分という個人と向き合いながら、その外側にいる他者と付き合っていくしかない。時には肌を合わせたり、気持ちが通じていると思えることもある。それはずっと続くものでもないし、いつか終わるかもしれないという予感だけがある。だからこそ、今ある感情や想いに対してまっすぐであるテルコはまぶしくて儚く見える。

テルコが中盤以降に働いているサウナの従業員である女性(片岡礼子)は、バツイチで子持ちという話が出てくる。同時にテルコの小学校時代の子供のテルコも出てくる。この辺りは現在進行形のテルコに対する、過去とありえるかもしれない未来として描かれているのだろう。ここはうまく機能しているのかいうと微妙なところで、僕にはちょっと蛇足に見えてしまった。葉子の母(筒井真理子)もこの作品のメインの登場人物たちよりも大人、親世代として出てくる。年長者でメインの登場人物に関わる男性は出てこないので、どこか父性はないようにも感じられる。それは葉子の父のようにもういなくなっているものとしてしかない。

また、作中では葉子だけが両親などのバックボーンがわかる存在でもある。葉子という存在がなぜこういう感性なのか、ナカハラとの関係性を持っているかということについてわかる。ナカハラがテルコに葉子への想いを語った後に葉子の家に行くシーンでの彼女たちのやりとりは、テルコは本来マモルに対して言うべき、伝えるべき言葉のように見える。葉子はマモルの代わりに気持ちをぶつけられているが、二組の関係性において、マモルと葉子は近いものとしてあるので成り立つように見える。しかし、テルコはマモルに本音を言わないために身代わりとして葉子の感情をぶつけたようにも見えてくる。そういう意味であのシーンは後味が悪い。その感情がザワザワする感じのリアルさ、僕たちも実生活でやってしまうことでもある。本当は伝えないといけない、言わないといけない当事者ではなく、代わりの誰かにそれをしてしまうことで自分を守ってしまう。代わりの誰かにとってみれば迷惑だし、大きなお世話になったりする。だけど、たぶん、みんなやってしまう。


ナカハラは最初に出てくるシーンですでにカメラを手にして葉子を撮っている。河口湖に四人で行った際にも他のメンバーを撮影している。ナカハラはスミレとのやりとりで葉子から離れようと決めるが、その客観性は実はレンズ越しに対象者を見ているからこそできたのだろう。

カメラマンのアシスタントをしている彼は、カメラマンの卵でもある。レンズ越しに空間や時間をフレームに収める。撮影するという当事者でありながらも、対象からの距離や他者性を持つことが彼を自由にさせているようにも思える。だからこそ、彼は葉子と離れることでラスト近くのシーンに繋がっている。テルコのかわいらしさはマモルとの関係性や気持ちによって伝わってくるが、彼女の一途な強い気持ちはナカハラというもう一人のテルコの存在によってより強調されている。


観終わって劇場から出てフロアにたくさんの人が溢れる中、「ありがとうございました」と観終わったお客さんに言っている人がいたので劇場スタッフの人かな、と思って声をする方を見たら長身の男性だった。今泉監督がひとりでお礼を伝えていた。名古屋の劇場で舞台挨拶かなにかあったはずだが、急いで東京に帰ってきてテアトル新宿に来て、感謝の言葉を伝えていた。

僕は少しだけご挨拶をさせてもらって帰った。いいな、と思ったのは初日に観に来たお客さんたち、満席で立ち見も出ていたが今泉監督がいてもこの映画の監督ということに気づいている人が少ないということだった。テアトル新宿は単館系と呼ばれる映画館だ。だから、どうしても映画好きみたいな人が好きな、観たい映画の上映が多い。それはそれでとても大事でいいことだ。『愛がなんだ』は原作者の角田光代さんのファンもいるし、岸井ゆきのさんや成田凌さんをはじめとした役者さんのファンも、もちろん今泉監督のファンも観に来ている。予告編観て気になっていた人とか、テアトルでやるなら観ようという人もいたはずだ。そのバランスがすごくいいんじゃないかなって思えた。それは多様性なのかもしれないし、普段は映画館に足を運ばない人が観たいと思って運んでいる感じもあった。今泉監督作品がこうやって今までももっと広がっていく感じがしてすごくよかった。


自分にとって今作『愛がなんだ』のテルコやナカハラたちのような想い、もしかしたらエモいと呼ばれるような気持ちになる音楽を最後に。


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碇本学

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