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楽しい地獄と報われる事の無い『生存罰』

※ヘッダ画像は内容とは特別関係無いです。強いて言えば、この neofetch の結果が出力される様に調整している間も『楽しい地獄』だったかと。

以下。それこそ頭をヘヴィメタルとかのヘドバンの如く頷きたくなった。

振り返り

ここ最近は、
「創作できると楽しいぞ?」
とは積極的に宣っているものの、創作行為の実情であるこの楽しい地獄についてはあまり話していなかった。しかも敢えて避けていたかもしれない。

特に理由は無い。あったかもしれないが、やっぱり『楽しい地獄』と露骨に言えば、地獄・苦痛のドブ沼の印象しか伝えれそうに無いからである。

他にあるかと問われれば。選んだ地獄に入り浸る事を許されない印象を抱く事が最近は多かった。ただそれだけだ。

労働で忙殺されて、寝過してしまった休日にも着手できなかった楽しい地獄の旅路は、
「自立した生活」
の為には捨てなければならない物になってしまったとさえ思える。

自立した生活の為には、労働に順応しなければならぬ。労働に順応し、生活費を賄い、生活をしなければいけない。

また、生活基盤というものが労働の下に全ての土台として成り立つのだが、私自身全く意識の至らぬ所でこいつが腐り切って潰れていた様で、今は生活困窮者にまで成り下がり、その上平日は精神科のデイケアに通所する様である。

当たり前である。まともな生活・社会への順応が適わなければ、いわゆる自己実現という高貴なものは叶えられないどころか、望む事も許されはしないだろう。現に、デイケアへの通所が確定しない間、溜っていた創作活動に取り組んでいた私は、生活支援員さんから『収入になる活動では無いので、健全ではない』と指摘を受けたのだから。

そりゃ、こういう様を見れば両親も、
「諦めが肝心だ。諦めろ」
と言いたくもなる。ましてや社会の現実という生存罰から楽しい地獄へと逃避しているのだとも言いたいだろう。そして実際、こうやって文字を打ち込めたのだから、自分自身認めているのだろう。

「やるべき事をやってから、物を言え」

それだけの話だと再三自分に言い聞かせているのに、どうして昔から、それこそ10歳の頃からできずにいるのか。

学校だ。勉強だ。興味の無い事に対して、自分は周りから注意や指摘をされた通りに勉強しなかったから、自らが嫌悪する苦行に取り組まなかったから、こうなっているんだ。怨むなら、過去の自分を怨み、今の自分をふるい立たせろ。

これも散々自分に言い聞かせているのに、30歳にもなって朝起きても怠くて寒いからという動機だけで二度寝を平気でして、寝坊した時にはその過去の自分をひたすら怨む事に終始している。

全く生産的でも無いし、もちろん改善もしていない。

自分の見い出した対処療法は全て的外れ。他人に尋ねれば、意志や気合で終始する。

自己管理・監視する意思が無いのだろう。そんな人間が、表現や主張を声高々に人々に推し進めるというのは、ちゃんちゃら阿呆な話だって事だ。

これ以上書いても、
「社会や経済に有益な活動をできないこの自分という人間を、社会や経済の権限と正義の名の元に処分してくれ」
という事をだらだらと書き連ねるだけなので、ここで止めておく。

フリー(自由)ウェアでの自由な創作活動の探求と推進したいっす。みんな妄想や空想をもっと書き(描き)出すといいと思うのだけどなあ……。