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聖福寺山門解体が進んでみえて来たもの

新年を迎え聖福寺山門解体作業は残すところ柱と虹梁の部分の木部となりました。
まず木部の材料ですが、主要柱と眺めてよく見える虹梁等の木部はケヤキ材を使い、あまり目立たない横の虹梁や屋根内部の見えない木部はツガ材を使用されていた。

写真の柱と下の虹梁がケヤキ材で上の細い虹梁がツガ材。
そして、解体して判ったのは木部に何かしら染料が塗られていること。
唐寺に見られる朱塗り(ベンガラ)のような色ではなく、もっと木材が古くなった様な色に統一されているように見える。
おそらくは違う木材を同じ材に見える様に色を塗っているのではなかろうか?との見解でした。

写真はツガ材の部分で表面が塗られている部分で中心部は元の材の色。
長崎の唐寺(同じ宗派)と違うのは京都の黄檗山萬福寺の伽藍を真似て建てられた為にベンガラ色を使われていないのだろう。
解体していく中で虹梁が柱と交わる部分に鉄板が入っていた。特別な建築法では無いようだが近畿地区に多く見られるそうです。やはり聖福寺の建物の多くは堺の棟梁が関わっているからかもしれない。当時の製鉄技術が未熟であったので延ばした鉄板の形に合わせて木部のはめ込む場所を鉄板に合わせて削っています、だからピッタリはまりますし創建当時からの物というのが判ります。
また空気に触れない場所なので300年以上経ってもキレイに残っていますよと。

もう一つ興味深いものが虹梁等を支える様に設えてあるマスですが、木部それぞれに組み立てる時に間違えないように印や場所を示す文字が記されているのですが、マスの一つだけに清水観音・黒谷・祇園・知恩院と記されている。寄進を請けているのであれば隠れる場所に記す訳は無いだろうし、何も小さなマスの一つに書かなくても…と調査している設計監理者の文化財建築物保存技術協会の方と共に首を傾げていました。とても謎の記しです。

マスを載せる部分のツノの印を消して字を書いているのが益々謎ですという事でした。果たして謎は解けるのか?
後、解体して判った事は、虹梁等の木部の継ぎ目の部分に「丸に吉」の刻印が捺してある事。設計監理者と「材料が出来上がった証に刻印を捺しているのかもしれませんね」と話していました。

古い建築物は文献が文字のみが残されて図面等はありませんから修復作業等での解体の中でしか判らないものが在るのですね。