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『岬の兄妹』

港町、仕事を干され生活に困った兄は、自閉症の妹が町の男に体を許し金銭を受け取っていたこと を知る。罪の意識を持ちつつも互いの生活のため妹へ売春の斡旋をし始める兄だったが、今まで理解のしよう もなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れ、戸惑う日々を送る。そんな時、妹の心と体にも変化が起き始めて いた...。ふたりぼっちになった障碍を持つ兄妹が、犯罪に手を染めたことから人生が動きだす。地方都市の暗 部に切り込み、家族の本質を問う、心震わす衝撃作。(ヒューマントラスト有楽町より)

ユーロライブにて『岬の兄妹』トークベント付きの一般試写を観に行った。前からこの作品を紹介するCINRAなどの記事を見て気になっていたので、映画が公開されたら観に行こうと思っていた。

今回のトークイベントには片山慎三監督、作家の樋口毅宏さんに映画評論家の森直人さんというもので、樋口さんからお誘いをいただいたので劇場公開より先に観せてもらえることになった。片山監督がポン・ジュノ監督や山下敦弘監督の助監督をつとめていたとなれば期待値も当然ながら上がるのは仕方ない。

↑で記事になっているけど、後半には映画の主演である松浦祐也さんと和田光沙さんも参加されて五人でのトークになった。森さんが司会としてトークを回されていた。この作品について片山監督は記事にあるように、

「15年ほど助監督をやっていましたが、最近の日本映画に思うところがある」と切り出す。「商業映画でデビュー作というと、普通、撮影期間は2週間くらい。それじゃあ、いい映画は絶対に作れない。自分のお金でいいから、コントロールしてすべて撮ろうと決めた。俳優さんも理解のある方々で、1年間も拘束して撮影するのは、あまり事務所などが許してくれない。わがままを通して、時間をかけて撮影することができた。感謝しています」と真摯に語り、「時間をかければ良いものができるというのを、身をもって示したかった。それが今回のもうひとつの目標でした」

と語られていた。この映画の制作から公開までの片山監督のスタイルが今の日本映画への批評であり、挑戦でもあるのがよくわかる内容の作品だった。


予告編だけは観ていたのでなんとなくの雰囲気はわかっているつもりだったが、実際に観るとその印象は大きく覆るものだった。足を引きずる(びっこと言うと今はダメだろうし、商業媒体で書いたら使わせてくれない。がちゃ目とかもそうだったと思う。)兄と自閉症の妹、そして、妹があるきっかけでひっかけられた男とセックスをして一万円をもらっていたことから、仕事もクビもなり、家賃すら払えなくなった彼は彼女の売春を斡旋するようになる。と聞くとかなり陰惨で暗い作品なんだろうなと思うだろう。

内容としてはトークでも言われていたけど、監督が自分のお金で時間をかけて作ったこともあり、コンプラどうこうみたいなことを言う製作委員会もなんにもわかってない広告会社も関わってないから、ここまでできるのか! と観た人は思うだろう。僕は思った。もっとゆるくしているのかと思ったら、そうじゃなかった。しかし、同時に陰惨にしかならないだろうという内容にも関わらず、作品全体には陰と陽でいえば陽の部分がかなりある。それは松浦祐也さんと和田光沙さんが演じた道原良夫と真理子という兄妹の関係性もあるが、とくに天真爛漫というかある意味では欲望に忠実な真理子の存在が大きいのだと思う。


この作品では、今社会ががんじがらめになっているコンプライアンスというものを蹴り飛ばしながら同時に唾を吐いている。それは創作に関して言えば、危ない橋を渡ることに近いのかもしれない。そうなれば、あるのは賛美か拒絶しかないだろう。傑作か駄作か、そのどちらしかないこと、そして観た人がこの作品を賛美する側ならば、しかもこれが長編第一作における勝負作なら尚更推すしかなくなる。

そう、こういう映画が観たかったんだ。どうでもマーケティングとかで大多数がなんとなく好きそうなものを、いつも同じようなキャストとわかんねえタイアップ組んで、普段映画観ないような年一回劇場に足を運ぶような人が安心して観に来れるような映画なんか観たくないんだよ。小説や漫画を原作にしないと数字が見込めないからって映画監督や脚本家たちにオリジナル作品で勝負させれないなんて、なにがおもしろいんだよ。小説家にも漫画家にも映画監督にもみんなに失礼だ。それも仕事だってわかってるよ。みんな食べていかないといけないってわかってる。だけどさあ、オリジナル作れないし、作らせないジャンルでなにが生き延びて、繋がっていくんだろうっていっつも思うよ、マジで。

世界を変えるのはいつだって、世間に妥協したものではなく、作り手がどうしても作らなきゃいけない、極めて個人的な作品だろう。個人的だからこそ、観た人の内側に届いて、その肉を食いちぎって痕を残す。

創作とか表現って痛いものだ。表現は個人的だし政治的なもんだろ。それに個人の願いや願望や表現なんて、痛くてどうしようもなく、寂しい。そこには怒りも憎しみも喜びも笑いもクソも味噌もなんもかもがぶち込まれているからこそ、届いてしまう。境界性の向こう側につれていく表現ってのはいつだって、狂気で凶器で狂喜だろう。違う?

痕になった場所から流れでる血や涙が、あるいは精液や経血なんかが、世界と対峙する自分を知らないうちに変えていく、そんな表現がやっぱり観たいし読みたいし聴きたいし感じたい。だから、『岬の兄妹』はそういう作品だった。同時に観る人は兄と妹の置かれた環境や行動に対して拒絶感も出るだろうし、耐えきれない人もいるだろう。だが、決してこの作品はあの二人の生き方が正しいなんて描いていない、どうしようもない日常を生き抜くために彼らはそうした。それを受けてどう思うかは受け手の観客次第だ。

観客にこの作品はいろんなものを投げかけるだろう、これを書きながらも頭の中では混乱している部分もあるし、また二人に会いたいと思う自分もいる。映画の最後の二人の表情は観た人それぞれに解釈は変わるだろう。


自閉症である妹は兄の売春斡旋によって、体を売る。この時点で拒絶や無理だと思う人はたくさんいるだろう。作品には貧困、そして障害を持った人の性の問題も描かれている。これは目を背けたくなるものだろうが、実際問題として当事者やその家族は向き合うことになる問題だ。

妹を売る兄は最低だ。だが、妹にはその善悪の基準というか理解がない。彼女は一時間一万円で自分を買った男たちとセックスをする。その彼女は性的に興奮し、その欲望を満たそうとする。騎乗位になりながら相手にキスをして、「私のこと好き」「愛してる」と聞く。そこには性的欲求が満たされたいという気持ちと兄以外の他者である男性に好かれたいという気持ちがあるのが感じられる。後半に仕事(売春)でもないのに、兄があることを頼みに来た男性の家まで妹はひとりでやってくる。「仕事」という彼女はその男性とセックスをすること一緒にいることがうれしかったはずだ。しかし、それができないとわかると路上で子供のように駄々をこねるように暴れ、兄を叩く。欲望や感情をうまく言葉にできない、抑えられないという彼女の内面が爆発する。そこに人間としてむきだしの真理子がいる。ただ、いる。そのことはショッキングであり、同時に素直だと感じる。おそらくこの辺りの部分で拒絶や嫌悪感を強く持つ人はいるのだろう。

それがいいとか悪いとかではなく、片山監督はあるものとしてただ真理子のそのどこにもいけない感情を描いている。大事なのはそれがいいとか悪いとかではなく、人間として誰もが持ち合わせた欲求であり欲望である、それがただあると描いている。だからこそ、観た人の中で感情は大きく揺さぶられることになる。


トークイベント後に楽屋に挨拶をしに行った際に今日の登壇者のみなさんにご挨拶をした。樋口さんが松浦祐也さんと和田光沙さんと写真を撮りたいというので、森さんも含めた四人を撮影したもの。この時、片山監督外に出ていていなかったので、まるで樋口さんが監督みたいなことになっているが、監督ではないのであしからず。

トークイベントで樋口さんも言われていたけど、真理子を演じた和田さんが映画とは全然違うので同一人物には思えない。松浦さんはそのまんまっぽいけど、お二人とも撮影時よりは10何キロか減っているらしい。この松浦さんと和田さんが年末とかに名前を聞きまくるようになると思います。この作品観たら誰だってそう思うでしょ、すげえもん。

和田さんと少しお話をさせてもらった時に、撮影当時は『菊とギロチン』で相撲取りの役だったこともあり、今よりも体重が10数キロ多かったとのことだったのだけど、真理子を演じる上でそれはすごくデカいと思った。

顔の表情とかもすごいんで映画館で見て欲しいんですけど、セックスするときとか脱いでるわけですがいい意味で体がだらしないというかメリハリがないんですよ。自閉症の真理子はよく笑うし、駄々こねるし泣くし、と感情を隠さない存在なんです。彼女を唯一に近い者として庇護するのが兄なわけですが、彼女は他者に見られているという意識は薄いというか。人に見られているという意識って表情だったり、姿勢とかに関係するものだと思っていて、真理子はそのことに希薄なのであの体つきがリアルというか説得力があるんです。

健常者と障害者という言い方は好きではないけど、社会から見られている意識とかもあるし、障害によっては体の使い方もあるけど、筋肉の使い方なんかはどこか違うからか、僕も太っていて体は丸いんですが、障害者の人特有の体の丸みみたいなものってあるように思います。

体の動かし方の癖なのか筋肉の使い方が違うのかはわからないんだけど、その丸みみたいなものが和田さん演じる真理子には感じられたことが、より身近でリアルに、同時に生々しさを持っていたと個人的には思った。同意してくれる人がいるかどうかわからないけど。


だからといって、この映画がドキュメンタリーに寄っているかといったらそうでもなく、同時にフィクションとして障害や環境を描いているかというと、その中間にきちんと落とし込んでいるように思えます。バランスが保たれているからなんだろうと思うはずです。

樋口さんが2回目、3回目観るとさらに好きになる、さらによくなるというのは、あらすじだけ読んだらきついなこの話って思えるんだけど、初見でも何度も笑ってしまった部分があり、シリアスなシーンとかにはわりと緊張を壊すようなユーモアというか笑える要素があるんですね、そのおかげで作品が映画として観客が受け止めるものにもなっている。けっこう絶妙なバランスがあると思います。だから、内容を知らずに物語を追うよりも2回目とかのほうがもっと笑えるんだろうなってのはなんとなくわかる気がします。


というわけで劇場公開したら映画館にまた観に行こうと思います。パンフレットもあれば欲しいし。

最後の兄と妹のシーンでの真理子の表情を観た時に、彼女は兄の携帯が鳴るたびにその欲望のスイッチが入るのではないか、彼女にとってそれは自然な欲求だと、だから二人の日々はこれからも続いていくのだろう、と僕は思いました。希望でも絶望でもなくただいつもの日常だけがそこにあって、生きていく上でその欲望や欲求は死ぬまで尽きることはない。それが幸せか不幸せか他人が決めることではない、と。


樋口さんに呼んでもらったお礼がわりに、新刊『東京パパ友ラブストーリー』のレビューを書いたやつ載せときます。片山監督は樋口さんのファンらしいです。楽屋にも『テロルのすべて』や『ルック・バック・イン・アンガー』の文庫が置いてありました。樋口さんに会う前に書いた『テロルのすべて』のレビューもリンクしときます。



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