Meillassoux『有限性の後で』感想文②

前回のつづきで第二章について。
この章の題名は、「形而上学、信仰主義、思弁」となっている。

ひき続き第二章でも、われわれの思考に回収されない絶対的なものにアクセスできるか否かが問題となっている。メイヤスーによると、「絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれているもの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。[邦訳p.53]」
このことは祖先以前な思考を例にとれば、知覚もできず記録も残っていような過去のことで、それは、われわれにとっての圧倒的な外部として実在しているものということだ。このように、われわれが考えつくこともできないような事実がまずは絶対的なものの具体として考えられる。もちろん、絶対の対義語は相対なのだから、絶対的なものとは相関の対極に位置づいている。そして、メイヤスーは相関主義を論敵として仮想しており、相関主義が主張するところによると、「存在するとは相関項であることである[p.53]」のだった。

さて、第二章では以上の(祖先以前的なものなどの)絶対的なものを巡り、題にもなってる「形而上学」や「思弁」が位置付けられ、そこから「信仰主義」が帰結する。第二章は、問いとしての第一章を受け、問題の広がりを見つめて概念圏の地図を描く役割を負っている。そして、その概念圏の地図を受けて、第三章で考察が重ねられる。

形而上学は、「何らかの絶対的存在者へのアクセス、あるいは、理由律を介しての絶対的なものへのアクセスを主張するあらゆる思考[p.63]」と位置づけられる。「理由律」は、よく知られているようにライプニッツの『モナドロジー』にでてくる考え方だ。「十分な理由の原理である。これによると、AがなぜAであって、A以外ではないかということを、十分にみたすにたる理由がなければ、どんな事実も真ではない、存在もできない。[32節]」しかし、メイヤスーはこの理由律には従わないにもかかわらず、形而上学と同じく絶対的なものへアクセスしようというのである。このように理由律を排除しながら実在にアクセスしようとする考え方を、メイヤスーは「思弁的」と命名する。

思弁的な考え方は、さまざまな実在的な必然性についてアクセスしようとする。祖先以前的なものもそうだろうし、数学的なものもそうだろう。そして、神。神についての思考はまさに絶対性へとアクセスしようとする思弁的な思考であるといえよう。

さて、哲学史においては、神の存在証明を巡る哲学者たちの思索の流れがある。そして、『省察』において、どうにも疑い得ない〈私の存在〉に行き衝たったデカルトは、私の思念を軸にして神の証明を目指した。私がもつ数学的な思念には明晰にして判明な性質がある。しかし、私という有限の存在者がそのような完全なものを作れるわけがない。だから、私の外部に完全にして偉大なものが存在していなければならないというわけだ。

もし神が存在するならば、神は完全にして偉大である。ところで何かを欠くよりも何かをもつ方が、より完全にして偉大である。すると、完全にして偉大な神は、「存在する」という述語をも持つ。以上から、神が存在することが帰結した。

ちなみにメイヤスーは、神を「第一絶対者」とよび、数学を「派生的絶対者」とよんでいる。そして、「デカルトの議論の要であるのは、存在しない神は矛盾した観念だということである。[p.58]」とまとめるのだった。

しかし、「カントとしてはどうしてもこの議論[デカルトによる神の存在証明]を失格にせねばならない。[p.58]」哲学史におけるデカルトとカントとの対立を、メイヤスーは思弁的な形而上学と相関主義との対立として読み替える。神の存在を証明することは、この世界の外側にありこの世界の究極的な原因となるような種類の絶対的なものへアクセスすることに他ならない。しかし、メイヤスーの描くカントは、外部の究極原因へのアクセスを「失格にせねばならない」のだ。つまり、「神は存在しないと主張することにはいかなる矛盾もないと証明せねばならない[p.58]」のだ。なぜなら、「主語というものは、何であるにせよ、その概念の力によってそれの存在を思考に強制することは決してできない」からだ。『純粋理性批判』の弁証論にでてくる議論だ。カントは「あるということは明らかに何ら実在的な述語ではない[B626]」と書いている。

メイヤスーはカントの論点を要約して次のように述べている。「完全なものとして思考されるからと言って、実際に存在することはならない。アプリオリに主語にその実際の存在を賦与できるような、いわば『驚異の述語』などありはしないのだ。」[p.60]

こうして、哲学の歴史は相関主義の歴史であった。相関主義は絶対的なものへのアクセスを禁じているが、信仰を禁じているわけではない。だから、相関主義の神は、「不合理ゆえに我れ信ず」という信仰主義へと至るのは納得できる筋道だ。

さて、相関主義は、メイヤスーによれば、「弱い」それと「強い」それに分かれる。ポイントは絶対的なもの、認識と思考だ。「弱い」相関主義にはカントが含められ、カントは絶対的な物自体は認識はできないが思考はできるとしたのだ。対して、「強い」相関主義には、ウィトゲンシュタインとハイデッガーが含められ、彼らは絶対的なものの認識も思考もできないと提唱したのだとされる。ウィトゲシュタインの『論考』3・03にある言葉。

「非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである。」

次回は、第二章の概念図をもとにして第三章をよみ進めたい。

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