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月と六文銭・第十四章(69)

 工作員・田口たぐち静香しずかは厚生労働省での新薬承認にまつわる自殺や怪死事件を追い、時には生保営業社員の高島たかしまみやこに扮し、米大手製薬会社の営業社員・ネイサン・ウェインスタインに迫っていた。

 田口はターゲットであるウェインスタインの上司・オイダンが同僚殺害の犯人であることを報告して、連絡員から本部に無効化許可を求める申請が出された。狙撃手は既に手配され、狙撃に向け稼動していた。
 果報は寝て待て、とはいかず、田口は同僚とカラオケに行く予定を立てたりして、週の後半の過ごし方を探っていた。

~ファラデーの揺り籠~(69)

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 田口が真面目に口をへの字にして考えているところが可愛くて、武田は再び乳首に唇を寄せて吸い、ピクンと一瞬だけ田口の姿勢が崩れたのが面白かった。

「あん、今はダメって言ったでしょ」

 田口はため息と共に武田をたしなめたが、優しそうな視線を"自分の男"に向けた。

***再び回想へ***
 田口は、引き続き電磁波防止関連の文献を読みながら、スマートフォンに届くメッセージやアラートを細かくチェックしていた。オイダンがどうなったのか気になっていたのだ。

<私が推薦したアセットを起動したの?彼なら間違いなくやってくれるはず。他では無理よ。連絡員はその点をしっかり本部に伝えてくれたかなぁ>

 スマートフォンに届くアラートのうち、普段夜届くものが珍しく昼間に届いていたので開いた。
 厚労省事務官・服部はっとり昌子まさこの心拍数がデータとして送られてくる設定はまだ生きていた。普段は夜のセックスの時に心拍数が上がり、平静時は65程度なのが90を超えるのだが、今日は休みの日なのか、昼間から上がっているということだった。
 結構激務のボーイフレンドも昼間から彼女の相手をしなくてはいけないのは大変だなぁ、と思いつつ、抱いてくれる相手がいることに嫉妬をしている田口だった。

 スマートフォンにアラートではなく、メッセージが届いた。連絡員・ジョンからだった。

JDC:装備が到着。一旦整備部で不具合がないか確認してからアセットに届ける手筈。

 装備、つまり狙撃用の長距離ライフルが基地から届いたということね。稼働確認は必要だが、早めにアセットに渡して、アセットが確認した方がいいんじゃないの?そんなことを思いながら、田口は返信した。

Sα6:了解、Good Hunting!

 狩猟の習慣のある欧米では、出撃する際に「収穫、あらんことを!」という意味なのか「Good Hunting!」という表現を使う。それに倣って田口も連絡員に返信したのだ。

JDC:ああ、あのアセットに任せておけばいい。我々とは違う次元の狙撃ができるらしいから。

<ふーん、次元が違うのか。ドスィエからは、超絶テクニックの持ち主なのは読めるが、次元が違うとは、どういうこと?>

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***現在***
「私ね、狙撃って、狙って、微調整して、タイミングを見て、引き金を引けばいいだけじゃないの、って思ってた時期があるの。
 私みたいに実際に相手を刺す、斬る、絞める工作員の場合、ターゲットとの距離が限りなくゼロに近づくのに、スナイパーって安全圏にいて、現行犯で捕まる可能性も低いし、楽な仕事じゃないか、とも思っていたわ。
 でも、スナイパーが作り出す特殊な状況が、我々の仕事をしやすくするとか、アリバイを成立させるとか、我々を守ってくれるとか、サポート面での役割が大きいことに気が付いてからは現場工作員の役割、援護射撃のスナイパーの役割をきちんと認識できるようになったわ」
「サポート的役割ね」
「哲也さんみたいにサポート任務に留まらない"腕"の者もいるけど、スナイパー部隊の者はサポートに徹し、我々の現場工作が成功するのを見守る役割になっているのに感謝しているのよ」
「まぁ、現場によってはスナイパーを配置して、援護射撃を任せる場合もあるが、僕は狙撃がメインだから、ターゲットに合わせて、狙撃地点と狙撃ポイントを設定し、銃を選び、出入り、特に脱出路の確保も完ぺきにする」
「生き延びるには慎重さが必要だけど、哲也さんの場合、そもそも存在しないんだから、有利よね」
「実在が確認しにくい存在を業界ではゴーストと呼ぶけど、そもそも呼び名がある時点で存在がバレていると思うんだよね。僕の場合、呼び名すらないというくらい存在が知られていないので、有利だと思うけど。
 それでも、万一、官憲のレーダーに捕捉されたら、仕事がとたんにやりにくくなるから、慎重に行動していますよ。組織の力を借りて、安全に脱出することもあるし、何度か組織の脱出路すら使わずに自分で見つけたルートで脱出したことも」

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 武田はこの時点で自分を狙う暗殺集団がかなり迫っていることを感じていたが、単なる任務ではなく、個人的恨みを原動力としている三人姉妹とは知らなかった。香港で殺害した三合会幹部に子、しかも三人もいることなど全く想像していなかった。

「じゃあ、一番大変だった脱出は?」

 田口は何を期待しているのか分からなかったが、武田は素直に国会議事堂の地下から脱出したことを話した。

「狙撃自体は難しくなかったけど、公安警察がすぐそばにいたので、彼をマいて、地下鉄に轢かれないようにして、東京の地下をしばらく進んだ時かな」
「そういえば都市伝説なのかな、東京の地下には一般に知られていないトンネルとか線路とかがたくさんあるって」
「あるよ、いろいろ。戦前からのものもあって、全貌が公開されることはないだろうね。都市伝説のままでいいんじゃないかな」

***再び回想へ***
 田口は自分が想定したアセットをジョン・デイヴィッド・コーヘン(米大使館に配置されているCIA連絡員)が稼働したと知って安心していた。
 会ったことも、話したことも、ましてや見たことすらない狙撃の名手。漫画に出てくる超A級スナイパーのごついイメージの男性を想像していた時期もあった。狙撃の超絶テクニックに加え、女性に対するテクニックもなかなかのもので、グラマラスなモデルやレースクィーンをとっかえひっかえしているプレイボーイ、ある種の「鼻持ちならない、いけ好かない野郎」と認識していた。
 しかし、今、重要なのはオペレーショナル・パートナーであるデイヴィッドの仇を討つこと、いや、撃ってもらうこと。その為ならいけ好かないスケベ野郎でも能力を発揮してもらうつもりだった。
 既に木曜日になっていて、ターゲットは土曜日に韓国に飛んでしまう。日本に戻ってくると言っているが、いつ予定が変わってしまうか分からないので、今日か明日か飛行場に向かう土曜の朝か。
 田口は看護師の仕事をしながら、職場の看護師仲間とカラオケに行く予定を組んだ。金曜日の夜は皆それぞれ予定があるので、逆に木曜日の夜は集まりやすく、田口にしてみたらアリバイを作りやすい。
 食事はカラオケをしながらということになり、田口はずっとカラオケに同僚たちと一緒にいることとなった。店の監視カメラにも映像が残るので、アリバイは完璧と言えた。

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 ハンドバッグに入っている携帯電話にメッセージが来る度に手首に着けていたスマートウォッチが振動して、情報の更新を伝えた。

Tonight's the night.
=今夜、決行。

 ヴィンセント、あのホステスが大のお気に入りみたいだけど、ただの主婦だから、今夜の件に巻き込まれないといいけど、と田口は思った。
 他の看護師が最近の歌を歌っているのを聞きながら、相槌を打つものの、どこか上の空なところがあって、タンバリンがズレたりした。

「主任、お疲れですか?」
「あ、ごめん、今日検査に来た患者の結果に気になる数字があって」
「明日にしましょ、今日は、ぱぁーッと歌いましょ!」

 田口は、この病院では班長レベルの主任だった。制服の襟にストライプが複数入っていて、それと分かるのだが、いくつかの病院に勤めている関係で、どこに行っても名前で呼ばれるよりも主任、或いは班長と呼ばれていた。

Horse tripped, jockey fell.
=馬が転び、乗り手は落下。

 田口はスマートウォッチの表示を見てほっとした。馬が転び、ジョッキーは落馬した、か。ジョンも面白い喩えを使うなぁと感心していた。堅物だと思っていたが、意外とユーモアのセンスもあり、これまた意外と面倒見のいい人(本当の上司ではなく連絡員だが)なのを感じていた。
 今夜のターゲットはフェラーリに乗っているヴィンセント・オイダンだった。フェラーリのマーク「プランシング・ホース(=跳ね馬)」から「馬」、オイダンが運転手=騎手つまり「ジョッキー」になぞらえて、短文で速報を送ってくれたわけだ。

<ヴィンセント・オイダン、当然の報いよ>

 田口はスマートウォッチの横のボタンを押して、表示を消した。
 幾分、胸の内がスッとした。ジョッキーの命は無事だろう。それでいい、現時点では。

 田口はすっきりしたのか、急に手を挙げて、「六本木心中、行きまっす」と宣言し、初めて聞く人を驚かす声量と美声でアン・ルイスになり切った。
 ちょっとひと汗かいた田口が自分の席に戻ると、まだ3年目の看護師・田所たどころ萌香もえかが興奮したまま田口とハイ・ファイブを交わした。

「主任って、かっこいい!」

 今夜は初めからずっと田所が田口の隣に座っていた。L字型の椅子に座っていたが、表示画面の正面には師長の山田やまだ、副長の鈴木すずき、8年目の田中たなか、横の位置には田口、3年目の田所、5年目の結城ゆうき、6年目の清水しみずがいた。

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