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06 シンナーに気をつけて酒飲みな!

 高校時代には随分といろいろなアルバイトをした。イトーヨーカドー金町店ではインテリア売り場に配属され、毎日のように絨毯をロール巻きにしてはラッピングテープで止めた。マツモトキヨシ小金城趾店では倉庫に積まれた段ボールをカッターで切り開き、在庫の菓子類を店頭に積み上げた。
 もっとも印象的だったアルバイトは、当時の遊び仲間だった遠山と千葉に誘われて始めたペンキ屋の助手だ。遠山は大工のせがれ、千葉は鳶のせがれ。おそらく家業である職人のネットワークで見つけてきたバイトなのだろう。亀有にある知り合いの塗装店が人手を求めているので、「とみちゃんも一緒にやろうぜ」と誘われたのだ。
 日当は一人7,000円。プロの職人なら相場1万円のところを、親方は「お前ら高校生だから7,000円な」と言う。でも、仕事へ行く前の朝メシ代も、現場での昼メシ代も、すべて親方が出してくれるのだから文句のあろうはずもない。
 ペンキ屋は肉体労働の中ではまだ軽作業の方だが、それでも通常の仕事よりは圧倒的に体力を消耗する。昼も夜も腹ペコで、少食のぼくが信じられないくらいご飯をお代わりできた。
 そして、労働の後の最大のお楽しみは酒である。現場での作業を終え、塗装用具をワゴン車に積み込み、親方の運転で亀有に帰ると、みんなで銭湯に繰り出す。思いっきり汗を流したら、待望のビールだ。
 といっても、いちおうぼくらは高校生なので、居酒屋なんかに入るわけにはいかない。親方の家に帰って、奥様の手料理で酒盛りするのである。
 親父にもらった「泡」ではなく、ビールの本当のおいしさを知ったのはこのときだったのだろうと思う。
 未成年を預かる責任として、居酒屋には連れて行ってくれない親方だったが、例外的に知人が経営するスナックにだけは何度か誘われたことがある。場所はどこだったかな、新松戸だったような気がするが、記憶が定かではない。ママがいて、ホステスがいて、カウンターの向こうにはウイスキーのボトルがずらりと並び、いくつかのローテーブルに丸いソファが並んでいるような、どこにでもあるスナックだ。
 考えてみれば、スナックなんていう場所に出入りしたのは、これが初めてのことだ。家でコソコソとウイスキーを飲むことはあったが、低いソファに腰を下ろし、ホステスさんが作ってくれる薄いウイスキーの水割りを飲むなんて、ドラマでしか見たことがない。つまみはサラミとチーズ。隣の席ではどこかのサラリーマンがマイクを握り、カラオケで『銀恋』を歌っている。しっぽりとした大人の世界。
 ぼくも遠山も歌には自信がなく、カラオケを勧められても頑なに拒んだ。しかし、千葉は高校生なのに身体がデカく、顔つきは若い時の裕次郎に似ていて女にモテる。声も渋くて、『夜霧よ今夜もありがとう』なんか歌うとホステスさんたちは瞳を潤ませるのだ。どんな高校生だよ。
 そうそう、このスナックは親方の職人仲間が内装を手がけていて、一度、改装するときに店の看板のデザインを頼まれたことがある。
 店の名前は「梓(あずさ)」。最初は漢字ひと文字をどのようにデザインするか考えていたが、試しにアルファベットで「AZUSA」と書いてみたときに閃いた。これ、「Z」と「S」は スターウォーズのロゴみたいな書体にすれば、左右対称になるじゃん、と。
 仕上げたデザインをステッカーシートで切り出してステンシルにし、スナック入り口のガラスドアに貼って、塗装屋の親方が白い塗料をスプレーした。すると、店の外からも中からも「AZUSA 」と読めるのだ。このアイデアはママにも好評で、3万円くらいの謝礼をもらった。
 塗装屋のアルバイトはトータルで10日間くらいはやっただろうか。高校の卒業を機に親方とも会うことはなくなった。やがてぼくも大人になり、ときどき「そういえば塗装屋の親方、どうしてるかなあ」と思い出すことはあったが、亀有のどの辺に親方の家があったのかも、もう覚えていない。

 ……と、この件はこれで終わってもいいんだけど、実は5年ほど前にばったり親方と会ってしまったのだ。それも、まさかの亀有「江戸っ子」で。
 ぼくが店内左手の立ち席で飲んでいたら、通りに面したカウンターに見覚えのある顔が入って来た。40年分ほど歳をとった親方だ。思わず声をかけて近況を聞くと、すでに塗装屋は廃業して、いまはタクシーに乗っているという。奥様はお元気か、当時は幼稚園だった息子さんはどうしてるか、聞きたいことはいろいろあったが、ぼくはぼくで妻を亡くしたり、職を転々としたりといろいろあったのだ。
 過去は過去。いま噛みしめてるもつ焼きの「カラタレうまいよね」と笑うだけで十分だ。

※写真は亀有公園の近くにある立ち食いそばの「鈴しげ」。塗装屋仕事へ行く前に散々食べた店が、いまだに現存する。

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