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断酒・ポルノ断ちをして3ヶ月が経った結果www

こんにちは、mange park.です。

2022年が始まり、みなさんの中には「新年の抱負」を掲げた人もいるのではないでしょうか?

あれから早、3ヶ月。

達成できてますか?

三日坊主に生臭坊主。成れの果てには、かく浅ましき芋掘り坊主。

寂しいことに、人間は初心を忘れる生き物です。寂しいのは、髪と懐だけで間に合ってるというのに。

しかし、私は無謀であった。
人生の退路を断ったのである。

以下が、私の「新年の抱負」。

禁じ手集である。



2022年辞めるもの一覧
(2021年12月制定)

  1. アルコール

  2. 友人関係

  3. 旅行

  4. SNS

  5. ポルノ

  6. コンビニ



かろうじて、心臓には毛が生えていたみたいだ。

そもそも、なぜこんなことをするのか?
目的なしには達成し得ないだろう。

いや、理由なんてない。こうしたかったから。

群れることや安易な享楽を遠ざけ、孤独になって狂っていたかった。よく言えば、人生の断捨離である。

ただ、表向きな理由も必要だ。
自らを甘やかす波や周りから唆される風に流されないため。碇を海底に沈めた。


私には夢がある。

特段、ここで内容を語る必要はない。

それに向かって、勉強や取り組みをするための時間・お金・集中力などの資源を一点集中させるためである。

私は、目的を成し遂げるためには、何かを捨てる覚悟が必要だと常々考えている。

かくして、私は、三日坊主から修行僧へとジョブチェンジをしたのであった。


1.アルコール 6.コンビニ

まず、それらの目標を設定するに至ったバックボーンを語る必要があるだろう。

2021年夏頃、本業やプライベートで膨大なストレスを抱え始める。ありふれた言葉で言えば、毎日死にたいと思っていた。

冬に差し掛かると、状況も多少落ち着き、希死念慮こそ薄れていたが、ある種の躁状態になっていた。

仕事から帰ってきても寝食忘れ副業をしており、24時間勉強して働き続けるサイクルになっていた。

電池が切れたら気絶したかのように眠り、また活動限界まで働き続けるといった具合だ。

勤勉なわけではない。本業のストレスを副業をすることで発散していたのだ。

それこそ完全に狂っている。地獄の時期だった。

業から抜け出すために、もう一つの業を背負って抗っていた。今思えば、相互に悪影響を及ぼすこと必至である。

後ろ向きな努力は逃避であり、建設的な考えに至れるかは非常に怪しい。全てが上手くいかなかった。

次第に、手軽なアルコールに逃げることもしばしばであった。元々、嗜む程度にしか飲んでいなかったが、完全なる現実逃避である。

しかし、私は24時間成果を出し続けなければならない身だ。一瞬の判断能力の欠如が命取りであった。酔っ払っている暇など無い。

むしろ、酔狂は、いとも簡単に成績に悪影響を及ぼし、メンタルが落ち込むという悪循環を呈していた。

酒を飲んだら働いてはいけないと言うルールを応用すれば、逆説的に、アルコールを365日禁じる理由となる。

しかも、私はこう見えても健康重視の人種である。少量のアルコールも毒物としてカウントしており、「酒は百薬の長」という俗説は信じていない。命を削って陽気になるのである。

死刑の宣告を受けたソクラテスさながらである。「逃亡」か「毒杯」を飲むかの2択を迫られていた。

辛いことから逃げる手法は酒だけに留まらない。ドーパミン等の脳内麻薬を出して麻痺したい願望が生まれる。

辛い物が苦手なのに、セブンイレブンの「蒙古タンメン中本 旨辛味噌ラーメン」を涙と鼻水を流しながら毎日のように食べていた。これが美味いのだ。

そして、辛いもののあとは甘いものが食べたくなる。無限ループだ。塩味と甘味のシャトルラン。学生時代なら英雄になれた。

現在、大麻やアルコールなどは、その中毒性について議論が活発に行われている。

しかし、人間が最も身近で、最も依存しているのが「砂糖・脂肪・塩分」だろう。古来から人間を虜にしてきたヒーローと言うべきだろうか。

昔は、豊富になかった栄養素を効率よく蓄えようと体は進化してきた。人類の歴史は、飢餓との戦いの歴史である。一度逃すと次はいつ食べれるか分からないので、鋭敏にそれらを欲するようになった。

現代社会の目まぐるしい変化に対して、旧石器時代からの体の進化は追いつかない。

今やコンビニでいつでも手に入るダークヒーロー達は、もはやモブ(またはショッカー)であるのに、求め続けてしまう。砂糖は大麻よりヤバい魔法の粉だ。

バッドエンドは目に見えているだろう。

一時期、プチ断食をしたり、プロテインやサラダなどしか食べない生活を送っていたことがあるので、その時の明晰さや自己効力感は覚えている。

人はいとも簡単に堕落する。

結論として、作業効率・節約・健康面からアルコールとコンビニは禁じた。アルコールはこの3ヶ月達成できているが、コンビニは失敗している。

ただ、コンビニの使用頻度は90%減できているので、本来の目的には適っているはずだ。中毒的な範囲を抜け出せたと自覚しているので、今はほどほどに甘味を楽しんでいる。

目的の達成>手法の完遂>手法への執着

そして、この法則は、更なる挫折・断念への布石となることを当時の私はまだ知らない。

とりあえず、酒はここ一年は我慢しようと思っている。2022年の成功を祈って、忘年会の時に勝利の美酒でカタルシスを解放させる所存だ。

5.ポルノ

ここでいうポルノは、エロ動画(AV)・漫画・音声の類のことを指す。

この制限は当初の予定にはなかったのだが、他に娯楽がなくなると行き着く先はマスターベーションだと相場が決まっているのを直感した。

私も人並みにはオナニーが好きだ。従って、ポルノは体に良くないと容認しつつ受け入れていた。

それは体にも如実に現れていた。AVを見始めると決まって便意を催すのだ。何回、勃起をしたまま便器に駆け込んだことだろう。これは明らかに自然発生的でない刺激が、脳の報酬系に作用していることを示している。

予め断っておくが、健全なオナニーやセックスはむしろ推奨されるべきだと考える。エッチなコピペを見て妄想を膨らませていた時はうんちは出なかった。

問題は、ポルノによって、人為的に期待感と脱感を交互に繰り返すことにあって、それは、アルコールやギャンブルと本質的には変わらない構造だ。

前頭葉の活動量が下がり、集中力や記憶力の低下を引き起こす。テストステロンの生産量も下がり活動的でなくなる。オカズを選んでいる時間そのものも膨大なロスであろう。見ない理由はない。

早速、私は、検索履歴やお気に入りからエロの痕跡を消し去った。元々、収集家でもないのでこれは容易だった。

これで良かったのだと今は思える。射精欲を満たすために、思考停止でエロサイトにアクセスして時間と金を費やして、パフォーマンスを下げる真似は得策ではない。

削ぎ落としていくと、触覚(自分で刺激を与えること)とイマジナリーだけで絶頂することはできる。

どうしても、ムラムラを発散させたい時は、手段をエンターテイメント化させる思考をまずは捨て、射精という目的に全力でコミットすることだ。

検索エンジンに手がかかった事もあるが、判断の迷いよりも先に射精することに全集中を捧げる。さながら合気道の構えだ。その訓練は1ヶ月もかからず、今ではもう、検索しようとすら思わなくなった。

もし、妄想だけでどうしてもオーガズムに達せないというのなら、刺激量を下げていき閾値を発見することが賢明である。

つまり、あなたの頭は「オナニー=オカズを見つける行為」と直結しまっているので、絶頂に達するための最小必要限の「取るに足らないオカズ」を見つけて適合させていく。

具体的には、「裸婦画」などがいいだろう。快感を得れば得るほど、西洋美術に対する造詣が深くなっていくので、一目置かれる存在になること間違いなしだ。

過剰な刺激を受け続けることは、セックス本番で不感となり、遅漏や中折れをしてしまう恐れがある。刺激量を適切に抑えることは、より良い性生活にも繋がるのだ。

(私は、決してセックス至上主義ではないが、コミュニケーションとしては強力かつ汎用的で、良い作用が多いので肯定的な立場である。)

また、繰り返しになるが自慰行為を禁じている訳ではない。むしろオナ禁信者は馬鹿げているとすら思う。なぜなら、目的が明確化されずに、オナ禁族である自分に心酔し、悦に浸っているからだ。目的と手段を混同している。それこそ、真のオナニストではないだろうか。

巷で言われるオナ禁のメリットは、現状、科学的根拠はなく迷信の域を出ない。ただ、その方法論を採用することによって産まれる内的な功罪は確かにある。一過性のブームとして消化するのではなく、禁欲する動機に対して自覚的になる必要があるのだ。哲学なきオナ禁はもはやオナニーである。

従って、幸福度を高めるための再現性が高い方法論として、私は中庸の立場を取っている。

酒は社交の場において、「飲みたいな」と思う場面が多いので、社会的な機会損失を感じることもあった。しかし、ポルノに関しては良いことしかないので筆者イチオシである。

また、ポルノ断ちに興味を持ったあなたにも忠告がある。

このような準禁欲的な思想を他人に勧めることは確かに優しい美学ではあるのだが、間違えなくあなたは嫌われ、損をするだろう。人間は非合理・非道徳・超矛盾の生き物で自我に支配されているため、正しいことや道理を説くことはコミュニティからの排他を意味する。

もし、あなたが、社会的弱者の屁理屈非モテオタクを見掛けとする。彼らは「バレンタインデーは企業の策略乙w」と宣いながらも、自身の性を満たすために脳死でエロサイトに接続している。しかし、それは年に一度の繁殖イベントを酸っぱい葡萄にして、365日異性に対する実直な幻想と執着を抱き、セックス産業に対してご奉仕し続けるツンデレ野郎なので、周りから虐められないように、ただ優しく見守ってあげてほしい。

間違っても友人、家族、恋人に強要することはオススメしない。何かトラブルが起こっても私は一切の責任を負わない。あなたは頭に血が昇っているだけだ。

以下、次は少し余談にはなるが是非聞いてほしい。

ここではAVや風俗を含む性的サービスを否定しているように聞こえるかもしれないが、それは断じて否である。むしろセクシー女優や風俗嬢の方には尊敬の念を抱いている。職業に貴賎はない。

それどころか、私は問題提起をしたい。

「性的サービスは、女性差別であり、性的搾取であるから、女性をそれらの職業から解放させるべきだ」という風潮だ。言語道断、ふざけるなと言いたい。

もちろん、前提として、性被害に遭っている方や不当な労働環境にいる方は助けなくてはならない。しかし、適切な職能を持ち、契約通りの雇用関係において需要がある以上、主観的な正義感で雇用を奪うなんてことがあってはならない。

明日の生活のため、家族のために一生懸命働いている人に、非当事者の思想一つで生活の基盤を脅かすことは凶器に他ならない。

両極端に振れすぎなのだ。男女共同参画社会は女性を幸せにしたか?「自己実現できる女性」「自立した女性」聞こえはいいかもしれない。

ただ、家族や子どもを作って幸せに過ごせたかもしれない時間を、そのような綺麗にラベリングされたチンケな有賃金労働に費やして、資本家の私腹を肥やしただけではないのか?

得しているのは、奴隷を増やせた資本家とごく一部のエリート女性だけである。雇用を生むのは素晴らしいことだが、方便で惑わして、幸せの形を一義化して取り上げるのは、多様性に反している。

それと同様に「女性差別」「性的搾取」とセンセーショナルで最もらしいラベリングをして、女性の幸せの選択肢を潰すような行いがまかり通るならば、それはフェミニズムとは程遠いのではないだろうか。

以上、脱線を終わりにして、これを機に主張しておいた。


2.友人関係 4.SNS   3.旅行

私は孤独になりたい。そう願っていた。
オタクいびりやフェミニストに一石を投じる私にも、少ないながら友人はいる。

リアルでもネットでも深く狭く、友人だと私は思っている。私だけかもしれないが。

それでも、遊びに関わる時間やお金を削ることで夢の実現が早まると、淡い期待を抱いて画策した。

しかし、その計画は早くも頓挫した。まず、SNSは情報収集にも使うので、どうしても私用や娯楽との線引きが難しかった。Twitterは貴重な情報源だし、YouTubeでは動画でも勉強をする。

また、note同様、つぶやくことは排泄と形容したように、心の糞尿は止めどなく流れるのでそれを堰き止めるのはもはや不可能であった。

2021年12月、早々に甘んじてSNSは解放し、同時に心の拠り所ともした。趣味と情報収集、排泄を同居させることでSNSの利用を正当化したのである。

しかし、リアルの友人らには事情を説明し、関わりを断つことを宣言した。関わりを断つと言っても、誘いに積極的に乗ることや不要な馴れ合いは油断や慢心に繋がるので、辞めるということだ。絶縁したわけではない。

これが間違いであった。

孤独は毒なのである。否、私が陥ったのは「孤独」ではない。「孤立」だったのだ。

辞書通りに言葉を受け取るなら、「孤立」は状況を表し、「孤独」は気持ちを表す。

1月からリアルもネットの人間関係も積極的に避けるようにしていた。確かに"そこ"には居たのだが、物理的にも心理的にも壁を作りだしていた。

何度も葛藤した。辛い。みんなは楽しそうにしているのに、自分は一体何をしているのだろう。

私が去年に企画した『ハイボールを飲みながらタコ焼きパーティーする会』は私抜きで成功を収めたそうだ。タコ抜きのタコ焼きとは正にこのことだ。全て私が悪い。タコピーの原罪である。

一人行動のプロの私でも流石にこれは堪えた。

1月半ばには仕事の不調や、孤立、それらの要因が重なったのか高熱を出し、暫く病床に臥すことになった(PCR検査は陰性)。

再び、希死念慮が湧いてきて、一番辛かった時期である。自己否定を繰り返した。こんな思いをしてまで成果を出せない自分の存在価値を。

否、そもそもの仮説が間違っていた。根底から。

そこで改めて認識した。

「人ってあったけぇ。あったけぇよ。人のぬくもりが欲しいよ。」

平穏な暮らしには、仲間たちや大切な人との繋がりが必要不可欠である。私一人が成功したとしても、幸せになったとしても、意味はない。むしろ、程遠いものになる。

手段と目的を倒錯して心酔しているオナニストとは正に私のことであった。なんと愚かで情けないのだろう。

人には、努力する一定期間というものは確かに必要だ。遊びは大切だとしても、頑張らない理由にはならない。

しかし、敢えてもう一度言おう。
孤独は毒なのである。

遊ぶ規模や頻度は70%減して、派手にならないようにしているものの、増やしてもいいと今は思っている。


こんな長文・駄文を読んでくれているあなたにも感謝をしています。本当にありがとうございます。そして、あなたは一人きりじゃないです。私はあなたの存在をちゃんと認識しています。存在している価値があります。


ネットのこんな記事を読んでいるだけでも、筆者の私を喜ばせることができているんです。


あなたには人を喜ばせる力があるんです。



落ち着いたら旅行にでもいきましょうか。

楽しいことがきっと待っているはず。

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