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『さようなら』



こんにちは。

夏服と冬服が同じ空間に混在する素敵な季節がやってきましたね。


私は寒がりな方なので、冬服族です。

冬服というか、和服なんですけどね。

暑いと帯の部分が蒸れるので、涼しい時期は助かります。本当に。


それでも、私が普段着ている和服(法衣)は振袖や訪問着のようなハレの場に用いる着物に比べるとだいぶ簡略化されており、慣れれば着衣に10分も掛かりません。

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中に着ている白衣という衣の構造は、旅館で借りる浴衣とほとんど同じです。

身長に合わせて仕立てられていますのでおはしょりなんかも必要なく、着たら後は帯を巻くだけです。

その上から、道服と呼ばれる黒い衣を羽織り、袈裟を肩に掛けます。


涼しい時期は白衣はそのままに、道服を普通の紬なんかに変えて別の用事へ向かったりします。

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その際は、帯も半巾や角帯、適当なストールなんかで済ませます。

羽織を着ちゃえば案外気にならないもんですよ。


そんなもんです。


けれども、「お坊さんです」と言うと結構な割合で「あの格好してるんですか?」と聞かれます。

それくらい、服装ってアイデンティティになりうるものなんですね。


人間性が服装に現れるのか、服装が人間性を形作るのか詳しくはわかりませんが、まぁ、どっちもあるんだろうとは思います。

『制服』なんて、服装から人間性を持たせるその最たるものだと思いますしね。

名前からして、ね。「制御する服」だもん。


ドレスコードやTPOなどの社会的マナーからもわかるように、『外見より中身!』とは言え、やっぱり外見って大事なんですよ。


「見えないものを見る」ことの大切さを重点的に話してきた私ですが、やっぱり見えないものは見えなくて。

人間に有るのは五感であって、第六感は頼りに出来ないんです。


人のこころは見えない。中身なんてわからない。


わからないのが当たり前です。仕方がありません。


仕方がありません…けれども、否定してはなりません。

『わからない』は『無い』じゃあないのです。


どんな人にも中身があります。中身があるから外身があります。


それを知った上で、他者と関わってゆかねばなりません。

さぁ、どうしましょう。


外見から読み解いてゆくしかあるまいね。


『裏を読む』というやつです。


日本人は、これが得意でした。

隠喩暗喩はお手の物、言葉足らずもどんとこい。

だから、日本語の挨拶は接続詞なんです。「みなまで言うまい」精神。

日常的に訓練されていたんです。


けれど、それにも限界はあります。

「察してよ!」と言われても、わからんものはわからんのです。


ならば、どうするか。


見せる努力が必要です。


見えない情報を可視化させる工夫が要るんです。

それも、言語化だけではない、服装や仕草、全てにおいてです。


まぁ、言われなくても無意識にそれは行われていると思います。

ですので、大切なのは無意識を意識に変えること。


「こう見られるにはどうするべきか」を意識的に行ってみる。

また「何故あの時あれを選んだのか」と自分の行いを見返してみましょう。

反省云々ではなく、理解の為に。

『匂わせる』手法を身に付けましょう。


そうして己に対する理解が深まることは、相手を理解することにも繋がります。


現代人は、言語に対しては割と能動的になれるのですが、それ以外のコミュニケーションになると少し鈍感で、相手の感受性に頼ってしまうきらいがあります。

ですが、やはり外見も言葉と同じく『話す』『聞く』がそろって、初めて成り立つコミュニケーションです。


ちゃんと、話しましょう。

そして、聞きましょう。


きっとできるはずです、日本人なら。


『さようなら』

この別れ言葉が、私はあまり好きではありませんでした。

あまり使う人が居なかったし、何より『またね』と言われるのが好きでした。


なので、先日ひさしぶりに言われたときはそこそこショックだったんです。

うん。


哀しかったので、次に会ったら論破してやろうと挨拶について暫く考えていました。


そこで分かったのは、日本語の挨拶は特殊だということ。

先ほどにもチラッと書きましたが、日本語の挨拶は『接続詞』なのです。


今日は~~

今晩は~~

お早う~~


これは、世界的にみるとすごく珍しい。

特に、別れ言葉。

外国語での別れ言葉は、大抵の場合が「再会を願う」「相手の幸福を祈る」「健康を祈る」の意味に当てはまるのだそうです。


けれど、日本語は『さようなら』。

他の言葉に置き換えると、「そうであるなら」「そのようであれば」。

漢字にすると『左様なら』。

「左様」は「それまでの内容」の意。


完全な接続詞です。


つまり、日本人は『今日は○○でしたね、ならば次回は○○を!』を一言の接続詞に込めちゃったってことです。

そして、それで成り立って来ちゃったんです。


恐ろしい。

日本人、恐ろしい。


けれど、すごく、美しい。


みなまで言わない奥ゆかしさ、慎ましさ。

それによって、相手に思考の余地を与え、こころに余韻を残すような別れ際…

正に幽玄というか、、、美しい。


これが日本人。これぞ日本人。


侘び寂びや陰翳礼讃しかり、見えないものを見る、見せる、考えさせることにおいては世界一の民族です。

なので、現代を生きる私たちもやってみてできないことは無いでしょう。

だって、お手本が沢山遺されているもの。


そうと決まれば、先ずは身だしなみと挨拶から。


淋しかった「さようなら」も、いまになっては含みを持たせた大人の別れ文句に聞こえます。

大人の階段を上った気分、いぇい。


だけど、先日言われたときに哀しかったのは本当なので、それはそれ。

ちゃんと論破はしておこう。

日本人の精神に則って、含みと余韻を持たせた奥ゆかしさ満点のお返しを…



(≖ᴗ≖ )




左様なら





追記


来月、10月11日金曜日に東京でイベントをします。

noteで書いているようなことを、話したりWS形式で実感出来たりする場です。

気になるなぁって思って下さる方がいらっしゃいましたならば、是非お越しくださいませ。

美味しいおむすび料理が食べられます。

詳しくはFBイベントページにて。

心より、お待ちしてます。


ありがとう、だいすき。