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月と六文銭・第六章(9)

 レースクイーン・板垣いたがき陽子ようこは武田の厚意で500Eを運転する機会を得た。想像していたよりも運転しやすく、楽しい車だったが…

~陽子の初体験~(2)


 高速のランプを降りて下道を静かに流し、マンションのそばまで、そのまま陽子が運転した。

 陽子は運転を交代した方がいいのか、そのままマンションの駐車場に入って行っていいのか、あるいは何か別のことを考えているのか、武田に聞こうと思っていたところ、先に武田が話しかけてきた。

「このまま、マンションの先の24時間スーパーの駐車場に入れてもらっていいですか?」
「マルエムのことですか?」
「はい、あそこなら駐車場が地下ですので、あまり人目に付かないと思います。申し訳ないですが、そこから歩いて帰ってもらうことになってしまいます…」
「大丈夫です!しかも、花束とドレスとあの二つの袋、幸せ過ぎて、スキップしながら帰ります」
「よかったです、喜んでもらえて」
「もちろんです!お食事もドレスもランジェリーも、そして、この車を運転させてもらえたので、最高の誕生日です」
「また、別の機会に別のランジェリー姿を拝見したいです」
「私も見て欲しいです」
 陽子は本当にそう思ったので、武田にキスをした。


 スーパーの駐車場は都心の店舗にしては大きかったものの、利用者も多く、かなり奥まで行かないとスペースを見つけることができなかった。

 陽子は駐車に苦労すると予想していたが、意外と取り回しが良く、小回りがきいたので、すんなり駐車できた。

「ありがとうございました。走りもすごいですが、こんなに楽しい車だとは思っていなかったので、驚きです。また、運転する機会があったら嬉しいです」
 陽子はそう言いながら、サイドブレーキなどを確認して、エンジンを切った。
 武田は陽子からキーを受け取り、ドアを開けて降りた。
 陽子も運転席から降りたが、名残惜しいのか、フロントからボンネット、ルーフからトランクまでを見渡し、ドアミラーを撫でた。
「またドライブ行こうね」

 武田は後ろの席から紙袋を二つ取り出して、陽子に渡した。
「マンションの近くで、あちこち一緒に歩くのは良くないと思いますので…」
「そうですよね、お気遣いありがとうございました」
 陽子は再度武田の頬に軽くキスして駐車場の出口に向かい、スキップとまではいかなかったが、軽い足取りで坂道を上がって行った。

 武田はスーパーで何かを買って行くらしく、駐車場の奥のエレベーターに乗って、地上階に向かった。大型の施設の3階までエレベーターで上がり、文具コーナーでホワイトボード用のペンと磁石、万年筆用のインクを買った。

 食材品のフロアに降りて、ヨーグルト飲料を数本購入し、再び地下の駐車場で暗闇に溶け込んでいたメルセデスに乗り込み、自宅マンションへと向かった。


 地下の駐車場は既にほぼいっぱいだった。元々昼間は稼動しない車両が半分、仕事に乗っていく人が半分くらいだろうと武田は思っていたが、今日に限って多くのオーナーが早めに帰宅していたようだ。

 自分の駐車スペースに車を戻そうと角を曲がったところで、BMWの3シリーズクーペが見えた。これがそうか、と思いながら、陽子の誕生日が車のナンバーとなっているBMWを確認した。

 定番の青に塗られ、シートはグレーだった。いい趣味だし、女性がメルセデスに乗っているよりも男性を刺激しないので、陽子が車でサーキットやイベント会場に行っても、陰口をたたかれることのない良い選択だと感じた。

 武田はBMWを所有したことはないが、3シリーズと同クラスのベンツ190を所有したことがある。もちろん普通の小ベンツではなく、英コスワース社がチューンした4気筒16バルブエンジンを搭載したレース用ベース車両だった。

 父親からは「なんでマニュアルにしたんだ?」と、母親からは「おや、ベンツかい?」と散々だった。当時のガールフレンドからは「どうして小ベンツに羽が付いているの?」と的を射たような、大外ししたような質問を受けた。

 ドイツでグループA競技(市販車ベースのレース)が過激になる前のメルセデスとBMWは取り敢えず市販車で戦っていた。メルセデスは190E、BMWはM3。

 しかし、イタリアのアルファ・ロメオの参戦を受け、急速にエスカレートして、各部のカーボン化、チューブフレームの採用、エンジンの容量アップ、巨大なフロントとリアスポイラーの装着が進んだ。最終的には市販車にないV6気筒エンジンを搭載するまでに至り、モンスターマシンへと変質してしまった。

 当時の車両は今、高値でオークションで取引されたりしているが、メルセデスのEVO2エボツーと呼ばれる車両などは、基が5ナンバーの小ベンツだったとは想像できないレア車両になっていた。


 上手だったな、運転、というのが武田の陽子に対する正直な感想だった。自身もA級ライセンスを持ってサーキットを走っているわけだが、ファッションでやっているわけではなく、チャンスがあったら自分がレースに出たいのかもしれなかった。

 この車も好きだったみたいで、それはそれで嬉しかった。日本では、メルセデスは運転態度の悪い、ギラギラした成金達の車というイメージが強い。自分も乗っているというと意外な顔をされるのが嫌だった。

 ポルシェに乗っているというと多くの男性の妬みを受けることになるので、これも結構面倒だった。自然と会社で車の話をしなくなる。仲間内だけでは煮詰まって〝くちプロレス”になって、これも疲れる。本当の車好きにとって日本は窮屈な場所だった。

 しばらく英国に行きたいなぁ。キットカーを買って、自分でメンテするガレージ付きのフラットを借りて、ウィークデーはシティで働き、週末は田舎でドライブ三昧は悪くないだろう。

 ハロッズで買い物をしたりできるなら、のぞみも喜んでくれるのではないか。そんなことを思いながら、車を降りずに、のぞみにメッセージを打ち始めた。

 ところが送信を押そうと思った瞬間、新しい携帯電話の緊急発表会の案内メールが着信したというアラートが表示された。

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