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20200119-成功という名の花束に埋れたいのだ

自家中毒症のように創作を繰り返す生き方のわりには、感情表現が苦手だ。

基本的に文脈でしか物事を表せないし、著せない。
人並みにナーバスになったり嫌な記憶が頭を駆け巡ることも、当然ある。空想に逃げ込んで大事なことを見落とすこともある。一旦辞めて、また始めることもある。
すべてに於いて、文脈は尊重されるべきだという思い込みがおそらくある。その思考自体が固着してしまっていては、文脈から遠ざかってしまうのだが。

世界は文脈の上に存在しているようで、その実まったく自由に普遍的意識の下を潜り抜けては表層に現れる気まぐれな青い鳥である。万人の傍にあって、そこにない。形而上だとか下だとかをそもそも議論する意味がない。
それなのに我々は、定義を求めてしまう。自らに貼るラベルがきっと何処かにあるはずだと無根拠に信じている。今ここにある自分を、わざわざ過去や未来から色眼鏡で批評する。ストリーミング形式でしか人生は消費できないのに。

つまり、自分の感情を認めて表現する練習が必要だ。「成功したい!誰にも縛られずに人生を使い果たしたい!」早速やってみた。どうだろうか?
書いてみて気が付いたが、縛るのは人間の専売特許ではない。猫にだって縛られるし、言葉にだって縛られる。何より縛りたがるのは、自分自身(のマインド)だ。

「マインド」は人間の言語のメタファーで、言い換えるなら「脳内再生される映像・音声」「周りに聞こえないひとりごと」「耳元でささやく天使(または悪魔)」「思い込み」「(マインドにとっての)事実」である。
マインドは敵でも味方でもなく、自らの機能を全うするシステムに過ぎない。気を引くためなら事実もねじ曲げるし、外見を容赦なくこき下ろす。自信を与えたり弁護することも得意だ。

では、そこに本当に縄はあるのか?

徒歩15分の中型ショッピングセンターに散歩がてら赴く。数えていないが週に1回くらいは訪れている。日曜だからかいつもより人が多く催事スペースも賑わっている。1階のやや珍しい100円均一でS字フックをいくつか冷やかして、色のバリエーションにがっかりする。ネットが黒なのに白をつけたら台無しになる。食品売り場のパンがどれもマーガリン入りでがっかりする。パンは簡素であればあるほどいい。葛藤むなしくバナナの誘惑に負けて菓子パンを半分食べる。黄色い果物と炭水化物の組み合わせにめっぽう弱い。フードコートのクレープ屋が特売日で平日の♾倍並んでいる。0との比較は倍数ではなく絶対値でやった方が絶対いい。カップ抽出式の自販機でイタリアンローストのブラックコーヒーを買う。持続しない薫りを楽しむ。村上春樹が決して飲まない味がする。これ以上寄り道を増やすと散財するので帰ろうと同行していた妻に提案する。帰ろうと返事がある。気づけば17時を過ぎて日没。堤防を爆走したがる車を避けて足元の悪い遊歩道にわざわざ下りる。重度の肥満症患者を巨大な風船に喩えて心疾患リスクの話をする。安い鉄グリルパンでふるさと納税(の返礼品)の牛タンを焼く。まだ使い始めて間もないので少し使いづらい。当然コーティングされたフライパンの方が扱いやすいが、焦げ目の味がやっぱり違う。道具に何故いつも執着してしまうのか。手挽きのミルは早くもハンドルがガタついている。何を把持するにも利き手を空けるために左手首が犠牲になる。疲れて動作が雑になると右手中指の間合いを間違える。完治したばかりの突き指を思い出させる衝撃を洗濯機の開ボタンに与えられる。ベースのオクターブチューニングがおかしい。開放弦でチューニングすると決めたのは誰だ。弾くポジションで合えばそれでいいのだ。嘘だ。高級じゃなくても安定したジャズベが欲しい。あとはレスポールの音がするハムバッカーが欲しい。レスポールとMarshallアン直の組み合わせはどうしてあんなにもあんなになのか。何弾いても「ガッーー」としか鳴らない。そこにSM57を立てたらもう世界中どこのライブハウスでも再現できるあの音が完成する。容易くJCと生ドラムに掻き消されるあの音が。ボーカルの次に消えるあのMarshallを、私たちは耳の奥で憶えている。ホント使いづれえな、と思いながらそっとキャビネットの角度を調整する。Marshallの一番使いやすいオプションはキャスターかもしれない。

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