中島哲也監督『来る』

中島哲也監督『来る』鑑賞。
僕が劇場において嗚咽に似た、自分でも引くぐらいに号泣した映画は二本あって、ひとつは園子温監督『愛のむきだし』で、もうひとつは中島哲也監督『嫌われ松子の一生』。


どちらの監督も描写は激しい。園監督については前に別冊秘宝かなんかで書いたけど、飛び散る血は内部から外部へ、言葉が魂から生まれて肉体で刻まれて、外へ向かうようなものだと勝手に思ってる。園子温という人は映画監督だけど、詩人だから、詩が景色を変えるように破壊と創造がぶつかり合い色彩を作る。
中島哲也監督は詩人じゃない、なんだ、彫刻家、いや前衛芸術みたいな、素材は土であろうが金属であろうがポップであろうが、ホラーであろうが、歪な彼としか言えない形に作り上げてしまう。


『来る』はいろんな見方ができる。わかりやすくはやはり父性は失われている世界を。例えば、子の誕生を望まない男と子供を生めない女、疑似家族について、血は繋がっているかいないか。
なにより欠損していく人間、と孤独について。精神も肉体も損なわれていく、わたしたちは当然死ぬし消える。予定は立たない、突然死ぬ。無鉄砲な死への散弾銃に運よく当たらなくてもゆっくり老いながら息耐える。結局のところ死は怖い、そこには孤独がある。できるだけ孤独とは向き合いたくない、失うのが怖いからそれを欲しない、いつか、損なわれるから奪われるから。


中島哲也監督は過剰にぶちこんで、孤独を消すようにすることで眼前に示し出す。キラキラポップで宝石やポリエステルやコンクリや使えるものは全部使いながら、笑える悲劇や哀しくなる喜劇を、提示してるみたい。
繋がりすぎる世界で、孤独を突きつけてくるのが中島哲也監督らしくて、いい。大ヒットはしないだろうけどカルト作品として後世に影響与えるんじゃないかなあ。
http://kuru-movie.jp/sp/index.html

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