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04 曲げわっぱとハムライス

 ぼくが生まれ育ったのは墨田区の南端で、江東区との境界あたりだ。親戚が経営する運送会社がそこにあり、トラックドライバーとして働く親父が、会社のすぐ北側にある社宅(木造の平屋)を借りていた。家の隣には要津寺(ようしんじ)という寺がある。ここの墓場を遊び場にしていたという話は、拙著『勇者と戦車とモンスター』にも書いた。で、この寺の西隣には、幼馴染のWくんの家があった。
 Wくんちの家業は曲げわっぱ製造で、ご両親やおじいちゃんはもちろん、何人かの職人さんも出入りしており、家族総出で曲げわっぱを作っていた。
 曲げわっぱというのは、薄く削いだ木を輪っか状にして銅の金具で止めたもののこと。木製の弁当箱や、提灯の上下にある木枠部分に使われるやつだ。昭和40年代当時でも需要は減ってきており、日本に残り少ない職人の家だった。
 Wくんとは外でもよく遊んだが、家にもしょっちゅう上がり込んでいた。仲良しだからということもあるけれど、何よりも曲げわっぱの作業工程を見られるのが楽しかったのだ。
 材木を薄くスライスし、規定の形に整形する。水に漬け、煮沸して柔らかくして、曲げる。最後に金具で留めてわっぱの完成。製品によっては漆を塗る工程もあったかな。ぼくは昔からこういう手作業が大好きで、一日中でも見ていられた。
 あんまり長く居座っているもんだから、昼食に呼ばれることも多かった。「昭ちゃん、一緒にごはん食べていきな」Wくんのお母さんが言う。これがまた楽しみなんだな。ひとんちのごはんって、なぜか美味しそうに感じてしまう。自分ちでは絶対に出てこないようなものが出てくるのが楽しい。
 うちは両親とも福島の米作農家の出身だから、家のごはんもどことなく田舎料理っぽいものが多い。かなりの頻度で焼き魚。それも鯛や秋刀魚や鯖ではなくて、メザシか鰯か塩鮭。昭和30~40年代の庶民の家なんてそんなもんだ。それにお新香と味噌汁。ハンバーグとかカレーとかナポリタンなんて、中学生になるくらいまで食卓には並ばなかった気がする。
 さて、Wくんちでは何を食べさせてもらえるのか。ワクワクして待っていると、出てきたのは皿の上に乗ったキャベツの千切りとハムだ。
 ハ? ム?
 ハムエッグとか、ハムを何かと炒めたものとか、そういう「料理」ではない。加熱してないただのハム。いまどきの子供ならガッカリするかもしれないが、ぼくはこれが嬉しかった。ハムでごはんを食べるって、新鮮!
 割り当てはひとり2枚。大事に大事に食べる。ハムはうまいなー。しかも、Wくんちではハムにかける用にと食卓にウスターソースが出てきた。ハム&ソース! これもまた新鮮。W家の昼ごはんは毎日ハム、と決まってるわけではないと思うが、あの味が忘れられなくて、ぼくはハムを見るといつもあのときのハムライスを思い出す。

 70年代に「わんぱくでもいい、逞しく育ってほしい」というキャッチフレーズが流行語にもなったのが、丸大食品のプレスハムだ。コマーシャル映像では、焚き火で炙ったハムにかじりつく場面があるが、そのハムがすごく分厚いことに驚いた。目測で1.5センチくらいはあっただろうか。通常のハムのおよそ5~6枚分をいちどに食うのだ。贅沢しやがって。そりゃあ逞しく育たなきゃ許されねえよ。
 あの食べ方をいつかはやってみたいと思っていたが、家にあるハムをあんなに分厚く切ったら親父に殴られる。
 高校生になったくらいの頃にハムステーキという食べ物があるのを知るが、自分の行動半径にそんなものを食わせてくれる店はない。あったとしてもお金がない。
 フリーライターになったら、集英社の編集さんにハムステーキをご馳走してもらえた。CMのように「ガブリとかじる」という感じではなく、ナイフとフォークで小さく切って口に運ぶハムステーキは、たしかに美味い。美味いんだけど……分厚いハムというのは思った以上に固くて、食感があまりよくない。大好物にはなれなかったな。
 ハムはやっぱりペラペラがいいのだ。

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