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贅沢な誕生日の日記

あと30分で誕生日、というところで電話がきた。120%、確実に30分では終わらない電話だ。

電話の相手は、高校時代からの親友。今はなきウィルコムが流行ったとき、一緒に購入した相手だ。若い人は名前すら知らないらしいのでウィルコムの説明をしておくと、スマホ・LINEなんてものがなかった時代に(ほんの10年前である)、「ウィルコム同士なら何時間はなしても無料!」という、それまでの電話の概念を覆すサービスがあったのだ。

当時、私と親友は朝まで6時間くらいぶっ通しで話し続けるということを繰り返しており、電話代がとんでもないことになっていたため、即座にウィルコムを購入した。長時間の通話で熱くなるウィルコムを耳元に乗せて横になりながら、「これ、電磁波だいじょぶかな~」なんて思っていた覚えがある。そして、いつもそのまま寝落ちしていた。

この日も、熱くなるスマホを耳元に乗せ、ソファに横になった。夫が無言で近づいてきて抱きしめてくれ、そのまま去っていった。あっという間に誕生日を迎えていたのだ。

ある種、確信犯的に、そのままソファで寝てしまった。寝てはいけない場所で、睡魔に反抗することなく眠りに落ちていく瞬間が好きだ。贅沢だなあと思う。

朝方、ちょっと寒くて、腰が痛くなってベッドに移動した。もう年だ。数年前ならこのまま、ずっと寝てたのに。

数時間後、赤子の喚き声で起こされる。普段は寝起きがいい娘が、今日に限ってわあわあ言っている。いつもより1時間もはやい起床だ、誕生日なのに。

機嫌が悪い娘を連れて部屋を出る。泣き止まない、誕生日なのに。今日くらいはニコニコしててほしかったな、なんてこっちの都合や感情はおかまいなしだ。ああ、もう自我がある。ひとりの人間なんだな、なんて寝不足の頭で考えていた。

出勤前の母のところへ娘と散歩がてら向かう。29年前の今頃、私はこの人のおなかにいて、今にも生まれようと破水していたのか。自分も出産を経験した今でも、なんだか信じられない。

家に帰ると夫が起きてきて、娘を渡すとまたソファに横になった。次に目がさめたときには、娘は自分のベッドで寝ていて、夫は床の布団で寝ていた。だから私も、またソファで目をつぶった。誕生日だもの、家族で昼寝してもいい。

起きたら昼過ぎで、昨日の残り物を食べる。夫がつくった豚汁。彼の十八番になりつつある。たくさん作ってくれたので夜ご飯にも食べられそうだ。「誕生日、何が食べたい?」と聞かれていたけど、なんだか決められないまま今日になってしまった。小さい頃から、誕生日に食べたいのはエビフライだった。でも今年は、エビの背わたを取る時間も、揚げ物をする元気もなさそうだったので、豚汁になりそうだ。今度、おかあさんに頼もう。

そのあとは、何をしたんだっけ。娘と遊んで、またちょっと寝て、オムツを買いに出かけて、夫とたこ焼きを分けっこして、家族3人で寝転がってGoogle Homeに動物の鳴き声を聴かせてもらったりして遊んだ。誕生日だということを思い出さないくらい、まったりのんびりしたのだ。

贅沢だな、と思った。

愛する人と、時間もお金も仕事も気にせずに、自由気ままに過ごすこと。特に盛大なお祝いや劇的なドラマはないけれど、それってすごい幸せなことなんじゃないの?そう思えるのって、年取ったよなって思った。

夜ご飯は、焼き鮭と豚汁。母も来て、夫と3人で食卓を囲む。誕生日感のない夕飯だったけれど、そのあとはちょっと誕生日っぽかった。母が花を買ってきてくれて、夫がケーキを作ってくれていたのである。明治の板チョコが16枚も使われているという贅沢なチョコレートケーキ。お菓子作りは好きでもデコレーションが苦手な夫が、精一杯「誕生日っぽく」してくれたケーキは、信じられないくらい美味しかった。意外と甘さ控えめ。板チョコ16枚、ということを繰り返し自分に言い聞かせないと、とても危険だ。

あと10分で、誕生日が終わる。いつもは、魔法がとけてしまうみたいな寂しさがあるんだけど、今日はそうでもない。明日からも日々が続いていく、という淡々とした感覚だけだ。さみしくないのは「今日感じた幸せは、誕生日だけの特別なものではない」というのがわかっているからなのかもしれない。

ひとつ年を取った私の、明日からの日々。変わらずに赤子は泣くし、私はソファでうたた寝をするし、親友と長話をするし、家族で食卓を囲む。なんかそれって、毎日が誕生日みたいだ。贅沢だな。

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