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adṛṣṭa phalam 3

新元号、おめでとうございます。

新しい時代は楽しいですか?
めいっぱい楽しみましょうね。

前回の続きです。

改元とか全然頭に無くって元号を跨いじゃいました。
(『元号を跨いじゃいました』ってすごい、パワーワードだ…)

もう3回目ですね、おそらく今回が締めです。(多分)

第一回は『お絵描きのコツ』について

目:偏りなく全体を見る
心:己の感動を正確に捉える

第二回は『心』について

心は3つ(2つ)に分けられる

意:精神の働き
識:精神の作用
心:意・識の根本

意・識→「猫が居る」
意・識+心→「猫さん居る❤︎きゃわっ❤︎❤︎❤︎」

人間同士の差異は『心』に依って産まれる。
この『心』によって争いは起こり人は苦しむ。
だけど『心』は消せないし、万が一にも消せたら、それはもう私では無い。

だから、私たちは『心』消すのでは無く向き合い共存していく術を身に付けることが必要なのです。

共存=正確に捉える

その能力は、昔は自然に身に付けられるものでした。
でも、現代はそうじゃない。

身につけようと故意に努力して訓練を積んだ者しか手に入れられない能力になってしまいました。
この先は、さらにその傾向が強まっていくでしょう。

訓練を積まなければ!!!

→その訓練には芸術・宗教・哲学が有用です。

中でも『宗教(主に仏教)』

これをクローズアップしていきます(お坊さんだからね)

てな訳で、最終回。

宗教ってなーに?

※あくまでも私の解釈からお話します。
※持論をお持ちの方は、自分の説と違っても怒らないでね。

では先ず、宗教について聞く上で1番気になるであろう「そもそも宗教ってなんのためにあるの?」という部分についてお話をしていきたいと思います。

これはズバリ『衆で生きる為』です。

皆さんご存知の通り、人間は集団で生きるものです。

どんなにソロプレイを目指そうと、完全な独りにはなれません。
なれるのは「人の輪に在る上での独り」です。

けれど、前回お話をした通り人間は個々にそれぞれ別の主張を持っています。
共に在っては必ず争いが起こるでしょう。

それではいけない。
それじゃあ誰も生きられない。

ならば何が必要か?

ルールです。

組織にはルールが必要不可欠です。

会社なり学校なり国なり、全てルールを持っているはずです。
それは、組織を維持する為に必要だからあるのです。

でもね、その校則や法律なんかのルールはそれだけじゃあ機能しないんですよ。

何が足りないのかっていうと、もう一つのルール

『組織の一部』という自覚です。

人の作るルールなんてものは、あっても守る気がなければ意味が無いんです。
じゃあその守る気はどうしたら生まれるのかっていうと、これ『人間という』組織の一部という自覚です。

その自覚を私たちへもたらし、人間の一部としての心持ちを指し示すのが『宗教』なのです。

だから、宗教の言うことって綺麗事ばかりでしょ?

「人に優しくしなさい」とか「両親を大切にしなさい」とか、当たり前のことばかりなんです。

スカートを膝丈にするとか腰パンしないとか、それ以前のお話です。

「そんなこと、わざわざ言う必要ある?」って思ったでしょ。

あるんです。

当たり前のことも言わなきゃわかんないんですよ、人間って。

それは『心』があるから。

みんな別々の『心』を持って、それがまた見えないもんだからわかんないの。

何を大切にして何を妥協するか、それは人から学ぶしか無いんです。

そして、その学びには失敗が伴うことが多い。
誰かを傷付けたり、また傷付けられたり。
嫌ですよね、しんどいですよ。
失敗せずに学べるもんなら学びたいです。

そんなあなたに『宗教』

人間社会での生き方を、失敗して痛い目を見る前に教えてくれます。

これまさに『人間社会のルール』

とっても根本的なね。
エスカレーターの右を空けるとかそんなレベルじゃありません。

とってもとっても大事な教えですよ。
単純に知ってたら便利です、要らぬ失敗を避けられますからね。

でもね、哀しきかな現代において宗教は廃れる一方です。

これはね〜、やっぱり日本人は可視化された情報に慣れてしまったからなんだろうなぁと思います。

宗教って実感し辛いんですよね、上手くいってるうちは特に。

逆に、失敗したら分かりやすいんです。

だから、何かに挫けて辛い時に宗教にハマる人多いでしょう。
あれはあれで危ないんですけどね。

話を戻すと、『心』って見えませんよね。

宗教って『心』の解説書でもあるんです。
だから、そもそもちゃんと『心』を捉えている人にしかその真否を理解出来ないんです。

だから、捉えられてない人が見ると何もわかんないから「胡散臭い」

この能力を最近流行っている言葉で言うと『抽象的思考』『具体的思考』です。

『心』を捉える能力を『抽象的思考』、可視化された情報を重視することを『具体的思考』としますね。

こうして区別しましたが、勘違いしないで欲しいのはどちらの方が良いと言う話ではないと言うこと。

抽象も具体も等しく大切です。
どっちも私たちには必要な能力です。

ただ、私達は文明の発達と共に思考が具体に偏って来てしまいました。

物事の表面しか捉えられない、その奥にある本質を見抜けない。

「指示待ち人間」なんて良い例ですよね、頼まれた作業は出来ても仕事の流れは読み取れないから自分では動けない。
物事の表面しか見えていないからです。

これは、学校教育で学びを一律化しちゃったのが悪かったのかもしれませんね。

本来学びとは学校とその他で半々だったと思うんです。
学校でいわゆる最低限の知識を学び、その他で宗教のような精神の素養を身に付け確立させる。
精神は己の身体のようなもので、学校から身に付ける知識という学びは武器でしかなかったはずなのです。

なのに、それが逆転してしまった。

己の身体を養う前に武器を持ってしまった。
そして、武器の収集法だけを覚えてしまった。

その結果、己の身体の使い方が分からない。

この「身体」とは、頭の使い方のこと。つまり思考。
知識では無くその根本の思考回路、これが簡略化されてしまったんです。

優れた武器を沢山持っても、それを持つ己の動きが少ないと有効に活用出来ないんです。

コマンドがパンチかキックしかないんです。
↓↘︎→Pとか↑↑↓↓←→←→BAとか無いんです。

『思考を深める=己の思考を理解する』ですからね、『心』と向き合うに同義です。

発達した文明も、使う己が己を操作出来なきゃ意味無いんです。

だからむしろ、文明が発達した今こそ『心』を捉える能力『抽象的思考』を養う必要が有るんです。

で、この能力の重要さにも昔の人は気付いていてその為の訓練とか教えを残しているのですが〜

めーっちゃ長くなったので一旦区切りますね。

軽い気持ちで始めたこのお話、こんなに長くなるとは思わなかった。

ちゃんと終わるかなぁ…心配。


来週へ続く!!!

ありがとう、だいすき。