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adṛṣṭa phalam 4

終わりませんでした、続きです。

もう週1note、この話だけで良いんじゃないかと開き直り掛けてます。

そうなるかな。どうなるかな。

成り行きに任せましょう。

前回までのあらすじ
第一回は『お絵描きのコツ』について

目:偏りなく全体を見る
心:己の感動を正確に捉える

第二回は『心』について


心は3つ(2つ)に分けられる

意:精神の働き
識:精神の作用
心:意・識の根本

意・識→「猫が居る」
意・識+心→「猫さん居る❤︎きゃわっ❤︎❤︎❤︎」

人間同士の差異は『心』に依って産まれ、この『心』によって争いは起こり人は苦しむ。
だけど『心』は消せないし、万が一にも消せたら、それはもう私では無い。

だから、私たちは『心』消すのでは無く向き合い共存していく術を身に付けることが必要なのです。

共存=正確に捉える

その能力は、昔は自然に身に付けられるものでした。
でも、現代はそうじゃない。

身につけようと故意に努力して訓練を積んだ者しか手に入れられない能力になってしまいました。
この先は、さらにその傾向が強まっていくでしょう。

訓練を積まなければ!!!
→その訓練には芸術・宗教・哲学が有用です。

中でも『宗教(主に仏教)』

これをクローズアップしていきます(お坊さんだからね)

第三回 宗教について

なんかいろいろ喋ったなぁ、喋っちゃったなぁ。

まとまるかなぁ、まとめよう。

宗教の意味=衆で生きる為

人間=集団で生きる

  =ルールが必要

  =ルールは守られないと意味が無い

  =集団のルールを守る→集団意識が必要

集団意識を培う=宗教

この集団意識とは、『人間という組織』のルールです。

六法全書には載らない、『人に優しく』とか『家族を大切に』とか、そんな当たり前のことです。

誰でもわかることなんですが、誰かに止めてもらわないと駄目なんです。

『暴力は駄目』ってわかってても、めちゃんこ嫌な奴が居てめちゃんこ腹が立ったら「殴っても良いや」って思っちゃうんです。えへ。

心があるせいですね。

そして、近年の話題に触れますと『いじめ』とかね。

精神的な問題は、もっと難しいんです。

何が難しいかって言うと、自分を「正当化しやすい」からなんですね。

きっとね、人間の身体が精神的被害を受けたら『目から青い涙が流れる』とか、そういう機能を持っていたらもっと違ったと思います。

人間はね、ずるいんです。

自分が間違ったことをしたら、先ず「自分は悪くない」の言い訳探しをするんです。

そして、この情報社会では『目に見えない』ものは『無いもの』にされちゃいます。

心の『つらいよ』『苦しいよ』は、「証拠はあるんですか?」にかき消されちゃうの。

そして残るのは傷ついた心だけ。哀しいね。

傷ついた側は怪我したまんまだし、傷つけた側は「俺は何もしてない!」だから何も変わらない。

原因究明をしないから改善もしません。

人間社会でそれをしたら終わりです。

賢くなったつもりで失敗に敏感になってる私たちですが、所詮は『try&error』でしか成長できないんですよ。

自己の間違いに向き合い、反省をするんです。

腹が立ってふるった暴力はいけないことだった。

→じゃあ、どうすれば良い?

不満を口頭で伝えるとか、必要以上に関わらないとか、別の方法を考える。

『いじめたつもりは無い』

→それでも、あなたの言動が相手を傷つけたのは事実です。

 不慮の事故なのであれば、なおさら改善しなければ。

肉体に置き換えればすぐにわかります、当てるつもりは無かった球が当たっちゃったんですね。

なら、傷の具合を見て、手当てをして、痛い思いをさせちゃった分「ごめんなさい」「大丈夫?」って目一杯優しくするんです。償うんです。

そして、「もう人に怪我をさせてしまうようなところで球遊びはしません」って行動を改めるんです。

それだけの話なんです。

それだけのことが、心では出来ない。

見えないからです。

見えないは『わからない』、わからないは『恐怖』なんです。

怖いんですよ、見えないものを受け止めるって。

「傷付けた」とか負の感情は特にね、心が嫌がっちゃう。

だから、「無かった」ことにしたい。

だから、お坊さんは心を鍛えたんです。

自分の過ちと向き合えるように、感情に振り回されず物事を見つめられるように。

自分を守ることだけに囚われず、人間という集団を軸に物事を考えられるように。

これを昨今の言葉で言うと『具体的思考』と『抽象的思考』です。

「心を捉える能力」って表わしてたけど、仏教では物事の心理を見通すって全ての事象に対して使うんです。

具体的思考:表面的な事柄を中心にした思考

ex).叩いたら痣が出来た、注文した料理のうち○と○と○が来た。

抽象的思考:物事の要点のみを抜き出す思考

ex).受けた仕事のうち○割が終了した、○と○のトラブル要因は△。

どちらも私たちにとって必要な能力で、これらが半々に存在するのが理想です。

でも、現在は前述の『見えないものは無しとする』ような可視化社会の影響か「具体的思考」へ寄っちゃってます。

今こそ宗教、抽象的思考を養うのです。

ってところまでが、前回のあらすじでした。

このテーマは解釈してもし切れなくて、何回でも書いちゃうね。

書ききれるかなー、長いなー、うわー、ごめんね。

で、その抽象的思考を養うことには先人方も注目していて、それに対する教えをちゃんと残されています。

日本で一番多い仏教の宗派と言えば、『浄土真宗』です。

その浄土真宗を例にしてお話をしたいと思います。

先ず、浄土真宗は仏教の中で結構新しい方です。

鎌倉時代に親鸞聖人という方が開かれました。

その特徴というのは、『みんな救われる』という教えです。

それまでの仏教では、厳しい修行を終えた者しか救われませんでした。

しかし親鸞聖人は『そんなのおかしいぜ、仏様はそもそも俺らを救いたいんだ。なのに俺らが何かしなきゃ救えないとか、仏パワーを舐めんなよ』っていう解釈をしたのでした。

※フランクだけど怒らないでね。

そして、真宗では『念仏』が大事だよって説かれます。

なぜなら『仏様は俺らを確かに救ってくれるけど、俺らはそれを理解できない。愚か也。』なので、仏様が『お前を救うぜ』っていう証拠をわかる形で見せてくれたのが『お念仏』なんです。

仏様が私の口を通して『指切げんまん指切った』って言ってるという考え方ですね。

ちなみに、ここでいう「救い」は「お浄土行のチケット予約済み」ってことです。

『死んだら即お浄土へ行けます、だから安心して今生を満喫したまえ。』ということです。

ここまでが浄土真宗の概要でした。

抽象的思考の訓練についてに戻りますと、浄土真宗が念仏ともう一つ大切にしてるのが『法話』なんです。

この法話ってどういうモノかというと、『仏法のお話』です。

仏法は、「仏の法」で「人間という集団のルール」ですね。

それを『話す』んです。

話ってね、説明してと言われたらどう答えますか?

私は『聞くこと』だと答えます。

「喋る」だけじゃ『話』にはならなくて、相手の言葉を「聞」いて、理解して、そして「答える」。

そこで初めて『話』が成り立つんです。

浄土真宗には『聞即信』という言葉があります。

聞く=信心

信心は、仏様との約束が交わされた状態です。

なので『相手の言葉を聞く=救い』とするほど、聞くことを重要視しているんです。

そして、『聞く』ということは相手を理解するということ。

それはつまり『心を捉える』抽象的思考です。

特に浄土真宗では参拝者が話を理解するということをとても重要視して、高座の上で説教するのが当たり前の時代に参拝者と同じ目線で平座をして話したり、偉い僧侶がわざわざ質問の場を設けたりしたという逸話が残されています。

それほどまでに、『聞く』という訓練を重要なものだと感じていたんですね。

その他にも教えは色々とあるんですが全部書いていたら広辞苑レベルに分厚くなっちゃうので、この辺に。

だいぶ大詰めですが、あと一回だけ使わせて頂きたい…

次号 タイトル回収(予定)


ありがとう、だいすき。