超能力は法則のこと(喫茶あんでるせん)
やりたいことだけやり会いたい人にだけ会うというヘラヘラした日常を送っていたところ、なぜか長崎に到着していました。
喫茶あんでるせん、といえばオカルト沼の人なら誰しも一度は聞いたことがあるかもしれません。
かの有名な超能力が目の前で目撃できるという日本で唯一と言っても過言ではない場所、いつか行ってみたいな〜と10年くらい前からウスラボンヤリ思っていたところ、先日願いが叶ったというわけです。
きっかけは名古屋の山田のパパさんで、なにかの拍子に「あんでるせん行ってみたいんですよね〜」とわたしがつぶやいたところ、
「僕はもう20回以上は通っててね、来月も行くところだったんだよ、席が1つ余ってるから、あなたは空港まで来なさい、あとは面倒みてあげます」
ヨッシャーーーーー
というわけでやはり人生は会いたい人には会っとけやりたいことがあったら口に出しとけという、そんな法則を再確認しつつ、山田さんのお言葉に甘えるを遥かに超過して、桃白白が折った柱に飛び乗るくらいの勢いで山田さんの長崎行きに大便乗したわけです。
ちなみに当日の飛行機は朝早く、成田(相変わらずの成田好き)に向かう高速バスに乗るためには3時に起きなくてはいけないのに、前日の東京の読書会でたまたま大好きな甲府の社長に遭遇してしまったため「ごはん行きたいです!!」と騒いだ結果、ひろみさんや読書会のメンバーみんなと夕方4時半から6時間くらい飲んでカラオケ行って大騒ぎなどしていたため、2時間しか寝ないまま飛行機に乗るはめになりました。
そんなわけで山田さんの運転するバンのなかでも9割爆睡してるうちに、あんでるせんにルーラしていたというわけでした。
自分が案内された席はお店の角の窓際の席で、めちゃくちゃリラックスできるポジションでした。古いゲーム機がテーブルになってるところも気に入って、座って2秒で馴染んでしまい、あんだけ寝たのにまた眠くなってしまいました。
そんなにお腹すいてなかったのでサンドイッチにしました。
というかお腹すいてなくてもサンドイッチにしたと思います、わたしは喫茶店のサンドイッチが大好きなんです、あんでるせんのメニューは昭和の雰囲気がそのまま残るごく普通の食べ物で、サンドイッチも普通においしくて、わたしはショーを見る前に、こんな良い席でザ・喫茶店というサンドイッチを食べた時点ですっかり満足してしまいました。
カレーは食べてないけど、カレースプーンがねじれてました。
山田さんとは別の一緒に行った常連さんが、店内に飾ってあったコーラのびんを持ってきてくれたのですが、CGみたいにビヨーンと上下に長くなっていました。
マスターが謎のエネルギーで変容させたコーラのびん。
美しい。
わたしも相当おかしな世界線を生きてきたせいか、あまりびっくりとかはせず、むしろ少し感動的でした。
物質とエネルギーは相互変換するんだな〜と、さらにリラックスモードで、なんならもう一回寝ようかなと半分目が閉じかけたところでショーが始まりました。
おもしろかったです。
これからあんでるせんに行く人もいるだろうし、ショー自体は撮影NGなので詳細は控えますが、全体を終えてみたわたしとしては「ここのマスターも法則を実践してる人なんだな」という感想でした。
意識を現実化させる、それは誰しもが本来持つあたりまえの能力なんです。
ただそれを抑圧させるような教育とか社会とかになってるからみんな自分の潜在的な才能を封印してるだけなわけです。
超能力とは、自分の可能性を認めることだと思いました。
それがたとえばスプーン曲げだったり物体浮遊だったりテレポーテーションだったりするわけで、でもそれはやはりすべて「たとえ」なんです。
だからみんながみんな見知らぬ他人の名前をあてたり伏せられたカードのデザインをあてる必要はないわけです。
それくらいの感知能力は本来、人間は誰でも持ち合わせている。
前にもノートに書いたのですがわたしは以前、ギリシャレストランで数あるケーキからコインの入ったたった1つの欠片を自分で意図して当てたし、今年のはじめお友達とボードゲームをやって、最後の上がりのときに2つのサイコロを自分で意図して4と1で連続で出しました。
サイコロに至ってはその確率は36分の1の二乗、0.077%ですが、それでも人間という生き物は必要があれば意識の力でその針の先みたいな確率を突破して希望を具現化できるわけです。
その本当の目的はコインを得ることでも1番に上がることでもなく、ちゃんと自分を信じきることができるかどうかの定期テストなんです。
つまりは自身が本来持つ意識の力で、人生を本当に自分にとって善なるものへとシフトすること、それがいわゆる超能力というものに対しての最重要な気づきであり、自分はこの程度と勝手に決めつけている能力を超えることはすべて超能力だとわたしは考えます。
スプーン曲げるのもコインが紙幣のなかを水面のように移動するのも全部、見てる人の意識を変えるためのたとえ、自分が勝手に設けてる自分の限界とやらを外すためのデモンストレーションなわけです。
博士の遺した大切な言葉のひとつに、
「認めたものしかあらわれない」
というものがあります。
つまりそういうことです。
目の前のテレポートがウソだと思えばその人にはできません。
目の前のテレポートを認めた人には、その人なりの意識の現実化が急速に起こるでしょう、ということだと思います。
あんでるせんにはさかさま時計があります。
この世はどこまでいってもプラスとマイナスでしかできていない。
だから表と同時に裏側から物を見るという思考の癖を自分で徹底的に鍛えることで、真の中庸へとシフトしやすいと言える気がします。
自分にできないことはない、ただしそのためには「自分にとってなにが自然か」「自分なりの自然体とはなにか」に帰結する必要があると思います。
だから結局、自分のなかをどこまでも見つめていくことが、真の答えへの最短の道なのだと思います。
全体的に何かそういうことを再確認した場所、それがわたしにとってのあんでるせんでした。
山田さんには本当に感謝しています。
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