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私の存在の捉えなさ

 三崎亜記さんの小説「私」は、二つの場面を対比させることで私の不思議さを描き出している。まず、おおよその筋を説明してしまおう。

第一場面 

 第一の場面は、市役所の窓口である。主人公「私」のもとに一人の女性が現れる。女性は、「宛先を間違えて市から通知がきた。」と言う。ところが、「私」が彼女から免許証やらパスポートやらを受け取り照会してみたところ、宛先に間違いはない。あわや押し問答になりそうな状況だが、「私」の市職員としての優秀さにより一つの事実が解明される。

 それは、市の台帳への二重登録があったという事実だ。大きな事件ではなく、些細なミスだ。何万人といる市民の情報入力の際に、誤って同じ人物の氏名や住所などを二回にわたり入力してしまったのだ。したがって、二回目の入力を消すという通常運行の業務が行われていたまでのことだ。

 しかし、その事実を告げると女性は、「消されたのは、私のデータなのです。」と言う。なるほど、データは文字情報としては、全く同じだ。だからこそ、今回、市役所からの通知が間違いなく彼女の許にとどいたのだ。それでも、「私」は、彼女に納得してもらうため、元のデータを戻してもう一方のデータを消す。
 「ああ! 確かに私の名前です!」彼女は、心底から安堵したように帰っていった。


 ここまでが第一場面である。つまり、私についての客観的にまったく同じ情報が、私にとっては別様であるという状況が描かれている。

 それにしても、住民情報データと個人が、これほど密接に結びついているとは、思ってもみなかった。考えてみれば、私が「私」であるということを証明できるのは、こうして役所にデータがあるからこそだ。もしかしたら、それら全てのデータがなくなってしまったら、「私」という存在そのものも消えてしまうのではないだろうか?

 そんな想像を巡らせながら、主人公「私」はシュレッダー作業をして帰途につく。
 

第二場面

 第二の場面は図書館だ。今度はさきほどの主人公「私」が図書館のカウンターへ訪れる訪問客となる。予約していた本を借りようとすると、窓口の女性司書から制限冊数を超えていて借りられないとの旨が告げられる。しかし、「私」にはそんなにたくさん本を借りた記憶はなし事実もない。すったもんだの押し問答になりそうなところを、女性司書はその司書としての優秀さにより一つの仮説を告げる。

 「あなた自身が二重になって借りられたものと思われます。」

 つまりは、ドッペルゲンガーだ。市役所で二重登録があったように、図書館で利用者が二重になっていても何もおかしなことはないと考えた「私」は、片方の「私」を削除してくれと「強要」する。そして、そのとおり事務は遂行される運びとなる。

 すぐにしかるべき部署がどちらかを削除するだろう。どちらが消えようが、同じ「私」なのだ。何の問題もない。

 と小説は結ばれて終わる。

小説の構造

 さて、二つの場面を照らし合わせて、私を巡る不思議を考えてみたい。ところで、小説は結びの不条理な文句へ向かって進んでいる。「私」の変に頑な態度も、女性司書の鉄面皮のごとき事務対応も、ラストの不条理への伏線としてある。すると、第一場面も第二場面への助走のような位置づけとも読める。しかし、直観的ではあるが、第一場面の方が第二場面よりも、私の不思議に迫っているのではないか。 第二場面の不思議は、「私」の短慮にしかない。起きていることは、「私」のそっくりさんが「私」を騙って、「私」のカードを不正利用しているか、図書館側の何らかのミスである。どちらにしろ、すでに何冊もの本は貸し出され図書館外へと持ち運ばれているのだから、データを削除したところで問題は何も解決しない。(というより、事態を悪化させるだろう。)
 対して第一場面で描かれているのは、客観的には同一の文字情報が、私には、そして私だけには別様であるという不思議だ。そんなことなどあるのだろうか。(もちろん、そんなことはないのだが、)この思考実験を深く味わうことで、私というものの不思議さに迫ることができる。

 

考察

 では、第一場面から味わえる不思議とは何か。つまり、客観的にはどこまでも同じで、違いをそれこそ客観的に炙り出すことなど全くできもしないのだが、それでも根源的には違うという事態。私とはそのような根源的な事態として、いまここに存在しているという不思議さである。
 確かに人類は、社会生活の円滑さのために個人情報が各人で、顔や声のように異なっている。しかし、全ての人が同じスッペクである完全平等社会を想定することは難しくないだろう。(もしかしたら、それこそが共産主義の理想であるのかもしれない。)しかし、そんな完全平等社会にあっても、私は他の人々とは違う。
 そりゃ、顔も声も違うからね。
 いやいや、その程度の違いではないのだ。想定をもっとハードにしても残る違いなのだ。人類は、なぜか顔や声などの個体差が著しい。周囲の動物たちはもっと平等にできている。庭の歌壇を舞うミツバチは昨日の個体と今日の個体とで瓜二つだ。地面を這う蟻もどの個体も形はたいして変わらない。そんな昆虫のように、個体差のまったくない人類を想定することも可能だろう。完全取り換え可能人類である。(もしかしたら、それこそが資本制が行きつく先なのかもしれない。)しかし、そんな完全取り換え可能人類においても、私の存在は屹立として他と違う。
 しかし、その違いはどんな違いなのか。それは、第二場面のように二人を比較して炙り出せるような違いではない。いわば、ある種、世界の中に存在しないような違いなのである。
 さらに、しかし、そのある種の違いは、完全平等社会や完全取り換え可能人類を想定するまでもなく、すでにつねにこの2021年のここで起きている現実なのである。

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