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adṛṣṭa phalam 5

今日が更新日だって忘れてて、お酒を呑んじゃいました。

ぼんやりしてて、話の辻褄が合わなくなっちゃうかも。

今から謝っときます、ごめんね。

というか、そもそも坊主が酒飲んで良いのかよって感じかな?

いいんです。

「酒は飲んでも飲まれるな」です。

飲む分には何の問題もないのです。

だから、呑んでも良いんです。

いいんですよ いいんですよ あなたが選んだ道ならば

自分で責任が取れるなら何でも良いんです。

酒も煙草も使いこなせば何の問題も無い、使われるから問題が起こっちゃうんです。

だからね、成人は解禁じゃないんですよ。

「20年も生きたらそろそろそのくらいの分別はつくようになっとけよ」です。

気を付けましょうね。

って、呑まないほうが良い日に飲んでる坊主に言われても説得力が無いな。

ごめんね。(2回目)

はい、本題に入ります。

前回までのあらすじ

は、前回をお読み下さい。

抽象思考と具体思考、それから宗教のお話で、ちらっと親鸞さんの教えに触れたんだったかな。

聞即信

聞く、即ち信。

聞くとはどういうことか。

それは、相手を理解するということ。

その訓練として、浄土真宗には法話がある。

法は人間という集団のルール。

聞くこと。

相手の言葉を聞いて、理解して、答えて、初めて話というものは成り立つ。

言葉面だけじゃなく、心で受け取るんです。

表情や仕草、すべてを以て理解する。

そして、答える、伝える。

『どうしたら伝わるだろう』

それもまた、相手の心を捉える訓練ですね。

そんな場を、浄土真宗は大切にしてきました。

っていう、お話でしたね。


そんで、それから…


ああ、タイトル回収か。

adṛṣṭa phalam 

読める?

私は読めませんでした。

adṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)

サンスクリット語です、お坊さんぽいでしょ。

意味は「見えない結果」です。

なんじゃそらって感じですよね、私はそうでした。

そもそも、サンスクリット語にはdṛṣṭa phalam(ドリシュタ・パラ)という言葉があります。

これが「目に見える結果」という意味を持っていて、それに否定語である「a」を付けたのがadṛṣṭa phalam(アドリシュタ・パラ)なんですね~。

「目に見える」とか「見えない」とかなんやそらって感じですが、これがまさに具体抽象なのです。

dṛṣṭa phalam (ドリシュタ・パラ)

行動に伴う結果

ex) 手を叩く→音が鳴る、食べる→お腹がいっぱいになる、人に喋る→相手に聞こえる(新たな関係が起こる)

adṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)

私達が行動を起こすたび、dṛṣṭa phalam (ドリシュタ・パラ)と同時に発生している目に見えない結果。

インドにおける『adṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)は私達の名の下へポイントのように加算され、それが「運」のような形で将来の行動の結果へ影響を与えられる』という思想。

一見するとスピリチュアルのようにも聞こえますが、これって実はめちゃんこ現実的なんです。

このadṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)を『経験値』と捉えてみてください。

そりゃあ、将来の結果に影響するわぁって納得しちゃうでしょー。

だからといって、どうすることも出来ないんですけどね。

adṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)が欲しいからと言って、そればっかりは積み重ねられない。

adṛṣṭa phalam (アドリシュタ・パラ)にはdṛṣṭa phalam (ドリシュタ・パラ)が必要なんです。

知識を得るには勉強が必要なんです。

浄土真宗には平生業成という言葉があります。

『生きてるうちに人生の目的を達成しろよ』って意味です。

親鸞さんいろいろ言ってるけど、結局はこれがすべてなんだそうです。

で、この「人生の目的」って歴史に残る偉業とかそういう風に語られることが多いんですよね。

それでも間違っては無いんですけど、個人的にはそれだけじゃないんじゃないかなって思うんです。

単純に『動けよ』って意味もあるんじゃないかなって。

人間って、ずるいじゃないですか。

隙あらば楽しようとするでしょ。

痩せたいって思ったら、運動する前に「○○だけダイエット」を始めるでしょ。

違うだろ、走れ。

って、そんな意味もあるんじゃないかな~と思うんです。

だからね、浄土真宗はお守りとかお札は売らないんです。

単純に、お守り100個持つより前後確認を徹底したほうが事故に遭わないからです。そういう考えだからです。

だからね、平生業成も偉業を達成しろとかじゃなくて、もっとシンプルに「現実を見ろよ」ってだけの話だと思うんです。私はね。

「みんな救われるよ」って言う教えもその為のもので、『だから安心して今に集中しな』ってことだと思うんです。

優しいね、親鸞さん。

そしてadṛṣṭa phalam(アドリシュタ・パラ)に戻ると、これは目線の話でもあるのかな。

親鸞さんの言う通り今の人生に集中します。

でも、人生は今だけじゃない。

過去があって、今があって、未来もある。

dṛṣṭa phalam (ドリシュタ・パラ)の「見える結果」って、点なんですよね。

今、現在、なう。

対してadṛṣṭa phalam(アドリシュタ・パラ)の「目に見えない結果」は線なんですよ。

過去を見返し、先を見据える。

どちらも生きる為に重要な目ですよね。

ただ、adṛṣṭa phalam(アドリシュタ・パラ)は重要だけど必要ではないんですよ。

知らなくても生きることは出来ちゃうの。

だから、見ずに生きてる人も沢山居ますよね。

でもね、充実度で考えたら圧倒的に見たほうが良いと思うんです。

だからね、私は勧めたいの。

見たほうが楽しいよ、気付いた方が嬉しいよ。
色んなものの味わいが、もっともっと深くなるよ。
世界の色が増えるよ。

ってね。

強制はしません。

ただ、知ってる人が増えてこの目を分かち合えたら私が楽しいのさ。

だから勧めるんだい。

これを私は省略してadoparaと呼んでおります。

啓蒙活動なんかもしてます。

宣伝してたおえかき教室なんかもその一環です。

もっといろいろしていきたいな、企みます。

ってな感じで、おしまい。

永らくお付き合いありがとうございました。

いざ終わるとなったら淋しいね。

来週なに書こう。

うーん。

まあいいや。

またね。

ありがとう、だいすき。