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僕にとっての熊本

僕は熊本地震を経験していない。
2016年4月、家で一人テレビを見ていた。生まれ育った熊本から東京の大学に進学し、初めての一人暮らしを満喫中だった。誰に怒られることもなく、遅くまでテレビを楽しんでいると、警告音と共に速報が流れた。テレビの画面に映し出された文字に一瞬、目を疑った。

「午後9時26分、九州地方で地震、震度7 熊本地方」

見ていたテレビ番組が、すぐさま熊本の様子に切り替わった。安否を確認するために、普段よく連絡を取っている兄にすぐ連絡した。家族は大丈夫なのか。

「おい、熊本で震度7の地震って、大丈夫か」
「あーめっちゃ揺れたわ、今ゲームしてるけど(笑)
このクソゲー中に死んだらウケる」
「いや今すぐ逃げろよ」
「俺、裸なんだけど(笑)服探すの大変なんだぞ」

これが僕らの震災直後のやり取りだ。心配は杞憂に終わった。兄はいつもふざけた内容を送ってくるが、こんな状況でもふざけるのかと少し呆れた。幸い、家族が住んでいる熊本市は地震の被害が大きくなかったため、それほど深刻ではなかった。友達も誰一人、地震で命を落とすことはなかったし、その家族も無事だったと聞いている。しかし、数分後に兄から送られてきた写真が、地震の被害を物語っていた。食器棚は倒れて、壁にかかっていたポスターは剥がれ落ち、地面には乱雑に物が転がっていた。兄は何事もなく返信していたが、両親は即座に家の外に避難したそうだ。建物が倒壊するのではと恐れ、多くの人が夜遅くにも関わらず外に集まっていた。兄は今でも、地震のことを聞くと、「そうでもなかった」と答えるが、母親は「今までにない音でドーンって聞こえて、立っていられないぐらい揺れた」と言っていた。僕はというと、ただテレビの画面を見つめることしかできなかった。どのチャンネルも全て緊急特番に代わり、地震直後の様子や災害情報を伝えていた。震度7の地震が2度も熊本を襲い、計223名の犠牲者を出した熊本地震。僕はその場にいなかった。

次の日、いつものように大学に行くと、クラスの友達から声をかけられた。
「昨日の地震って熊本でしょ、家族は大丈夫だった」
「地震の影響で地元は大変だったでしょ」
僕は、家族が住んでいる地域は特に被害は少なかったとだけ答えた。それからも熊本出身と答えると、大半の人がまるで熊本出身の人との会話のネタかのように、地震のことを尋ねてくる。あの地震以降、熊本は“被災地”になってしまった。そして、地震について尋ねる大半の人が地震について詳しく知らない。熊本のどの地域が最も地震の被害が深刻で、なぜ多くの犠牲者が出たのかなどを知っている人はごく少数だ。知っているのは、“熊本で地震があった”という事実だけ。なぜなら、熊本出身の自分ですら、そうだったから。実際に被災してない人間には、その時の状況がよく分からない。

地震から約4ヵ月が経った8月の終わり、誕生日を家族と祝うために熊本に帰郷した。被災した熊本を訪れることに、僕は一抹の不安を抱えていた。飛行機の中から見える景色は、4月に熊本から東京へ行く飛行機で見たそれと違っていた。あちこちに見えた青色は、損壊した屋根を補完するためのブルーシートだった。震災の爪痕は依然として残り、もちろん家の中にもあった。寝室の大きな箪笥は地震の衝撃で壊れて撤去され、風呂場の壁にはヒビが入っている。そして、久しぶりに会った家族や友達から震災の話を聞いた。兄からは、職場で大事な機械が壊れ、数日間仕事が休みだった話や、高校の同級生からは、地震の被害が大きかったスーパーの片づけのバイトをした話など、テレビでは報道されない現実の生活を聞かされた。被害が大きかった地区に住んでいた友達は、ずっと家の片づけに追われていたという。しかし、みんな震災のことで悩んだり、不安を抱えたりせず、地震から立ち直り今を生きていた。熊本県民は地震なんかに負けない。

「地震で大変な思いをして、かわいそう」
僕は、”かわいそう”という言葉が好きではない。例えば、テレビ番組で体の不自由な人達が一生懸命に頑張っている姿を見て、「体に不自由を抱えていて、かわいそう」と言う人がいる。しかし、誰かを見てかわいそうと思ったのなら、それは相手に対して失礼である。かわいそうとは、「みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持ち」であり、裏を返せば、自分が“そうではなくて良かった”と言っているようなものだ。僕は、彼らに対してかわいそうだとは思わない。彼らはその状況を、自分自身を、みじめだとはこれっぽっちも思っていないはずだからである。体が不自由であることを誰よりも理解し、他の人と同じように一生懸命に生きている。だから、熊本で被災した人々をかわいそうだとは思わなかった。理不尽な自然の脅威によって、実に148万人が被災し、そのうち18万人が避難生活を強いられることとなった。一方の僕は、遠く離れた土地で、何不自由なく生活を送っている。もしも、自分の周りの人の命が危険にさらされていたら、実際に自分が震災を経験していたら、考えが変わっていたかもしれない。しかし、ただ被災者に同情することが彼らのためになるとは思わない。

地震の直後は、熊本のシンボルでもある熊本城が被災で崩壊した姿をメディアは取り上げた。塀や石垣は崩れ、天守閣の黒く輝く瓦が見るも無残に剥がれている姿だ。地震の被害を伝えるのに最適だと思ったのだろう。何度もテレビやニュースで見た光景だ。
では逆に、現在の熊本城をどれくらいの人が知っているのだろうか。「修復に10年以上を要する可能性がある」と発表されて、3年が経過した。”熊本城の今”を報じているニュースを目にする機会は少ない。今も熊本城の修復は続いていて、少しずつ昔の姿を取り戻しつつある。約790個の石垣が修復された大天守に加え、地震で落下した2頭の鯱も2018年4月に復活した。今年の9月には一部ではあるが、ついに一般公開も再開される。このように、熊本は今も復興を続けているにも関わらず、それが私たちの目や耳に入ってくることはほとんどない。もはや、私たちにとって熊本地震は過去のできごとであり、熊本は一つの被災地に過ぎない。悲しいことに、多くの人が今の熊本に興味を持っていない。そして、“3年前の地震”と聞いて初めて、熊本を思い出すのだ。

僕にとって熊本は被災地ではない。

地震により甚大な被害が生じた熊本を、僕はよく知らない。僕が知っている熊本は、熊本城があり、ロアッソ熊本がスタジアムで戦い、ラーメンが美味しくて、綺麗な水道水が飲めて、阿蘇山が大きくて、江津湖が透き通っていて、でも車が無いと不便で、かけがえのない友達がいて、大切な家族が暮らしていて、そして何より、生まれ育った場所である。熊本地震という一つの災害で、熊本が被災地として世間に知れ渡ったが、多くの人に僕にとっての熊本を知ってほしい。たった一度の災害には壊せない、たくさんの素晴らしいところを知ってほしい。それを知ることが、本当の意味で被災者に寄り添い、復興の手助けになると信じている。過去の悲劇を次の世代に伝え、そこから学ぶことも大切だが、過去よりも今を、悪いことよりも良いことを伝えていきたい。僕は熊本地震を経験していない。

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