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32 アタック・オブ・ザ・キラー・オイスター

 カキはテキである。
 響きがいいのでカタカナ表記してみたが、漢字で書くと「牡蠣は敵である」となる。
 そう、ぼくは生牡蠣が食えない。口にすると百発百中で食当たりを起こす。

 最初に当たったのが30代のとき。フリーランスで参加していた、あるゲーム会社で行われた忘年会でのこと。社内に料理をケータリングし、お酒もどっさり用意して、仕事終わりにみんなで飲み始めた。
 そこにクール便で発泡スチロールの大箱が届いた。中を開けると、氷詰めにされた大量の生牡蠣が。そりゃ盛り上がりますわね。
 牡蠣の殻をナイフでこじ開け、レモンを垂らし、ちゅるんと食べる。勢いづいてシャンパンも開けちゃおう。ぼくはこの日が初めての生牡蠣体験だったけれど、元より魚介類は大好きだったから生食にも抵抗がないし、注文主の「これは知り合いがやってる卸しの牡蠣で、すんごい新鮮なやつだよ~」の言葉もあって、4つほどいただいた。
 で、ひとしきり食べて、飲んで、笑って、終電の少し前にその会社を辞去する。
 このときは、帰りの道中はなんともなかった。約1時間半ほどかけて帰宅し、寝る前にもう少し晩酌しようか……と思ったあたりで、なんだかお腹がしくしくと痛み始めた。そこから吐き気も始まり、やがて下痢の症状が出て、トイレに駆け込む。ひとしきり出したら落ち着いた。
 後日、忘年会で一緒に牡蠣を食べた仲間にこのことを話したが、彼はなんともなかったと言うので、ぼくだけが悪い牡蠣に当たってしまったのだろう。そう思って納得した。

 それから数年が経って、今度はとある出版社のパーティーで、生牡蠣を食べた。若干の不安はあったけれど、業界でも有数の大手出版社だし、そんな質の低いものなど用意するわけがないだろう。何より、あの「ちゅるん」の誘惑には勝てない。

 で、またお腹くだしましたね。下痢と嘔吐のダブルパンチ。
 このときも帰宅した夜に腹が痛み始めたのだが、出すものを出せば快癒した。胃の奥の方に若干の疼痛は残ったけれど、ひと晩寝てしまえば翌朝にはケロリとしたものだった。
 2回も続けて牡蠣に当たるなんて運が悪いなー、とは思いつつ、もしかしたら自分の胃腸は生牡蠣に向いていないのかもしれない。悪いのは運ではなく、身体との相性なのか。生牡蠣を食べられないのは残念だけど、どうしても食べたいものというわけではないし、まあ、それも人生か。そう自分を納得させた。

 そこからさらに数年後。九段下の某社で仕事を終え、一緒にその仕事をしている先輩と「ちょっと飲んでいくか」ということになった。
  ぼくはいつもチェーン店などの安酒場でばかり飲んでいるが、その先輩は洋酒なら六本木のクラブ、日本酒なら小料理屋というこだわりのある人で、その日は九段下から神保町まで少し歩いて、裏通りにある小さな小料理屋に入った。店構えを見たところ、安くてもお一人5000円、下手すれば軽く万札が飛んでいきそうな店だ。自分からは選ばないが、ここはもちろん先輩の奢りである。
 入店して席に着く。何飲もう? 何食べよう?
 メニューなんてなかった。料理はお一人様4000円でお任せ。それとは別にお酒代がかかる。まあ良心的な価格設定の範疇だろう。
 とりあえず瓶ビールを注文して先輩と乾杯する。生ビールは好きじゃないぼくだけど、瓶ビールはいつどこで飲んでも美味い。ごくごく、プハー!
 が、この後が悪かった。お通しとして、生牡蠣がひとつ出てきたのだ。生牡蠣はもう食べないと決めたのに、まさかこんなものがお通しで出てくるとは思わなかった。普通、居酒屋のお通しといったらクソどうでもいい切り干し大根とか、茹ですぎた枝豆とかじゃないのか。さすがはザ・小料理屋である。
 先輩との仕事帰り、盛場の裏通りで入った小料理屋で、コースのお通しに出てきた生牡蠣。このシチュエーションで「ぼく生牡蠣食べられないんですう」とは言えない。言えない、言えない。
 意を決して食べましたよ。ひとつだけなら大丈夫。レモン汁(酸性の液体)をたっぷり絞り、胃に落とし込んだ後もガンガン酒を飲んでアルコール消毒をした。

 ……でも、焼け石に水だった。

 先輩と別れたあと、当時は神保町に事務所(マニタ書房)があったので、事務所に寄って翌日が締め切りの短いコラムを書き上げた。頭脳も回転するし胃腸も問題ない。今度こそ大丈夫。それで仕事のケリをつけて、新御茶ノ水から千代田線に乗り、自宅のある松戸へ向かう。
 大丈夫、大丈夫、今日は大丈夫。生牡蠣といってもひとつしか食べてないし、このまま消化してくれるだろう。がんばれオレの胃酸。
 ところが、自宅最寄りの駅に着く寸前で腹具合がおかしくなった。
 あっ、あっ、ヤバい! 牡蠣のダメージが内臓に悪影響を及ぼす時間が以前よりも早まっている!
 ギリギリで目的の駅に着き、大行列のエスカレーターを使わずに階段を駆け上がって駅のトイレに駆け込む。そこでひとしきり踏ん張って、水っぽい便を出し、とりあえず事なきを得た。でも、これがあと何分保つかはわからない。なので急ぎ足で家に帰る。
 家に帰りつき、布団に潜り込む。出すものは出したはずなのだから、とにかく寝てしまおう。
 でも、ダメだった。布団の中で丸くなっていても、胃腸の中にある生牡蠣がギリギリと肉体を責めたてる。下痢と嘔吐。
 トイレに行っても何も出ない。口内に指を突っ込んで、無理にでも吐こうとするのだけど、何も出ない。少しだけ下から水便が出て、それでいっとき落ち着くので布団に戻るが、数分するとまた腹痛が襲いかかる。布団とトイレの往復。
 それを十数回繰り返しているうち、トイレから寝室までの移動すらできなくなって、途中の台所で倒れた。台所の冷たいリノリウムの床に横たわり、ヒクヒクと痙攣して、嘔吐を繰り返した。でも、何も出ない。出るのは汁ばかり。
「こりゃ、もう死ぬなー」
 そう思ったあたりで、ゲボっと大きな吐き気がして、塊のようなゲロが出た。その中に小さな牡蠣があった。これを出した瞬間、スーッと不快感が消えた。
 痛みが消えたわけじゃない。いままで生牡蠣が胃腸を痛めつけていたので、その痛みの残り香はすぐには消えないが、元凶が外に出てくれたので、新たな痛みがなくなったのだ。この感じ、生牡蠣に当たったことのある人にしかわからないかもしれませんね。

 あの恐ろしい出来事。もう、2度と生牡蠣を食べようとは思わない。でも、牡蠣の美味しさは知ってしまった。
 生牡蠣なんてどうでもいいですよ。牡蠣フライでもじゅうぶん美味いじゃないですか。ぼくは熱々のカキフライだけ食べていきますわー。

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