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日本の中心でだいじょうぶだぁを叫ぶ。

いま、この瞬間、あなたはこの事態を楽観しているタイプだろうか?それとも悲観してるタイプだろうか?

僕が四十数年生きて来た中で、いくつか見つけた「人間の本質」の一つに「人は信じたいものしか信じない。」がというのがある。

それが、希望的観測だろうが悲観的観測だろうが、人間は誰しも信じたいことを信じるのである。

「希望的観測」とは、主に絶望的な状況において、少しでも良い方向に事態が好転する可能性を信じるという事であり、「楽観的」に近い。

悲観論が溢れ、事態を被監視する人が多数を占めている中では「楽観的」は非難の言葉として使われる事が多い。
その逆で世の中がイケイケの場合は被監視をしている人間をノリが悪いやつ、暗い奴としてバカにする傾向がある。
「世に警鐘を鳴らすが無視されている人」だ。
絶望的な状況ではない状態での「希望的観測」をする人は「希望に満ち溢れた」「前向きな」「明るい」などとポジティブな表現をする事が多いだろう。

絶望的な状況に置いて、「希望的観測」とは、つまり、「大丈夫だろう」という事に他ならない。

大丈夫だ。

もっと言うと

だいじょうぶだぁ!

である。

そう。

先日他界してしまった日本の誇る伝説的なコメディアンである志村けんさんの一世を風靡した「希望的観測」ギャグ、「だいじょうぶだぁ」はその発言責任が伴わない。根拠がない「だいじょうぶだぁ!」であった。

余裕たっぷりにおどけた調子。

今の世の中で「だいじょうぶだぁ!」は不謹慎と言われてもおかしくない。

「今日、必要火急の用で、出かける必要があるんだけど、人が結構いるかもなんだよね。」
に対して「だいじょうぶだぁ!」は言いにくいし、熱が出て、咳も出て、不安になってる人に軽々しく「だいじょうぶだぁ!」などと言える空気では全くないのである。

他人の状況に「大丈夫だ」と声をかける事に対しても責任を感じざるを得ない。

奇しくも志村けんの死と、日本で「だいじょうぶだ」が軽々しく言えない時代が到来してしまったのである。

しかし「希望的観測」そのものである「だいじょうぶだ」をギャグとして昇華し、日本に流行らせた志村けんさんは本当に偉大だったし、あえて、この世の中で「だいじょうぶだぁ」を叫ぶ人が居ないと希望的観測はおろか、希望を持つことも出来ないんじゃないだろうか?

人間は希望なしに生きていく事は出来ないと良く言われるだろ?

それに希望的観測と油断することを混同しなければ良い。

日本は死亡者人数がコロナ上陸から今までの期間で死者の数が他国に比べてとても少ない、とか、BCGのワクチンが実は効く、とか、オーストラリアで寄生虫対策のワクチンがコロナに効いて今、実験している最中だ、とか、ちゃんと「希望的観測」を持つことができるような話も、それがフェイクか信憑性のあるものかどうかは分からないが、「信じたい」と思える情報はある。

それらを信じることによって、少しでも、この先に希望を持ちえるならば、この暗澹たる状況を生き抜く希望ともなろう。

Twitterを見てると、悲観的なニュースほど拡散されているような気がするし、楽観的な話ほど拡散されるどころか非難されているのをよく見る。

しかし、この空前の事態に、悲観的観測をすればするほど、我々の首は閉まっていくだけなのではないだろうか?

しかし、このようなことを書くと「楽観的なことを言ってんじゃねえー」と悲観的に酔っていたいマンが何か言ってくるかも知れないが、勘違いするな。
悲観的マン達よ!

楽観的な希望的観測を持つことと、油断をする事とは全く違う。

混同してるのはお前達の方だ!!!

志村けんが病魔に負けず、
生きていたら

「だいじょうぶだぁ!
僕らがウィルスに油断せず希望を失わなければ。」

と言ってくれたに違いない。

我々は、志村けんの意思を継いでこれから「だいじょうぶ」にしていく義務があるのだ。


ユノーウ?

ありがとうの一言です。本当にありがとう!