自己紹介的なもの

脱サラしてカフェe-maidというメイド喫茶店のおっさんをしています。スポーツ専門商社で社内SEとして13年ほどモーモーと飼われていました。趣味はスキー、滋賀県スキー連盟所属の正指導員でB級検定員。車は平成10年式(98年式)のECR33のスカイライン、バイク92年式ホンダNSR250Rと96年式スズキRGV250γ

小中高大と目立つ存在ではなく中庸だったかと思います。趣味のスキーを初めてしたのはボーイスカウトのスキー訓練。当時の隊長が秋田大学のスキー部だったようで、ボーイスカウトでも毎年スキー訓練がありました。そのおかげ?で大学に入るまで年2回ほど行き続けて、大学では基礎スキー部に入った。そんなに上手い人も居ないスキー部だったので、卒業した翌年にようやく一級。

卒業する頃は就職氷河期、一旦は車が好きだった事もあり中古車卸売業の会社に決まり4回生の後半、丁稚していた。

ここの社長はスーパー耐久とかでレースもしている方で、後々デュクセルの社長になっててビックリした。社長のカバン持ち的な仕事をしていたが、営業が合わないと思い社長に相談。その時の言葉はまだ心に残っている「営業はたぬきにならないとアカン。君はどちらかというとまっすぐを譲れなさそうだ、コンピュータの仕事なんか向いてるのとちゃうか」と、今思えば当時の私は確かにたぬきになれない。高校時代はコンピュータのコースにも居たので、そちらの方向に戻ろうとコンピュータの職業訓練校に通う事になる。

相変わらずの就職氷河期だったが、スキーをしていた縁もあってかシウラスポーツ用品という会社に社内SEとして就職。社内SEとしての仕事は社内システムの保守開発とコンピュータに関するヘルプデスク。商品の出荷の時間には荷造りの手伝いなども。ウインターの営業がスキーのメーカー試乗会に行く時などは有休をとって出張について行く事も。

転機が訪れたのはオタク友達から誘われた岡田斗司夫元氏が開催していたオタキングexに参加した事による。後にオタキングexからFREEex(フリックス)に名称変更。オタキングexは年間12万岡田斗司夫氏に払って仕事するという組織である。そこで普通(あえて普通と言わせてもらいます)に学校出てサラリーマン以外の人生があるという事に気付かされました。

会社員として働いていましたが、給料も上がらずボーナスも数年無い状態が続いていた為か会社で働くと言うことに疑問を持ってしまい、違う道を模索。最初は冗談でメイド喫茶する!などと意味不明な供述をしていたですが、オタキングex同期から「メイド喫茶買わないか?」と話を持ちかけられた。オーナーさんを紹介してもらい、購入の交渉をしていたが、結局は天秤にかけられ、当時の店長に売るということで立ち消えとなった。その店自体は店長の夜逃げで店が無くなるという結末だった。そして物件があったらするという方向で雌伏の時を過ごす。

半年ほどして偶然歩いていた時に物件情報を目にした。内覧し仲良くなっていた、通っていたメイド喫茶のマスターと相談して、同業他社になる事を決意。サラリーマンをしながら二ヶ月後カフェヴィランジュというメイド喫茶をオープンさせた。

二足の草鞋を履く状態で軽く倒れれるなーと思ってサラリーマンを辞める事にした。順調とは言えないが右往左往しながら一年が経ち、当時のe-maidのマスターからお店の売却を打診された。人気店であったe-maid。。。これに二つ返事してしまう。今思えば暴利と言われる金額だったがずっと通っていたお店で憧れの店であったからだ。しかしながらマスターとその内縁の奥さんから追加の条件をどんどん付けられる。特に内縁の奥さんからは私個人の事をボロカスに言われつつ、お金は出して名前は経営者だが、売上金を上納する雇われ店長の様な条件になってきたので、ついに断る事に。そんなこんなで結局はケンカ別れしてさらに一年。この時はあの憧れていたe-maidがボロボロになっていた。e-maidのオーナーさんが店を売却に出しているという噂を聞いた。

そうこうする内に当時のe-maidのキッチンさんが店を訪れ「マスターが会いたいと言ってる。e-maidを助けてくれないか」と今度は売却を打診され了承した。他社の方が金額的に良かったようだが、全スタッフの解雇と居酒屋化や、ブラックで有名なところであった。今まであったe-maid、それを続けてくれと言われこうやって今、お客さんとして通っていたe-maidのオーナーとして収まった。

感謝