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カメラ・オブスキュラ

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植田正治 〈パパとママとコドモたち〉1949年

声に出して読みたい単語ってのはこの世に有り触れている。最近職場で出会ったのは"御座師匠"というワード。ゴザシショウの詳細は置いておくとして、"カメラ・オブスキュラ"なんてどうだろうか。ラテン語で"暗い部屋"を意味する言葉で、俗に言うカメラの語源でもある。

鳥取は大山の麓、植田正治写真美術館の中に他でもないカメラ・オブスキュラが存在する。我々は文字通り暗い部屋に入り、世界最大規模のカメラレンズに映し出された(逆さに転写された)伯耆富士を目にすることが出来る。

人間というものの内面はある種のカメラ・オブスキュラではないか、そんなことが思い浮かぶ。いささか言い過ぎということは幸い直ぐに判断できた。仕切り直して、人間というのはカメラ或いは写真である。世界をどう切り取るか、どう象るかは自由なのである。

写真を撮影するということ、それは各々が眺める世界を高次元で客観化することのできる唯一の営みではないのだろうか。その人物が何を見ているのか。無論、天邪鬼な私はガラスに貼り付けられた黒いハットなぞ被写体に非ずという人間を演じる。

植田氏の作品を目に焼き付けて、何かを得た気分になった。その気分は"ガラスに注意"を被写体として収めるという、大分違うだろという迷走に自らを導く。続いて下の写真は掃除のおばちゃんに教えてもらった反射トリック。このあべこべ具合が堪らなく好きだ。もう私の写真の話はいい。

氏の作品を見ながら、シャッターを切った意図や演出のそれを考えるのが楽しかった。ここは自分でも撮ると思う、だったり、ここは撮らないな、であったり。モノを接写するところは僭越ながら共通しているカモ。演出に関してはウェス・アンダーソンと少し似ているね、なんて話していた。

意図を探るという意図を持った鑑賞によってだろうか、写真って面白いなと心の底から感じることのできた、そんな有意義な時間だった。好きな写真家は奈良原一高さんくらいだったから、もっと興味を持とうと、そう思った。

夕方、鳥取駅前のモニュメントをモノクロで撮影してみた。

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