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主権とカントとシュミットと(文章バージョン)

 ピノキオがこの国に生まれてきたら、ピノキオにも主権が与えられるのだろうか?

 主権の歴史は通常、フランス革命を画期に大きく進展する。1789年の人権宣言では、「すべて主権の淵源は国民にある」(第3条)と宣言され、国民主権が掲げられた。この「国民」とは誰なのかという争点は、すでに当時から発生し、国民とはナシオンであり、ブルジョワジーであると考える議会派は、1791年に制限間接選挙制や国民代表制を導入しようとした。「ナシオン主権(souverainete nationale)」と呼ばれる考え方である。それに反発を覚えた議会派左派や民衆の一部は、普通選挙制人民投票制を求めた。なぜなら、彼らにとって国民とはプープルであったからだ。すなわち、人民のすべてが国民なのだ。1793年、憲法私案において、「プープル主権(souverainete populaire)を唱える。これは、ルソーの理論を背景にしており、主権者を、政治的意思決定能力を有する具体的市民の総体となした。

 主権とは何であるのか?
 カントは、『人倫の形而上学』の中で、憲法と国民の抵抗を論じた。

 最高の立法(権力)に対する国民の抵抗は、それ自体として法則に反するものの、否それどころか法的体制全体を否定するものとしてしか考えられない。なぜなら、こうした抵抗をなす権能をもつためには、国民のこの抵抗を許す或る公的法則が存在していなけれはならない。(世界の名著版 p.460)

 たとえば、革命の際を考えてみるならば、従来の憲法から将来の憲法へと移行がなされる。しかし、将来の憲法の在り方を従来の憲法が規定していない、或いは規制しているということが在りえよう。しかし、国民総体としては体制の移行が必要と感じている場面は考えうる。そして、事実問題としてのみではなく、カントのように概念それ自体に注視しても、その移行はあり得るわけで、そのとき、法というものの本質からして、移行は少なくとも法の外の事態であることは確かである。そして、カントによれば(ルソーにおいても)、そのような法の外からの移行を正当化するのは、国民の「一般意志」であった。

 対して、シュミットは同じ移行状況に対して少し別の見方をする。まず、シュミットが主権とは何かを端的に述べた文言として、アガンベンなどによく引用される『政治神学』からの一節を見よう。

主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。『政治神学』邦訳p11

 ところで、シュミットはあくまで歴史的事実を積み重ねて、人間の事実の問題として、この法の外からの移行を論じているように思われる。シュミットの著作は、カントが概念を積み重ねているとするならば、歴史的事実を積み重ねて論述されると言えよう。そこで、シュミットが論じる清教徒革命について、一般に歴史的事実とされていることをわれわれも復習しておこう。

 山川出版社の『詳説世界史B』の「イギリス革命」の記述のはじめには次のようにある。「当時、大地主の帰属・ジェントリが地方行政や議会で重要な役割を演じ、その背後では、商工業の発達で市民層が力をのばしていた。」しかし、その時代の流れに逆行するかのように、時の国王ジェームズ1世は専制政治をおこない、ピューリタンの不満を招く。こうしたことから、次のチャールズ1世の1628年、国王の専制を批判する「権利の請願」が可決される。しかし、国王は「以後11年間、議会をひらかなかった。同君連合であったスコットランドで1630年代末に反乱がおこったことから、国王は40年春に議会を招集した。これがイギリス革命の発端となった。」(p.190)
 「国王は議会と対立するとすぐに議会を解散した(短期議会)が、同年秋にふたたび議会を招集した(長期議会)。この議会も国王を激しく批判し、1642年には王党派と議会派のあいだに内戦がおこった。」そして、この内戦を鉄騎隊を率いて議会派の勝利に導いたのがクロムウェルであった。そして、1653年にはクロムウェルが護国卿となるものの、彼の死後、イギリスは、チャールズ2世、ジェームズ2世と反動的な国王が戻ったため、1688年にイギリス議会は、オランダ提督ウィレム3世を招いて、1689年に「権利の宣言」を受け入れるのと引換えに彼を王位につけた。これが名誉革命であった。(p.192)
 さて、高校世界史の復習はここまでにして、シュミットが清教徒革命を事例として「主権独裁」を論じている箇所から一部を引こう。

 このような事実的かつ法的情況にてらして、長期議会の解散後のクロムウェルは、主権者である。『独裁』邦訳p.152

 「このような事実的かつ法的情況」とは、法の外での移行にあたり、『政治神学』では、「例外状況」と述べられていた。具体的な事実をさらに細かくみるなら、クロムウェルによる1658年2月4日の長期議会解散から、1658年9月3日の彼の死までの期間である。
 この期間において、クロムウェルは従来の法の外から、将来の法を招くような移行の活動をなしている。このとき、クロムウェルに立法と執行の二つの権力が与えられていた。カントならば、「同時に立法を行うような政府があるとすれば、それは専制的と呼ばれて愛国的政府と対置されるべきであろう。」(『人倫の形而上学』p.455)と述べられるところだが、シュミットは、このようなクロムウェル(やナポレオン)に代表される独裁の形態を「主権独裁」と呼んだ。
 
 さて、「主権」とは何であろうか? 冒頭のピノキオに戻るなら、誰が或いは何がピノキオに主権を与えるのだろうか? カントやルソーならば、一般意志であろう。しかし、シュミットでは、そのような抽象的な意志は、現実には独裁を理論化する道具立ての一つにすぎないのだ。(『独裁』pp.164-167)やはり、まだ答えはでないものの、シュミットをカントと対比して読むことで考えの道筋は見え始めてきた。そこでは、例外状況と制定権力というシュミットの概念が考えるべき重要な要素となろう。

参考文献
・辻村みよ子「主権」『事典哲学の木』(講談社)

・佐藤次高ほか『詳説世界史B』(山川出版社)
・牧野正彦『危機の政治学』(講談社選書メチエ)
・國分功一郎『近代政治哲学』(ちくま新書)

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