見出し画像

冷笑は燃える、誠実は燃えない

この1週間、インターネットを取り巻く基調について「冷笑」と「誠実」という2つの言葉がにわかに取り沙汰された。きっともう2、3日したら風化して、なんかそういうこともあったね、みたいな雰囲気になる気がするので、今のうちに思ったことを書いておく。

ことの発端は、オモコロ派生のYouTubeチャンネル「ふっくらすずめクラブ」が、4月1日に名称を変更したことによる。
変更をアナウンスする、いわば第0回の動画の内容と、変更後の名称それ自体(「会社にしか友だちがいない」)が、なんかそれまでの感じと違う、該当のチャンネルを普段から楽しんでいた視聴者からすると違和感を覚えるものだったこと、そして更新日がそもそもエイプリフールだったということもあって、「この変更にはなにか裏があるのではないか」とか「いま流行りのドキュメンタリー風ホラーの序章なんじゃないか」みたいな憶測まで飛び交うことになった。

しかし蓋を開けてみれば全くそんな事実はなく、更新頻度の増加や新規視聴者へより分かり易くしたいなど、チャンネルリニューアルの一環として、運営側が大真面目に新しい名称を考え、動画を作った結果、普通にそのようになったのだという。そしてそれが単純に、ファンからの不評を買った(公式のコミュニティの言葉をそのまま借りれば、“正面からちゃんとスベった”)。

新しい名称も動画の内容も、何の衒いもない、正面からのアプローチだったということ。じゃあ、該当の動画を観た視聴者たちが最初に覚えた違和感は、一体何だったのか。これが、今回の冷笑と誠実議論の口火になったわけだ。
ツイッターで長らく交流があり、毎夜の麻雀仲間でもあるたつたがわさんが、このトピックに面白い指摘をして(そしてなんかちょっと燃えて)いたので、以下に引用する。

オモコロは冷笑から誠実へと移り変わっていく時代に合わせて在り方を変えながらタフに生き残っているけど、その結果冷笑で獲得した古参ファンと誠実で獲得した新規ファンを両方抱えてしまっているので、たまにその歪みが可視化されてグロくなっちゃってるときがある

@GAWA_TaTsuTa

鍵引用の数がすごいことになっていて、それだけで「おお〜」という感じだけど、興味深いのはこの言及に「どういうこと?」みたいな反応と、「確かにね」みたいな反応の両方が見られたことだ。端的に、前者が“新規ファン”寄りの人たちであり、後者が“古参”なのだろう。

オモコロはもう20年弱続いている驚異のメディアで、その歴史の中間にスマホ市場の確立とSNSの爆発的普及があった。パソコンでしかアクセスできないインターネットには“世の中の裏”みたいな感じが残っていたけど、スマホ以降のネットはそういう雰囲気ではなくなって、“表”、つまり現実世界と地続きな側面が強まってきた。Facebookなんかはモロに、なんというか「自分と、社会」みたいなものが前面に出るプラットフォームである。

パソコンアクセス主体のネットは冷笑・俯瞰、そして自虐の風潮が支配的だったし、それが面白の真ん中だった。オモコロ設立の背景にテキストサイトの隆盛があったことを考えると、当時からの運営、ファンがその影響下にあるのは間違いないと思う。
(例えば、ちょっと話が逸れるけど、「スイーツ(笑)」なんてミソジニー含有量が高い言葉、今じゃ絶対流行らないじゃないですか。でもそれが全然まかり通っていて、ネット流行語みたいなものとして取り上げられるくらいは、なんか、全体がそういう雰囲気だったのだ)

テキストサイトなら掲示板、ブログならコメント欄みたいに、読者がオープンにコンテンツへ意見できる場というのは、当時管理者に大きな権限があった。極端な話、何も言われたくなかったらそこを閉鎖してしまえばよかったのだが、しかしSNSが普及し、読者各々が発信のベースやコミュニティを形成し始めたことで、どんどんそういうわけにもいかなくなってきた。炎上によって被る不利益みたいなものが、無視できない規模になったというか。

オモコロみたいに母体に株式会社を据え、がっつり広告業を行うとなると、なおさらイメージを損なう動きはリスクになる。テレビもそうだけど、広告ベースの営利メディアは結局スポンサーあってのものなので「炎上? 知らん知らん 笑」みたいな態度は取りづらいのだ。
で、じゃあ極力炎上リスクを回避しましょう、という意識のもと生まれたコンテンツが、受け取り側の目にどう映るかというと、結局、それが「誠実」なんじゃないかと思う。敵を作らない立ち回り、少し前に言葉が一人歩きするように流行した「人を傷つけない笑い」もその類型だ。

「冷笑と誠実」で𝕏内を検索すると、この2つの概念は相反するものではない、二項対立ではない、という意見がいくつか見受けられたけど、これは単純に「誠実」の定義がちゃんと定まっていないからだと思う。少なくともたつたがわさんの言及を物差しにするなら、冷笑的である限り誠実ではない・誠実である限り冷笑的ではない、みたいな話にはならない。

時代のトーンの移り変わりがあって、その時々でもっともウケる形でコンテンツをつくること。それは当然の姿勢だ。しかし、そうした変遷の中で獲得してきたファン、そしてそのファンが「いま」のコンテンツに向ける眼差しは、どうしても一様にはなりづらい。

インターネットには、冷笑・俯瞰・自虐みたいなちょっと陰のある視線を、屈託なくワイワイした非インターネット的な事象に向け、茶化す面白をやってきた歴史がある。
で、今回のオモコロみたいにそれ自体が、急に非インターネット的な振る舞いをし始めると、それを眺める側からすると、「これは、どっちの?」という混乱が起こってしまう。
たつたがわさんの言うところのグロテスクさは、この、ファンがコンテンツを信じきれない状態が可視化されたときに浮かび上がるのではないだろうか。

✴︎✴︎✴︎

該当の動画のコメント欄に頻出した形容詞に、「ダルい」があった。俯瞰とか自虐とか、目線を合わせない態度より、「えー なんかダルいんすけど」って、とりあえず付き合う感じが、今っぽいのかも知れないね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?