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メルマ旬報新年会&『岬の兄妹』2回目

前日は20時から『水道橋博士のメルマ旬報』新年会。博士さんが休養中の間の期間限定で2月いっぱいまで編集長代理をつとめてもらった酒井若菜さん。酒井さんが現在編集長の『marble』執筆陣である女優の西原亜希さんも参加された。メルマ旬報チームの木村綾子さんと女性3名とあとはおじさんばかりな集団での飲み会。関西チームも来れなかったりスケジュールの問題で執筆陣の三分の一ぐらいが集合した。去年は忘年会がなかったので、こういう機会でもないしお会いすることのない方々だったりする。

メルマ旬報で連載していた『レコード越しの戦後史──歌謡曲でたどる戦後日本の精神史』が書籍化されたとみさわ昭仁さんや『いとしのベースボール・ミュージック 野球×音楽の素晴らしき世界』を書かれたスージー鈴木さんと最初にお話をさせてもらっていた。

平成が終わるというよりも昭和がようやく終わるような感覚みたいなもの。昭和天皇が崩御し、手塚治虫や美空ひばりが亡くなるというわかりやすい「昭和」の終わりがあったが、今上天皇は退位し、SMAPは解散し、安室奈美恵は引退したのが「平成」だと考えるとこの元号を象徴する人たちは死なずに次の元号に変わっていく。このことが意味することとはなんなんでしょうかみたいな話をさせてもらった。

ジャニーズの話から野球の話に、そしてジャニーさんの話(彼が米兵として韓国に、日本に来て子供達に野球を教えて、その中のメンバーが最初のジャニーズのタレントになった)なんか、戦後芸能史と野球、日米のことなんかはリンクしているというのはやはり興味深い。ジャニーさんも高齢だし、昭和から生き延びている人たちであり、尚且つ平成も生き抜いた人たちが5月1日の新元号になるまでに亡くなったりするんじゃないかなって思ったりしている。

「昭和」という時代は終わっている。そして、「平成」も終わる。安倍首相なんかを見ると彼の祖父である岸信介という亡霊が依り代として孫の肉体を支配してるんじゃないかとすら思う。言ってることも矛盾だらけで視線もあやしい。傀儡としての首相。「平成」は「昭和」という時代の幽霊や亡霊のように思えたりもする。身体性を失っていった時代? どうだろう。

昔、アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』という本にちなんで安倍晋三をモデルにした『わが逃走』という話はどうだろうかと思ったことがあった。最初の退陣のあとからタイムループをひたすら安倍晋三をモデルした元総理がやりだしているために、現在のような不可解な現象が起きている。彼は何度も退陣させられるが、毎回最初の退陣後に戻り、何千回何万回と退陣しないルートを失敗するごとに選び直している。そのせいで時間軸が混乱し、歴史がどんどん破壊されているのが現在なのだ、みたいな。いっとき、木村拓哉か中居正広のどちらかがSMAPを解散させないためにタイムループをひたすら繰り返しているみたいなツイートがあったような気がするが、やはりSMAPは解散してしまうという運命にあるのだろう。それは「平成」という元号が退位で次の元号に譲り渡されたという時間軸がある時点で象徴である彼らは誰かが死ぬことはなく、解散することで終わりを告げた。もしかすると解散以外では、誰かが亡くなるような時間軸、可能性世界もあったのかもしれない。という妄想をいっときしていた。ただ、解散や引退は死んだわけではないので、いつか再結成や復帰という可能性だけが残される。このことはある意味では救いであり、同時に待っていく人にとっては真綿で首を少しずつしめられていくようなものかもしれない。


書評家の杉江松恋さんと小説についてお話させていただいた。東大教授でもある松原さんとは古川日出男さん関連でお会いすることが何度もあり、僕が元旦に『サマーバケーションEP』(神田川沿いを歩いて東京湾に出る小説)をトレースするように歩いている『ウインターバケーションEP』について聞かれたので、オリンピックが終わった後の2021年まではやろうと思っていることをお伝えした。

編集の原カントくんさんに酒井若菜さんと西原亜希さんと木村綾子さんと西寺郷太さんのいるテーブルに連れて行かれ、はじめてお会いした西原さんにご挨拶を。この一ヶ月以内に『SPEC』を全シリーズ見ていて、西原さんは連続ドラマの方で、大森南朋さんの奥さん役で出演されていたので、そのことをお伝えした。なぜいまそれを、みたいな反応だったのはそりゃあそうだよな、何年も前の作品だもん。酒井さんに西原さんって女優さんがふつうに目の前にいるとまあ緊張しますよね。文化系おっさんばかりだし、何を話していいんだろうということとまあビビりますわな。雨の中最寄駅まで帰ってニコラで目崎さんとコーヒーを飲んだ。考えることがありすぎて脳みそがパンクした。


起きてから部屋の更新料を支払いに行く。そのまま小雨の中を歩いて渋谷まで出てから、副都心線で新宿三丁目のバルト9で片山慎三監督『岬の兄妹』を鑑賞。

メルマ旬報チームの樋口さんが試写のトークに出た際に呼んでもらったので一度だけ映画を観ていた。まあ、すごくよかった作品だったし、きちんとお金を払ってもう一度劇場で観たくなったのとパンフを買いたくて二回目という流れだった。いいと思った作品はお金を払わないと応援にはならないのはどの業界でも同じだと思う。

一回目を試写で観たときはやはり物語の展開を追うので、つかめていないものだったり余裕がないので見落としてしまう部分もある。感想としては↑に書いたものとあまり変わらないが、二回目のほうがもっと笑える。展開はある程度わかっているから、実はこのシーンはここに、みたいなことが理解できるとより意味が伝わってくるし、前回は少し警戒しているような感じもあって笑うシーンでは抑えてしまうような部分が解放される。不謹慎なのか、この映画でこの内容で笑うことは、という部分がなくなっている、薄まるので回数を重ねるほうが笑える。そして、後半にある妹の真理子についてあることを頼みにいく兄の良夫のシーン、その一連の流れと兄と妹の路上でのやりとりはより深く突き刺さる。泣いた。涙が勝手に流れてきた。それは一度目よりも悲しかった。彼女の泣き叫ぶ姿が、どうにもならないものがどこにもいけないことが受け入れられないことが、ただせつなくて悲しかった。


スクリーンは前日まで3だったのが今日から4になって観客数が多いところに変わっていた。7割以上は埋まっていたような。注目度や今観ておかないといけないという人たちが観に来ているので、これからもっと口コミやSNSで拡散されて広がっていくだろう。絶賛する人と拒絶する人がどんどんわかれていくはずだ。それはとても作品にとって素晴らしいことだ。そこまでの両極端な反応を受け手に起こさせることができる作品は残るし、届く。人の感情を揺さぶっていく。ゆれるゆれるゆれる。

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